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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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錆びた甲冑の詩 プロローグ 詩の前の朝




法典は、まだ閉じていなかった。


朝の光は広場の石を白くしていたけれど、法典のページだけは、夜の月光を少し残しているように見えた。紙ではない。銀葉でもない。ルミエールの法典は、読む人の手より少し遅れて戻る、不思議な白さを持っている。


その白さの横に、錆びた詩片が置かれていた。


誰も読んでいない。


読めなかったのではなく、読まなかった。


その違いを、僕は何度も手の中で確かめた。影札の袋に触れる。紐はゆるい。出せる。出そうと思えば、すぐに出せる。短い線と四つの点だけの札。月光の下で、何度も「似ている」と言われそうになって、そのたびに同じにしなかった札。


出さない。


出さないまま、持つ。


「まだ眠そうだね」


ククルーが、僕の足元を見て言った。


「僕がかな」


「ううん。足元だよ」


僕は下を見た。


錆びた詩片の半歩前に、白い線が引かれている。昨夜、セリカが筆を置く前に引いた線だ。書くための線ではない。踏まないための線でもない。ここで一度止まる、と決めるための線だった。


線の外側には、閉じない一周の跡が残っている。


広場の石の上を、みんなで一周した。リンド、セリカ、ティオ、オルガ、ククルー、僕。錆びた詩片の周りを歩いて、最後だけ少し空けた。輪にできたのに、輪にしなかった。


その空きに、朝の光が入っている。


「足元が眠そうなのは、どういう意味ですか」


「急かされていない、という意味だよ」


ククルーは、しっぽを一度だけ揺らした。


「急かされていない朝なんだね」


銀樹アルジェンティアが鳴った。


きいん。


そのあとに、少し遅れて、りん、とやわらかい音が返る。


同じ枝から出た音なのに、そろっていない。硬い葉が先に鳴り、やわらかく戻った葉があとから答える。昨日までなら、誰かが不安そうに見上げたかもしれない。正しい音に戻ったのか。戻っていないのか。どちらなのか。


今朝は、誰もすぐに決めなかった。


セリカは銀葉筆を持っていたが、まだ書いていない。リンドは胸元へ手をやりかけて、そこに紋章がないことをもう一度思い出し、手を下ろした。ティオは銀の輪を袋に入れたまま、袋の口だけを指で押さえている。オルガは紋章筒を肩にかけず、横に寝かせていた。


みんな、何かを使える。


でも、使う前に立っている。


「これが、詩の前ですか」


ティオが言った。


問いというより、自分の足元へ言い聞かせる声だった。


リンドが答える。


「詩の前であり、法典の横でもある」


「法典の中ではないのですね」


セリカが聞いた。


リンドはうなずいた。


「まだ中ではない。外へ追い出したわけでもない」


法典の横。


その言い方は、昨日から何度も聞いたのに、朝の光の中では少し違って聞こえた。法典の中にないものを、法典の外へ捨てない。横に置く。横に置いたものを、歩かせる。歩いたあとで、それでもまだ読めるなら、読む。


僕は詩片を見た。


錆の色は、夜より薄い。月光の中では黒く見えた縁が、朝になると赤茶色を含んでいた。乾いた葉の裏に似ている。古い門の留め金にも似ている。何かを閉じていた色だと思った。


でも、閉じていた、と決めるには早い。


守っていた、のかもしれない。


「読めそうですか」


セリカが小さく聞いた。


僕は、すぐには答えなかった。


詩片の表面には、線がある。文字に見える。月光を受けると浮かび、朝の光では沈む。目を細めれば、ひとつの言葉にできそうだった。言葉にしたくなる。


それが、いちばん危ない気がした。


「読めそうに見えます」


僕は言った。


「でも、見えることと、読むことは違うと思います」


ククルーが小さくひげを動かした。


「読む前の足元に残したんだね」


「足元と言われると、少し変な気持ちです」


「頭の方へ上げると、急ぐからね」


ティオが、少し笑った。


その笑いに、銀葉の遅れた音が重なった。


りん。


そろわないまま、聞こえる。


セリカは筆を置いた。


紙にも銀葉にも触れない場所に、そっと置く。


「記録しないのですか」


僕が聞くと、セリカは首を横に振った。


「記録します。でも、今は記録の前です」


「書く前」


「はい。書く前は、何もない時間ではありません」


その言葉で、広場の空気が少し変わった。


旅の区切りを数える言葉は、もちろん誰も言わない。ここにあるのは、昨日までの出来事の番号ではなく、今朝の手元だ。正解率の門、月光試問、銀葉の裏面、折れた紋章、欠けた花火、法典の横。全部がここに来ているけれど、どれも名前札になっていない。


