第7巻 月光騎士の法典 第7章 銀葉の裏面
銀樹アルジェンティアの下は、昼でも夜の音がした。
葉の一枚一枚が月光を覚えているからだと、セリカは言った。朝の光に照らされても、葉脈の奥には昨夜の月が薄く残っている。だから、銀樹の下で足音を立てると、踏んだ石ではなく、まだ眠っていない葉が小さく返事をする。
きん。
高い音。
きん。
少し低い音。
同じ銀葉なのに、返ってくる音は少しずつ違っていた。
「表の音です」
セリカは耳飾りに触れた。
「硬い時ほど、すぐ聞こえます。強く、まっすぐに」
「裏の音は」
僕が聞くと、セリカは銀葉筆を持ち直した。
「遅れてきます」
ククルーが、僕の隣で首を傾げる。
「遅れる音は、寝坊ではありません」
「誰も寝坊とは言っていません」
「言われる前に守りました」
セリカの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
昨夜の月光試問のあと、半円は消されていなかった。白い線は広場の中央に残り、中央の空きもそのままだった。けれど今日は、半円の中に札は置かれていない。影札も、閉じなかった輪も、ティオの銀の輪も、守りたい札も、勝ちたい札も、それぞれ別の布へ包まれている。
セリカは、未記入欄だけを持っていた。
リンドは、銀樹の幹から少し離れた場所に立っている。昨夜と同じように、近すぎない。試す人の距離ではなく、見届ける人の距離だった。
ティオは、胸の前で銀の輪を持っていた。握りしめてはいない。けれど、両手の指は輪の外側を何度も確かめている。
「銀葉の裏面を見るには、葉を剥がすのですか」
ティオが聞いた。
セリカは首を横に振る。
「剥がしません。剥がすと、裏ではなく、傷を見てしまいます」
「では、どうやって」
「表から、裏を急がせない」
セリカは、銀樹の根元にある低い台へ歩いた。台は裏の記録台に似ているが、門前の記録台よりもずっと古く、銀葉が何層にも重なっている。名前を書くための欄はない。代わりに、葉の縁を支える細い溝があり、そこへ月光がゆっくり流れていた。
「ここは、銀葉を裏返す場所ではありません」
セリカは言った。
「裏が聞こえるまで、表を置いておく場所です」
僕は、その言葉を胸の中で繰り返した。
裏が聞こえるまで、表を置いておく。
すぐに開くのでも、隠すのでもない。
セリカは未記入欄を台の横へ置いた。昨日の印が並んでいる。震える手。囲われたくない手。切り替えを答えにしない手。守りたい札と勝ちたい札の距離。リンドの下がった半歩。
どれも、正解者名ではない。
でも、どれも、昨日ここにいた人の手元だった。
「まず、表の記録を読みます」
セリカは銀葉筆で一枚の葉の表をなぞった。
そこには、昨日の試問を見ていた人々の声が薄く残っていた。
勝ちたいも置いていいのか。
正解率へ入らないのに。
でも、消さないんだ。
文字ではない。声そのものでもない。けれど、葉脈の細い曲がり方に、言いかけた息の形が残っている。
「これは、表ですか」
僕が聞くと、セリカはうなずいた。
「聞こえた声です。広場に出たもの。表に出たもの」
「裏は」
「まだです」
セリカは筆を止めた。
急がない。
その手つきが、昨日の半円の中央を思い出させた。空いているけれど、欠けているのではない場所。
ティオが銀の輪を少し下げた。
「僕は、昨日、人前で怖いと言いました」
「言いました」
「それは表ですか」
「はい」
セリカは迷わず答えた。
「では、裏は」
「言わなかったことです」
ティオの指が止まった。
「僕は、何を言わなかったのでしょう」
リンドが少しだけ目を伏せた。
答えを教えるのではなく、問いが落ちる場所を空ける顔だった。
セリカは銀葉筆を、ティオの銀の輪へ向けなかった。未記入欄にもすぐ書かなかった。代わりに、銀樹の根元に落ちていた一枚の葉を台へ乗せた。落ち葉ではない。枝から離れても、まだ祝福の流れにつながっている葉だと分かる。葉の縁が、低く光っている。
「手を置いてください」
セリカが言った。
ティオは銀の輪を置こうとして、止まった。
「輪ではなく、手ですか」
「はい。輪を先に置くと、輪が聞いたことになります」
ティオは銀の輪を胸の前へ戻し、空いた右手を葉の近くへ置いた。触れない。指先だけが、葉の影に入る。
