第7巻 月光騎士の法典 第1章 正解率の門
ルミエールの門は、正面から見ると、開いているのか閉じているのか分からなかった。
扉はない。
閂もない。
人々は、銀葉の垣のあいだを普通に通っていく。荷車も、楽器を抱えた子どもたちも、白い布をかけた籠を持つ人も、止められてはいない。門番らしい人も、槍を構えているわけではなかった。
それなのに、門は人の背筋を少しだけ伸ばした。
くぐる前に、みんな一度、掲示板を見るからだ。
掲示板は、銀葉を薄く重ねて作られていた。紙ではない。石でもない。月光を含んだ葉を乾かして、何枚も透かし合わせた板に見える。そこへ細い文字が浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。
最初に読めたのは、数字だった。
九十二。
その下に、七十八。
別の列には、百、と誇らしげな丸がついている。
僕は足を止めた。
「割合ですか」
「正解率です」
近くで声がした。
声の主は、銀葉を束ねた細い筆を持つ女性だった。髪は淡い銀色ではなく、黒に近い茶色で、耳の横に小さな銀葉の飾りをつけている。飾りは風がないのに、きん、と鳴った。
「ルミエールへようこそ。旅の方ですね」
「はい。旅人です」
「ククルーだよ」
ククルーが丁寧に頭を下げる。
女性は目を細めた。猫に驚いたのではなく、猫が名乗ることを自然に受け止め、それでも少し楽しく思ったような目だった。
「私はセリカ。銀葉書記です。門前の記録を見ています」
「記録」
僕が掲示板へ目を戻すと、セリカは筆を持った手で、板の端を軽く示した。
「門を通る託宣の、通り具合です。人の名前ではなく、今日ここへ届いた問いの種類ごとに出ます」
「問いの種類ごと」
「はい」
セリカは銀葉筆の先で、数字の横にある小さな刻みをなぞった。刻みは人の名札ではなく、月光の問い、銀葉の問い、門前の小さな託宣を分ける印だった。筆先が未読欄へ近づくと、セリカの手が少しだけ遅くなる。
「正しく応えられた問いが多い日は、銀葉がよく鳴ります。紋章花火も、夜には綺麗に上がります」
セリカの声は誇らしげだった。
それは、誰かを見下ろす誇りではなかった。きちんと磨いた道具を見せる時の誇りに近い。今日も門が立っている。今日も記録が読める。今日も誰かが託宣に向き合っている。そのことを大切にしている声だった。
僕は、掲示板の前に立つ人たちを見た。
月光の問いに百の丸がついたのを見て、少年が、ぱっと顔を明るくする。その隣で、門前の小さな託宣の列が七十八で止まっているのを見た年配の男性が、少し困ったように笑った。少年は百の丸を指差しかけて、男性の表情に気づき、手を引っ込めた。それから、二人で別の列を見た。
そこには、数字ではなく、小さな葉の絵が浮かんでいた。
「あれは?」
「未読欄です」
セリカが答えた。
「まだ答えられていない託宣、答えたけれど祝福へ通りきっていない託宣、あと、数字にしてよいか分からない託宣を置く場所です」
「数字にしてよいか分からない」
「ありますよ」
セリカは、未読欄の葉を消さないよう、筆先を一度浮かせた。
「例えば、迷子の子の話を最後まで聞いた時間は、途中で答えを三つ外していても、祝福が働いていることがあります。正解率だけにすると、その時間が見えにくくなります」
ククルーが、僕をちらりと見た。
僕はうなずいた。
ルミエールは、正解だけの大陸ではない。
少なくとも、セリカの言葉はそうだった。
でも、銀葉は硬く鳴っている。
きん。
また、掲示板の表面が白く光った。今度は、百の丸が二つ並んだ列が少し大きくなり、未読欄の葉の絵が薄くなった。
セリカの眉が、ほんの少し動いた。
「今の」
僕が言う前に、彼女は筆を掲示板の端へ当てた。細い銀葉筆の先が、板の上をすべる。葉の絵は消えずに残ったが、輪郭が少しだけ硬くなっていた。
「最近、よくあるんです」
セリカは声を落とした。
「正解率の高い列が明るくなると、未読欄が薄くなる。前は、同じ板の上で並んでいられました。正解した人の祝福も、まだ読めない託宣の場所も、どちらも門を通る人に見えていたんです」
「今は、見えにくい」
