災厄の始まり④
カルギアの街並みは夜に包まれていた。常闇と静寂の世界に、無数の光点が天空と地表に散りばめられている。天然の星の光と、人口の電光だ。
ベランダの鉄柵に顎を乗せたザヘルが、茫洋とした視線で夜景を見つめていた。
「何を考えてるの?」
部屋の中からかけられた声に、ザヘルは横目で背後を見る。
硝子戸越しにザヘルを見つめる瞳は、いつまで見ていても飽きない宝石の青。短く整えられた赤毛の髪は、絹糸のようにきめ細かく滑らか。浮かべる笑みは大人の力強さと子供の無邪気さを併せ持った、少女のような笑みだ。
対して恋人を見返すザヘルの瞳は、拗ねたように濁っている。
「ここからは夜景がよく見えると思ってな」
遠回しに景観のいい部屋は家賃が高いだろうと、ザヘルは口を尖らせて尋ねた。
ザヘルの自宅と同じ賃貸物件といえど、部屋数は二倍、面積は三倍で、ちょっと妬ましい。おまけに居間と寝室に受像機が二台も置いてある。こちとら一台しかない受像機の視聴を巡って、母子で骨肉の争いを繰り返しているのに。
「そろそろ部屋に戻ったら? 虫が入るわよ」
子供じみたザヘルの態度に、パキフィリアは弟の悪戯を見守る姉の表情で微笑んだ。
適当にあしらわれた自分が恥ずかしくなって、ザヘルは無言で室内に入る。
夕食の残骸は綺麗に撤去され、今は夥しい資料の山が食卓に布陣していた。ザヘルは思わず辟易の表情を浮かべる。
パッキィはザヘルと違って、仕事でそれなりの役職に就いている。責任も重圧も重く、本人も期待と義務に応えようと奮闘していた。
ザヘルが無言で見守る中、僅か数十分で資料の山は十数枚の用紙に纏められ、薄っぺらい亡骸になっていた。
「んー! 終わったぁ~!」
両腕を限界まで天井に伸ばすパッキィ。凝り固まった体をほぐすように、両肩を回す。
「たまにはサボっちゃえば?」
「それって不良の考え方よ」
恋人の少しズレた労わりに、パッキィは不満げに眉を寄せる。
「それに、これが私の決めた生き方だから。投げ出せないわ」
「それがサルダの残した、呪縛の未来だとしてもか?」
「ザヘルっ!」
突き刺すようなパッキィの怒声。ザヘルは逃げるように、彼女から顔を背ける。
「悪い。失言だった」
つまり彼女も寄棲獣に人生を狂わされた、ありふれた不幸な女の一人なのだ。
ザヘルが顔を俯け、逆にパッキィが表情を曇らせてしまう。パッキィの生活はザヘルと仕事が大半を占め、彼女にとってザヘルの機嫌は、国家情勢よりも深刻な問題である。
「気にしないで。自分でも分かってるから怒っちゃうのよ」
ザヘルに合わせて態度を変える彼女は、同性からは〝媚びている〟と見えるのだろう。
上体を俯けたまま、首だけ回してパッキィを見るザヘル。その目は卑屈なまでに陰気な光を宿していた。
ザヘルは手を伸ばし、パッキィの顔に触れる。パッキィの顔には右の額から鼻梁をまたぎ、左頬まで醜い傷痕が走っていた。
「昔、俺がつけた傷だ」
「ええ、大切な君との、最初の思い出よ」
懐かしそうに、愛しそうに、平気で言ってのけるパッキィは常識外れなのだろう。そんな彼女に惹かれるザヘルも。
「ザヘルが気に病む必要はないわ。だって私は、あなたを愛してるんですもの」
満面の笑顔を浮かべるパッキィ。ザヘルはパッキィの言葉を頭の中で反芻し、
「今までの会話と愛の告白と、どんな関係が?」
「もう、そこは騙されてでも『俺も』って言うところよ」
ここまではどこにでもある、じゃれるような男女の痴話喧嘩。
(ついでに『結婚しよう』って口を滑らせなさいよ。そういう空気でしょ)
(御免、それはできない。やっぱり俺は、子供を持つのが怖いんだ)
しかして両者の間では、凄まじい速度で目線による会話が行われていた。
寄棲獣の感染経路は主に三つ。
最も多い事例が、成体化した寄棲獣から卵を体内に産みつけられる場合。
二つ目は何らかの原因で宿主を幼体失った寄棲獣が、新たな宿主に寄生する場合。
そして少々特殊な事例として、宿主の親から宿主の子が成される場合である。
寄棲獣の成体化とは、人体から外界に進出する段階を指す。幼体であっても産卵は出来るのだ。
寄棲獣の卵は人間の精子で受精でき、宿主が父性の場合は性交の際に精子と共に卵を母体に送り込む。性器、肛門、口腔や鼻腔など、体の中心部に直通される部位が最も孵化率は高い。また、前述した仕組みから、厳密には男性同士での感染もありえる。
卵の孵化日数はおよそ数日。母体と胎児の両者に宿主化する可能性があった。
ザヘルの場合は少々事情が異なるが、子供に寄棲獣の形質が出るのは間違いない。どちらの種族でもありどちらでもない不安感、宿主が抱く寄棲獣の成体化への恐怖、そして寄棲獣の有する人食衝動。ザヘル自身がそうであるからこそ、それら全てを我が子に強いらせ、抑制させるのに尋常ならぬ抵抗がある。
何よりこんな自分が父として子供に伝えられるものがあるのか、不安で仕方がない。
だから十年近く交際している恋人との入籍を、ザヘルは躊躇わざるをえなかった。
(というか、律儀に避妊するよりも、変態的な性癖をどうにかして欲しいんだけど?)