きん。
音は鳴った。
けれど、昨夜のように広場へ高く広がる音ではなかった。葉の裏側から、布を一枚通したように、遅れて返ってくる。
ティオが息を止める。
「今のは」
セリカは耳飾りを押さえた。
「名前ではありません」
「分かります」
ティオはすぐに言った。
すぐに言ったあと、自分で驚いた顔をした。
「すみません。分かる、と急ぎました」
ククルーが小さくうなずく。
「急いだことも、手元です」
ティオは銀葉を見た。
「僕は、勝ちたいと言いました。でも、勝てないと、守る資格がない気がしていたことは、言いませんでした」
葉の裏が、低く鳴った。
きん、ではない。
きいん、と、少し長い音だった。
セリカは筆を動かさない。書かないのではなく、音が戻りきるまで待っている。
「それを、正解率へ入れるのですか」
ティオの声は小さかった。
「入れません」
セリカは答えた。
「でも、消しません」
未記入欄の端に、新しい線が増えた。文字ではない。輪の内側に、細い道が一本通る形。
「守る資格がない気がした手」
セリカはそう読んだ。
ティオは、銀の輪を見た。
「資格ではなく、距離だったのですか」
「昨日の距離では、そう読めます」
リンドが答えた。
「明日も同じとは限らない」
ティオはうなずいた。
その顔は、楽になった顔ではなかった。けれど、少しだけ、輪の外側を確かめる指が減った。
次に、セリカは僕を見た。
「旅人さん」
僕は、影札の入った袋に手を触れた。
「出しますか」
「出したいですか」
セリカに聞き返されて、すぐ答えられなかった。
出せば、葉の裏に何か見えるかもしれない。
短い線と四つの点。
それが、どこから来たのか。誰のものなのか。なぜ僕の手元にあるのか。
銀葉の裏なら、知っているかもしれない。
そう思った瞬間、影札が急に重くなった。
「知りたいです」
僕は言った。
ククルーの耳が少し動いた。
「でも、出したら、知りたい気持ちが先に読まれそうです」
「では、何を置きますか」
セリカが聞く。
僕は袋から影札を出さなかった。代わりに、袋を閉じる紐に指を置いた。
「出さない手を、もう一度」
「前に余白布へ置いた手と同じですか」
ティオが言いかけて、すぐに口を閉じた。
僕は少し笑った。
「広場の余白布の時と、似ています。でも、同じではありません」
前に広場の余白布へ向き合った時の、あの白さを思い出す。出したくなったけれど出さなかった手。あの時は、影札を余白の代わりにしないためだった。今は、銀葉の裏に、影札の答えを急がせないためだ。
セリカはうなずき、葉の近くへ小さな白布を敷いた。
「袋の紐を、その上へ」
僕は影札の袋を白布の上へ置いた。札は出さない。紐だけが月光に触れる。
銀葉は、すぐには鳴らなかった。
静かだった。
長く静かだった。
僕の中で、早く何かを聞きたい気持ちが膨らむ。何も鳴らないなら、出せばいい。札を見せればいい。線と点を葉の裏へ近づければいい。
でも、ククルーが何も言わなかった。
それが、待つ合図になった。
やがて、葉の裏から細い音がした。
きん。
弱い。
けれど、消えない。
セリカは、未記入欄に点を一つ置いた。
「知りたい気持ちを先に出さない手」
僕は息を吐いた。
「それだけですか」
「それだけ、ではありません」
セリカは銀葉筆を持ち上げた。
「でも、今日はそこまでです。裏面は、知りたい答えの保管場所ではありません。見送った手が、見送ったまま消えていないと確かめる場所です」
僕は影札の袋を手に戻した。
札は軽くなっていない。
でも、重さが急かすものではなくなっていた。
リンドが、銀樹の幹へ目を向けた。
「セリカ」
呼ばれたセリカの肩が、少しだけ強張る。
「お前の手も置け」
セリカは、銀葉筆を握り直した。
「私の手は、記録する手です」
「それも表だ」
リンドの声は静かだった。
「裏は」
セリカは答えなかった。
銀樹の下で、葉の音だけが鳴っている。
きん。
きん。
その間に、セリカの耳飾りが一度だけ遅れた。
僕は初めて気づいた。セリカは、銀葉の音を聞き分けているだけではない。聞き分けた音を、どこまで記録してよいか、いつも自分で止めている。
「書かなかったことがありますか」