「はい」
きん。
銀葉が鳴る。
門の上の葉が、朝の光を返した。光は綺麗だった。まっすぐで、曇りがなくて、見ている人の背筋を伸ばす光だった。
でも、僕はまぶしいとは思わなかった。
まぶしいほど強いわけではない。
ただ、返ってくる。
こちらへ通ってくる前に、葉の表面で折り返す。
「祝福が反射している」
口に出すと、セリカがこちらを見た。
「その言い方、少し近いです」
「近い?」
「はい。私はずっと、硬くなっている、としか記録していませんでした。硬い。冷たい。鳴りすぎる。でも、反射している、と言われると、通りたいものがあるように聞こえます」
通りたいもの。
僕は、袋の中の印を思い出した。
水の縁の写し。
音を入れなかった空の貝殻の印。
点だけの小札。
持っていかなかったものを思い出すための束。
通らなかったから、価値がないのではない。入れなかったから、なかったことになるのでもない。
「見てもいいですか」
僕は掲示板の前へ一歩近づいた。
セリカは少し迷った。
「門前の記録は、誰でも見られます。ただ、書き換えはできません」
「書き換えません」
「答えを足すことも」
「しません」
「未読欄を、勝手に正解へ移すことも」
その言い方には、冗談の形をした心配があった。
僕は首を横に振る。
「移しません。置く場所を見たいだけです」
ククルーが、僕の足元へ来た。
「旅人」
「はい」
「置く場所を見る時は、自分が置きたい場所も一緒に見ます」
「自分が」
「はい。見えにくい欄を見ると、人はそこへ自分の答えを置きたくなります。親切な時ほど、やりがちです」
セリカが小さく笑った。
「いい案内役ですね」
「たまに話が長くなります」
僕が言うと、ククルーは咳払いをした。
「今日は短くしているよ」
「助かります」
僕は膝をつき、掲示板の下の方を見た。
未読欄の葉の絵は、たしかに薄かった。薄いだけなら、まだよかったのかもしれない。けれど、輪郭の一部が、数字の列の光を受けて欠けて見えた。葉の先が、細く消えている。
僕は、月光へ渡す影札を取り出しかけて、止めた。
今、この札を掲示板へ当てたら、何かが見えるかもしれない。
短い線と四つの点が、未読欄の葉の先と似ているように見えたからだ。似ている。そう思った瞬間、胸の奥で、すぐに比べたくなる手が動いた。
影札。
銀葉。
未読欄。
点。
似ているなら、つなげればいい。
でも、砂嵐の記録を読んだ時、僕たちはそれをしなかった。
近いまま、同じにしない。
僕は影札を出さず、代わりに空の手を掲示板の前へ置いた。触れない距離で止める。
「ここに、風は通りますか」
セリカは少し驚いた顔をした。
「風?」
「葉が硬く鳴る時、風の余りがどこへ行くのかと思って」
言ってから、自分でも少し変な聞き方だと思った。
けれど、セリカは笑わなかった。
彼女は掲示板の横へ回り、銀葉筆を耳元へ近づけた。筆の束に、小さな葉が何枚も結ばれている。セリカが息を止めると、その葉が一枚だけ揺れた。
「通っています。でも、浅い」
「浅い」
「掲示板の表面をなでて戻っています。前は、裏まで通りました」
「裏」
僕は掲示板の横から、板の厚みを見た。重ねられた銀葉のあいだに、細い隙間がある。そこへ光が入り、途中で止まっているように見えた。
「裏には何があるんですか」
セリカの手が止まった。
「記録台です。門を通る人の名前ではなく、通った問いを置く場所です」
「見られますか」
「今は、開けにくいです」
その言葉の後で、銀葉がまた鳴った。
きん。
今度は、門をくぐろうとしていた人たちが一斉に掲示板を見た。百の丸がさらに明るくなった。少年が嬉しそうに息を吸う。年配の男性が、今度は先に拍手をした。周りの人たちも笑った。
嬉しい場面だった。
誰かが正しく答えた。祝福が生まれた。街の門に光が戻った。喜んでいいはずだった。
なのに、未読欄の葉の絵はまた薄くなった。
嬉しさと、見えにくさが、同じ板の上で起きていた。
「正解が増えるのは、いいことですよね」
僕が言うと、セリカは深くうなずいた。
「もちろんです。正しく答えることは、ルミエールの誇りです。誇りがあるから、私たちは法典を磨き、銀葉を手入れし、紋章花火を夜空へ上げられます」