オルガが、横に寝かせた筒へ耳を近づけた。


「風が通っています」


「上げないのに」


ティオが言う。


「上げないから、聞こえる音もあります」


オルガは筒を少しだけ転がした。


ころ、と短い音がした。


「昨夜は、これを空へ向けたくなりました。錆びた色を、きれいに照らせば、怖くなくなると思ったんです」


「怖かったのですか」


セリカが聞いた。


オルガは考えた。


「怖い、というより、きれいにしたかった。きれいにしたら、みんなが見られると思いました」


「見られることと、聞けることは違う」


リンドが言った。


オルガはうなずいた。


「だから、上げません」


ティオは自分の袋を見た。


「僕も、輪を出しません」


「出さないことを、我慢にしすぎない」


リンドが言う。


「はい。出してよい時を聞くために、今は出しません」


その声は、昨日より少し軽かった。


銀の輪は、守るための道具だ。悪いものではない。けれど最初に出すと、守る前に閉じてしまうことがある。ティオはそのことを、たぶん手で覚え始めている。


僕は影札の袋から手を離した。


出さないことを、隠さない。


知りたい気持ちを、先に出さない。


その二つは似ているけれど、同じではない。


「詩片は、どこから来たのでしょう」


僕が言うと、リンドは広場の奥を見た。


法典棚のさらに下、石段の影。そこから昨日、錆びた詩片は見つかった。


「甲冑廊だ」


リンドは言った。


「甲冑廊」


初めて聞く名前だった。


ルミエールには、月光の道、法典の広場、紋章花火の古い場、銀樹の根元、正解率の門がある。それらのどれも、光を持っていた。強かったり、薄かったり、遅かったりしても、光があった。


甲冑廊、という響きには、光よりも金属の内側があった。


リンドは続けた。


「古い甲冑を並べてある廊だ。祝祭の行列で使われたもの、巡礼者の足を守るために作られたもの、法典を運ぶ時に先導したもの。今は、ほとんど開けない」


「なぜですか」


ティオが聞いた。


リンドのまなざしが、ほんの少しだけ沈む。


「誇りが強すぎる場所だからだ」


その言葉で、僕の足元の白線が細く見えた。


誇り。


昨夜、リンドは自分の紋章を胸に戻さなかった。誇りを捨てたのではない。置いた場所へ戻るために、胸から離した。あれと、甲冑廊はつながっているのだろうか。


でも、つなげるのは早い。


「誇りが強すぎると、悪い場所になるのですか」


僕は聞いた。


リンドは、すぐに首を横に振った。


「悪い場所ではない」


強い声だった。


その強さに、自分で気づいたのか、リンドは少しだけ息を整えた。


「すまない。悪い場所ではない。街を守ってきた場所だ。だから、近づく時に、こちらの手が固くなる」


ククルーが静かに言った。


「固い手で触ると、固い音だけが返ることがあるよ」


リンドはうなずいた。


「そうだ」


セリカが筆を持ち直した。


「甲冑廊に、この詩片の続きがあるのですか」


「あるかもしれない」


「ないかもしれない」


「ないかもしれない」


リンドは、セリカの言葉をそのまま受けた。


「それでも、行く必要がある。詩片を法典の横へ置いたままにするなら、詩片がどの足音を持っているのか、聞かなければならない」


足音。


詩に足音がある。


そう思うと、錆びた詩片は少し軽くなった。意味の塊ではなく、どこかから歩いてきたものに見えた。


ククルーが僕を見上げる。


「行くかな」


「行きます」


「読みに」


「いいえ」


僕は白線の前で、もう一度止まった。


「聞きに行きます」


ククルーは、小さく目を細めた。


「それじゃ、足元は起きたね」


広場を出る時、法典はやはり閉じなかった。


錆びた詩片も、置いたままだ。


持っていかないのではない。


置いた場所へ戻れるように、ここへ残す。


銀葉が鳴る。


きいん。


りん。


そろわないまま、聞こえる音を背中に受けながら、僕たちは甲冑廊へ向かった。



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