僕が聞くと、セリカは僕を見た。
責められた顔ではない。
見つかった顔でもない。
ただ、表に出た問いを、裏へ急がせないために一度受け止める顔だった。
「あります」
セリカは言った。
「未記入欄に入れたものの中にも、まだ書いていない部分があります」
ティオが少し驚いた。
「未記入欄なのに」
「未記入欄は、何でも入れていい箱ではありません」
セリカは、銀葉筆を台に置いた。
筆を置く音が、思ったより小さく聞こえた。
「書かないことで守ったつもりになったものがあります。書けば正解率へ変えられる。書かなければ、傷つけない。そう思って、未記入欄の奥へ入れたものがあります」
「それは、悪いことかな」
ククルーが聞いた。
セリカは首を横に振らなかった。
うなずきもしなかった。
「分かりません」
その言葉が、銀樹の下でとても小さく聞こえた。
「分からないまま、ずっと書記をしていました」
リンドは動かなかった。
けれど、彼の手が、腰の紋章の近くで一度止まった。
そこには、小さな欠けのある紋章が留められていた。これまで、月光の反射でただ古く見えていただけのもの。今は、欠けている部分が月光を受けず、暗いまま残っている。
セリカはその紋章を見ない。
見ないようにしているのかもしれない。
「銀葉の裏面には、正解者の名前は残りません」
セリカは言った。
「不正解者の名前も残りません。残るのは、表へ出る前に見送られた問いの跡です。けれど、見送った人の手元も、一緒に残ります」
セリカは自分の右手を葉の近くへ置いた。
銀葉筆を持たない手。
記録しない手。
その手が葉の影に入ると、音はすぐには返らなかった。
きん。
それから、もう一つ。
きん。
二つ目の音は、少し割れていた。
セリカの指が震える。
「見送ったつもりで、閉じた手」
セリカは、自分でそう読んだ。
未記入欄の奥に、新しい印が増えた。葉の形に似ているが、葉脈の途中で一度止まり、そこから細い線が裏へ回る。
「誰の問いですか」
ティオが聞いた。
セリカは答えなかった。
リンドが、ゆっくりと息を吐いた。
「私の問いも、そこにある」
銀樹の下の音が、急に低くなった気がした。
リンドは、腰の紋章に手を触れた。
「まだ読むな」
セリカが顔を上げる。
「逃げるのですか」
その声は、鋭くなかった。
でも、まっすぐだった。
リンドは、少しだけ笑ったように見えた。
「逃げないために、順番を置く」
そう言って、彼は紋章を外さなかった。代わりに、紋章の欠けた側を月光へ向けた。
欠けの暗い部分が、銀葉の上に小さな影を作る。
「次は、これだ」
乾いた音がした。
置いたのではない。
まだ、置く前の音。
でも、僕にはそれが、次の扉の前で鳴ったように聞こえた。
ククルーが、そっとしっぽを丸める。
「折れたところを、誰かの失敗だけにしない準備だね」
「そうだ」
リンドは答えた。
「正しい法を守った。だが、閉じた問いがある」
ティオが銀の輪を胸の前で持ち直した。
「守ったのに、閉じたのですか」
「守ったから、閉じた」
リンドの声は低かった。
「そういうこともある」
セリカは未記入欄を閉じなかった。
ただ、銀葉の裏面から聞こえた音を、表の記録の横へ並べた。正解率の列には入れない。不正解の欄も作らない。薄い模様として、見送られた問いの跡として、そこに置いた。
僕は銀樹を見上げた。
葉の表は月光を返している。
裏は見えない。
けれど、見えないところに何もないとは、もう思えなかった。
影札の袋。
ティオの銀の輪。
セリカの筆を持たない手。
リンドの欠けた紋章。
それぞれが、まだ裏へ急がせない距離にあった。
「今日は、ここまでです」
セリカが言った。
その言葉に、昨日までの硬さは少なかった。
「でも、ここまで、は終わりではありません」
「今日の距離ですか」
ティオが聞く。
セリカはうなずいた。
「今日の裏面です」
銀樹アルジェンティアの葉が、低く鳴った。
きいん。
それは、正解の鐘ではなかった。
不正解の音でもなかった。
見送られた問いが、まだ見送られたまま、消えずにいる音だった。
リンドの紋章の欠けた影が、銀葉の上で小さく揺れる。
次に読むべきものは、もう隠れてはいなかった。
ただ、まだ急がない場所に置かれていた。