ザヘルが顔を背けた拍子に、大瀑布となった脂汗が飛び散った。
(それに私は、子供を産めなくても構わないのよ? 養子だっていいわ)
(駄目だよパッキィ。俺はきっと、夫婦という契約を結んだら子供を産ませずにはいられない。けど、君と別れることもできない臆病者なんだ)
愛する女性との間に子を成したいと思うのは、人間として当然の本能だ。ザヘルはその衝動を、未婚という薄っぺらい契約一枚で抑えているにすぎない。
ザヘルの回答は最初から予定されていた。パッキィも愚かで不毛な問答だと知りつつ行ってしまった。繰り返してしまった。もう、何度目になるか分からないやり取りを。
「結局、現状維持の保留なのよね、いつも」
「君には本当にすまないと思っている。
こんなダメ人間を支えてくれているのにも、心から感謝している」
「それじゃ、日頃の鬱憤を晴らすために殴らせて」
笑顔を浮かべたパッキィ。子供じみた解決策に、ザヘルの頬を冷や汗が伝う。
「えっと、お前、自分の歳言ってみそ」
「今年で二十八よ。けれど子供心を忘れちゃいけないと思うの」
笑顔のまま、パッキィが攻撃開始。
「いたっ、痛いって。微笑ましく見えるけど、グーでポカポカ殴られたら結構痛いから。しかも全部急所狙いかよ!
お前本気で自分の職業忘れてるだろ!」
「…………あ」
そもそも彼女の顔に傷ができる羽目になったのも、成人男性が少女を相手に、本気で攻撃しなければ撃退できなかったから。
パッキィは頭に手を置き、片目を閉じ、唇から小さく舌を突き出して、
「…………てへへ☆」
「無理だから。年齢的にその誤魔化し方は、人魚と狼男の恋愛くらいに無理がありすぎるから。何が生まれてくるんだよ」
「……魚狼?」
「人間の要素、なくなったな」
結局、紆余曲折を経て痴話喧嘩は終息した。いつの時代でもバカップルは最強なのだ。
ザヘルはアブルの意識が眠りの底にあるのを確認して、パッキィを手招きする。パッキィもすぐにザヘルの意図を察して、顔を近寄らせていく。
仲直りの儀式であるかのように、二人の唇が近付いていき、
その光景を、すぐ隣でマリアが凝視していた。
悲鳴すら上げられず、石像の如く硬直する二人の男女。それぞれの片目だけが、機械の無感情さでマリアに向けられる。
マリアは無言で二人を見ていた。じぃ~っと見ていた。ひたすら見ていた。
「続けてよいぞ?」
「無茶振りすぎるだろ!」
母の提案を、ザヘルは鬼気すら迸らせて拒絶。
「つーかお袋、どうやって入った?」
「ザヘルが寝ておる間に、こっそり合鍵を作って」
つまり鍵と一緒の棚に入れてある、紳士の秘蔵品まで見られたということだ。
「……いつからそこにいた?」
「最初から」
つまり挨拶の口付けから始まって、夕食を作りながらイチャイチャ、さらには夕食の「あ~ん♪」まで見られていたということだ。
「夢も希望もありゃしねえ!」
ザヘルは躊躇いなく窓から飛び出した。十三階の窓から。
二人が窓から身を乗り出すと、すでにザヘルの後姿は遠くの交差点に踏み入っていた。
「こんな生活もう嫌だ!」
大の大人がベソをかきつつ、夜の街へと逃げていく。
残された二人は、どちらからともなく顔を見合わせ、
「今日はもう遅いですし、泊まっていかれます?」
「朝餉に牛乳を忘れるでないぞ」
翌早朝、出勤するパッキィが一階の駐車場に降りてくると、先客として昇降機の出口に陣取る人物がいた。男は単車に跨ったまま、パッキィにヘルメットを投げてよこす。
「送ってくよ」
昨夜の出来事に照れているのか気まずいのか、ぶっきらぼうにザヘルは言い放った。パッキィもこそばゆく微笑む。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
後部座席にパッキィが乗り、胴に手が回され、単車が発進される。
早朝のカルギアは、昼間とはまるで別世界だ。霧の中にあるかのような、透明な闇の底に沈んでいる。真新しい静寂が沈殿し、空気は清涼感すら覚える鮮烈さ。
「なあ、今度の連休、どこかに行こうか?」
仕事場への道のりも終盤に差しかかったところで、おもむろにザヘルは口を開いた。
「いや、ほら、最近パッキィ疲れてるみたいだから。せめて息抜きぐらいはお膳立てしなきゃなーと思って」
責めてもいないのに言い訳するザヘルの横顔は、どうしようもないくらいに照れて、赤面して。
恋人の気遣いに、パッキィも嬉しげに頬を染めて。
二人の仲は周囲がふやけるくらいに円満で。
彼らの日常は、大抵こんなもんだ。




