錆びた甲冑の詩 第1章 錆びた甲冑廊
甲冑廊は、法典広場の奥にあった。
奥、と言っても、隠されているわけではない。広場の白い石段を下り、銀葉の垣根に沿って歩くと、低い月光門が見える。門の上には、古い紋章が三つ並んでいた。どれも磨かれすぎていない。銀色の縁に、赤茶色の細い点が残っている。
錆だ。
僕はそう思って、すぐに言葉を引っ込めた。
錆、と呼んだだけで、落とすものに見える。
でも、ここではまだ、落とすものかどうかも決まっていない。
「その顔、少し立ち止まっているね」
ククルーが言った。
「どの顔かな」
「言いかけて、しまった顔だね」
「顔に出ていましたか」
「足元にも出ていました」
ククルーは本当に足元が好きだ。
門の前で、リンドが立ち止まった。
「ここから先は、声が少し遅れる」
「声が?」
ティオが聞いた。
リンドは門の内側へ目を向けた。
「甲冑が、先に聞く」
その言い方は奇妙だったけれど、門をくぐるとすぐに意味が分かった。
廊は長い。
左右に甲冑が並んでいる。人が着るものというより、人が立っていた時間を形にしたものに見えた。丸い肩、細い腕、膝を守る板、月光を受ける胸。どれも空っぽだ。なのに、通り過ぎると、少し遅れて内側から音が返る。
かす。
きし。
ふう。
足音ではない。返事でもない。けれど、こちらの歩き方に合わせて、何かが動く。
「おはようございます」
セリカが小さく言った。
その声は、すぐには廊に届かなかった。
一拍遅れて、右側の甲冑の胸元が、き、と鳴った。
セリカは息を飲む。
「今、返事を」
「返事と決めると、早い」
リンドが言った。
「はい」
セリカは筆を握り直したが、書かなかった。
甲冑廊には、窓が少ない。
まったく暗くはない。ルミエールの月光は、朝でも細く残る。銀葉の反射が天井の隙間から入り、甲冑の丸い面をなでる。けれど、光はまっすぐ落ちない。何かに遠慮しているように、細く、斜めに、少しずつ入る。
強く照らせば、きっときれいに見える。
紋章も、甲冑の並びも、古い銀の縁も。
でも、強く照らすと、聞こえなくなる音がある。
僕たちは、もうそれを知っている。
「ここは、祝祭の場所でもあったのですね」
オルガが、左右の甲冑を見ながら言った。
「紋章筒の古い留め具があります。花火場の石輪と、形が似ています」
「行列の先導で使った」
リンドが答える。
「法典を運ぶ日、銀樹へ新しい託宣を返す日、遠い巡礼者を迎える日。甲冑は、前に立った」
「前に立つもの」
ティオがつぶやいた。
その声に、左の甲冑が、かす、と鳴った。
ティオは袋に手をやりかけ、止めた。
銀の輪は出さない。
その手元を、僕は見た。
使わなかった時の手。
ここでも、ちゃんと続いている。
廊の奥から、鍵の音がした。
ちゃり、と小さく鳴って、すぐ止まる。
鳴らしすぎない音だった。
人影が、甲冑の列の間から出てきた。銀葉紐で束ねた鍵束を片手に持っている。長い上着の裾は、廊の床に触れそうで触れない。髪には銀の細い紐が編み込まれていて、その先に小さな錆色の札がひとつだけ揺れていた。
リンドが姿勢を正す。
「ミラ」
「月光卿」
ミラと呼ばれた人は、半歩下がって礼をした。
その半歩は、リンドの半歩と似ていた。
前に出すぎないための半歩。
「甲冑詩守のミラです」
ミラは僕たちを見る。
視線は鋭くない。けれど、すぐには入れてくれない。入口に白い線があるような目だった。
「詩片を見つけたと聞きました」
「見つけた」
リンドが答える。
「読んだのですか」
「読んでいない」
ミラの鍵束が、ほんの少し鳴った。
ちゃ。
安心した音にも、疑った音にも聞こえた。
「読まなかった理由を、聞いてもよいですか」
ミラが言う。
僕は、少し迷った。
理由をきれいに言うと、理由が先に立つ。詩片の前で止まったことを、正しい手順のように見せてしまう。
ククルーは何も言わない。
だから、僕は、短く言った。
「読めそうに見えたからです」
ミラは、まばたきをした。
リンドも、セリカも、ティオも、オルガも黙っている。
僕は続けた。
「読めそうに見える時ほど、先に足元を見たほうがいいと思いました」
ミラの鍵束が、今度は鳴らなかった。
鳴らさないように握ったのだと分かった。
「それは、誰に教わったのですか」
「いろいろな人に」
僕は答えた。
ククルーが、少しだけ胸を張った。
「主に、旅にだよ」
「旅に」
ミラは、その言葉をすぐには飲み込まなかった。
甲冑廊の左右で、低い音が移動した。
きし。
ふう。
かす。
まるで、廊もその言葉を聞いているようだった。
「ここには、詩があります」
ミラは言った。
「ですが、詩を外へ出す場所ではありません」
セリカの筆が、少し動いた。
書きたい手だ。
でも、セリカは書かなかった。
「なぜ、外へ出さないのですか」
ティオが聞いた。
ミラはティオを見る。