「でも」
「でも、正しい答えが強く光るほど、まだ読めない問いが見えなくなるなら、たぶん、光の置き方が違います」
セリカの声は静かだった。
誰かを責める声ではない。
自分の記録を疑う声でもない。
ただ、硬くなった葉の音を、硬いまま聞いている声だった。
ククルーが、掲示板の下で丸い足跡を一つつけた。
「ルミエールらしい入口です」
「どのあたりが?」
「正しさを誇るところです。そして、誇りの端に残る薄いものを、ちゃんと気にする人が門にいるところです」
セリカは少し照れたように筆を持ち直した。
「気にしているだけでは、記録は直りません」
「直す、の前に」
僕は言った。
「どこで光が戻っているかを見たいです」
セリカは僕を見た。
「門の裏へ回りますか」
その時、門の向こう側から、別の音がした。
きん、ではない。
かん。
少し低い。銀葉が鳴る音に、硬い木の台が混ざったような音だった。
門の内側にいた少年が、背筋を伸ばした。先ほど百の丸を見ていた子だ。少年の前に、細い月光の柱が降りている。朝なのに、月光としか言えない色だった。白すぎず、青すぎず、銀葉の影を薄く浮かせる光。
その柱のそばに、一人の人物が立っていた。
長い外套の裾に、銀葉の紋が入っている。鎧ではない。けれど、立ち方に、守るための距離があった。近づきすぎず、遠ざかりすぎない。手には細い札を一枚持っている。
少年が、何かを言う。
その人物は、うなずき、札を少年の前に置いた。
かん。
今の音は、その札が台に触れた音だった。
セリカが小さく息を吸った。
「リンド卿」
「月光卿?」
僕が聞くと、セリカはうなずいた。
「月光卿リンド。法典の試問を司る方です」
リンドと呼ばれた人物は、少年に何かを尋ねた。少年はすぐに答えようとして、口を閉じた。それから、掲示板を見た。百の丸を見て、未読欄を見て、もう一度リンドを見た。
リンドは急がせなかった。
門の内側で、銀葉が鳴る。
きん。
その音に、試問札の低い音が重なった。
かん。
二つの音は、合わなかった。
でも、ぶつかりもしなかった。
僕は、手の中の影札を握り直した。
リンドが、こちらを見た。
遠いのに、目が合った気がした。
その視線は、僕を測った。
でも、値を出したわけではない。
距離を確かめるような視線だった。
ククルーが、静かに言った。
「最初の問いが来たね」
「問いかな」
「ルミエールでは、試問と呼ぶかもしれません」
僕は、門の前で息を整えた。
正解率の掲示板。
硬く鳴る銀葉。
薄くなる未読欄。
月光卿リンド。
そして、まだ何も証明しない影札。
門には扉がなかった。
それでも、くぐる前に置くべきものがある。
僕は袋から、照らしすぎない/守りすぎない両面札を取り出した。表も裏も決めていない札を、掲示板の前、光が強すぎず、影が消えきらない場所へそっと置く。
セリカが、その場所を見た。
「そこは、掲示板の影が少し残るところです」
「はい」
「でも、門の光も届きます」
「はい」
「どちらにも寄りきらない」
僕はうなずいた。
「まだ入口なので」
ククルーが、小さくしっぽを揺らした。
「まだ入口。砂に置いた言葉が、銀葉の門でも残っているね」
アルカディアの砂に書いた言葉を、ルミエールの門で思い出す。
まだ入口。
入ったつもりにならないための言葉。
答えを出したつもりにならないための言葉。
僕は、月光へ渡す影札を胸の前で持った。
門の向こうで、リンドが待っている。
銀葉は硬く鳴っている。
正解率の丸は明るい。
未読欄の葉は薄い。
どれも、消すものではない。
どれも、すぐに一つへまとめるものではない。
僕たちは、正解率の門をくぐった。
その時、銀葉の音が、ほんの少しだけ変わった。
きん、ではなく。
きん、と鳴る前に、短い間が入った。
まだ祝福が通ったとは言えない。
両面札のせいか、門の裏へ回った風のせいか、それともリンドの試問札が先に置かれていたからか、分からない。
セリカも、すぐには記録しなかった。
ただ、反射だけではないかもしれない音が、門の裏へ一拍だけ届いた。