「守っているからです」
ティオの肩が、少し固くなった。
その言葉は、ティオに近い。守る。守りたい。閉じたくない。でも、守ると言われると、うなずきたくなる。
リンドが静かに言った。
「守ることと、閉じることは同じではない」
「存じています」
ミラの声は低かった。
怒ってはいない。けれど、そこには長い時間があった。
「ですが、外へ出した詩は、外の名前をもらいます。勝者の歌、古い栄光、時代遅れの甲冑、失われた行列。そう呼ばれ始めると、詩が詩でいられなくなります」
オルガが、息を止めた。
「きれいな名前も、ですか」
ミラはうなずいた。
「きれいな名前ほど、先に立ちます」
その言葉に、オルガは横に寝かせた筒を見た。
上げない筒。
きれいに照らせば、見える。でも、見えるものが先に立つと、聞こえないものがまた奥へ戻る。
「では、ここに置いたままにするのですか」
セリカが聞いた。
ミラは、すぐには答えなかった。
鍵束を少しだけ持ち上げ、また下ろす。
鳴らなかった。
「そのつもりでした」
過去形だった。
僕は、甲冑廊の奥を見た。
長い廊の先に、ひとつだけ他より錆びた甲冑がある。月光が当たっているのに、そこだけ光が中へ入らない。表面で止まり、赤茶色の細い筋をなぞって、下へ落ちる。
その甲冑から、音がした。
ふう。
それは風の音に似ていた。
でも、風だけではなかった。
言葉になりかけて、なる前に戻ったもの。
詩音。
僕は一歩出そうとして、止まった。
足元を見る。
廊の床には、古い歩行線が残っている。閉じない一周とは違う。まっすぐ奥へ進む線だ。行列のための線なのかもしれない。前に立つものが、まっすぐ進むための線。
その線の上に立つと、詩音へ一直線に行けそうだった。
行けそうだから、行かない。
僕は半歩横へずれた。
ククルーが小さくうなずく。
「廊の線を外れるのですか」
ミラが聞いた。
「はい」
「なぜ」
「まっすぐ行くと、詩の前ではなく、詩の中へ行ってしまいそうだからです」
ミラは、僕の足元を見た。
長い沈黙があった。
甲冑が先に聞く場所。
リンドの言葉を思い出す。
ここでは、答えも少し遅れて返るのかもしれない。
やがて、ミラは鍵束から一本の小さな鍵を外した。鍵と呼ぶには薄い。銀葉を細く折ったような形で、先端に錆色の点がある。
「開ける鍵ではありません」
ミラは言った。
「では、何の鍵ですか」
「開けない場所を示す鍵です」
ティオが小さく息を吸った。
守る前の問い札に、少し似ている。
ミラは廊の奥を指した。
「あの甲冑の前に、置きます。今日は、そこまでです」
「そこまで」
セリカが繰り返した。
「はい。詩を読まず、甲冑も開けず、鍵を置く。置いた音だけを聞く」
今は、廊の奥に甲冑があり、そこへ開けない鍵を置きに行く。
それだけで十分だった。
僕たちは歩き出した。
まっすぐの線ではなく、少し横を。
ミラが先頭に立つ。リンドはその半歩後ろ。ティオは銀の輪の袋を押さえたまま。セリカは筆を持つが、筆先を布で包んでいる。オルガの筒は肩ではなく腕の中。ククルーは僕の足元を見ながら歩く。
甲冑の列が、少しずつ音を返す。
かす。
きし。
ふう。
僕は、その音を怖いと思わなかった。
けれど、安心もしなかった。
怖くないから近づくのではない。
安心したから読むのでもない。
聞こえにくい託宣があるかもしれない場所へ、聞きに行く。
廊の奥の甲冑は、近づくほど大きく見えた。
肩のところに、古い月光の傷のような線がある。胸の中央には、紋章がない。紋章を外した跡でも、失くした跡でもなく、最初からそこを空けて作ったような白い場所がある。
ミラは、その白い場所の半歩前で止まった。
僕たちも止まる。
鍵を置く。
ち。
とても小さな音だった。
甲冑は、すぐには鳴らない。
ミラの手が、鍵から離れた。
セリカの筆が動きかける。
ティオの指が袋を押す。
オルガの筒が、腕の中で少し転がる。
僕の手が、影札の袋を探す。
みんな、何かをしたくなった。
だから、何もしないまま、少し待った。
ククルーが、息を吸う。
「待つ音も、あるよ」
その声のあと、甲冑の内側から、低い音が返った。
ふう。
今度は、風だけではなかった。
まだ言葉ではない。
まだ詩でもない。
でも、それが閉じ込められた声なのか、守られすぎて出口を忘れた息なのか、まだ分からなかった。
僕は、胸の中で言葉を置いた。
錆びた甲冑は、こわがって遠ざける相手ではない。
開ければ終わる箱でもない。
ここは、詩の前から続く、もうひとつの前だ。
甲冑廊の朝は、銀色ではなく、少し錆びた月光の色をしていた。
その色を、誰もまだきれいにしなかった。
ミラの鍵束が、手の中で一度だけ鳴った。
ちゃ。
置いた鍵の音より、少し遅い。
ミラだけが、その遅れに顔を上げた。
廊の奥の甲冑は、まだ何も言葉にしていない。




