第7巻 月光騎士の法典 プロローグ 銀葉の硬い朝
月光は、夜だけのものではなかった。
朝の空が白みはじめても、道の先には銀色が残っていた。
アルカディアの砂は、夜のあいだ金色を薄くして、明け方には水を含まない布のような色になる。けれど、ルミエールへ続く空の道の端では、砂ではない光が揺れていた。冷たいのではない。遠いのでもない。ただ、こちらへ届く前に一度、自分の形を確かめるような光だった。
僕は、手の中の札を見た。
白い札には、短い線が一本と、四つの点だけがある。
それ以上は書いていない。
書かなかったのではなく、書かないで渡された。ソラリカの花光と、まだ見えていなかった月光が重ならない砂の上で、僕たちはこの札を置いた。影床で見た輪郭は写していない。創世の影に似たものを、ここへ閉じ込めてもいない。
それなのに、札は軽くなかった。
短い線と四つの点だけなのに、手のひらの上で、まだ読まれていない場所の重さを持っていた。
「旅人」
ククルーが、僕の足元で立ち止まった。道の縁を流れる朝風で、白いひげが少しだけ銀色に見えた。
「その札を見ている時の顔が、少しだけ答えの紙を先にめくりたい顔だね」
「そんな顔、ありますか」
「あるよ。答えが書いてあるかもしれない紙を、答えではないと知っているのに、つい裏返したくなる顔だね」
僕は札を裏返しかけて、やめた。
裏には何も書かれていない。
分かっていた。けれど、確かめたい気持ちは残っていた。何もないと確かめれば、安心できる。何かあれば、それを読めばいい。どちらにしても、確かめるという動作が、少しだけ僕の胸を軽くしてくれそうだった。
「裏も、まだ読まなくていいですか」
「読まないのではなく、今は裏に答えを探さない、です」
ククルーは前足で道の上を軽く叩いた。そこには、昨夜から持ってきた小さな袋が置かれている。
袋の中には、白糸、黒い糸、水の縁の写し、音を入れなかった空の貝殻の印、点だけの小札が入っていた。持っていくために渡されたのではない。持っていかなかったものを思い出すために渡された束だった。
アジムは、砂箱を持ってこなかった。
ナユは、影床の影を写さなかった。
サーラは、水を入れなかった。
イェンは、音を貝殻へ閉じ込めなかった。
ネフェルは、星図を開いたまま渡さなかった。
それぞれが、持っていかない形で僕たちを見送った。
だから、この袋は記念品ではない。証拠でもない。誰かが手放したことを、手放しっぱなしにしないための印だった。
「ククルー」
「はい」
「持っていかないものを持っているの、少し変です」
「変です」
ククルーはあっさり言った。
「でも、変なものは役に立つことがあるよ。まっすぐな道具は、まっすぐな時にしか使えない。変な道具は、道が少し曲がった時に、置き場所を教えてくれることがあるんだ」
「それは案内かな」
「いや、今のは年寄りの荷物整理だね」
僕は少し笑った。
笑うと、札の重さがほんの少しだけ変わった。軽くなったのではない。手のひらだけで持たなくなった。
道の先で、銀色の葉が鳴った。
まだ遠い。
風が一度だけ触れたような音だった。けれど、葉の音にしては硬い。木の葉がこすれる音ではなく、薄い板が互いに小さく当たる音に近かった。
きん。
音は高かった。
綺麗だった。
でも、綺麗すぎて、風の余りがどこへ行ったのか分からなかった。
ククルーが耳を動かした。
「銀葉です」
「ルミエールの?」
「うん。銀樹アルジェンティアの葉は、月光を受けるとよく鳴るんだ。祝福が通っている時は、もう少しやわらかい音だよ」
もう一度、鳴った。
きん。
やはり、硬い。
音は道の先からだけではなかった。右手の空の下、まだ見えない街の方角から、同じような音がいくつも返ってきた。鐘のように知らせるのではなく、何かが表面で跳ね返っている音だった。
「硬いですね」
僕が言うと、ククルーはうなずいた。
「硬い音だね。でも、硬いから悪い、ということじゃないよ」
「はい」
「硬いものは、守ることがある。形を保つこともある。ただ、通したいものまで返してしまう時があるんだ」
僕は白い札を見た。
短い線と四つの点。
これを、銀葉の硬い音の中へ持っていく。
月光へ渡す影札。そう呼ばれた札を、今度は月光の大陸で読む。けれど、読むといっても、答えを出すわけではない。影床の輪郭を証明するわけでもない。自分が何者かを探すための紙でもない。
では、何を見るのか。
僕は、袋からもう一枚の札を取り出した。
表にも裏にも、まだ向きが決まっていない札。
照らしすぎない。
守りすぎない。
ソラリカの夜のあとに作った両面札だった。表がどちらか、裏がどちらかは決めていない。なぜなら、照らしすぎることと守りすぎることは、向きが違うだけで、同じ場所を閉じてしまうことがあるからだ。
その隣に、紐の輪を置く。
閉じなかった輪。
アジムが記録紐の端で作った輪には、指一本分の空きがある。守るための輪なら閉じてもよさそうなのに、閉じなかった。閉じてしまえば安全に見える。けれど、閉じた時、出入りできなくなるものがある。
三つの札と一つの輪を、道の上へ並べた。
月光へ渡す影札。
照らしすぎない/守りすぎない両面札。
閉じなかった輪。
持っていかない印の束。
アルカディアでは、測る前に並べた。並べたものを、開きたい理由だけで読まないと学んだ。
ルミエールでは、並べたものを、どれくらい照らすのだろう。
どこまで守るのだろう。
「全部、持っていくかな」
ククルーが聞いた。
「持っていく、というより」
僕は少し考えた。
「一緒に門まで来てもらう」
「門まで一緒に来てもらう、という距離なんだね」
ククルーは、しっぽの先で閉じなかった輪を少しだけ動かした。輪の空きが、朝の光を受ける。そこだけ、道の砂が銀色になった。
「門の前で、何か試されるかもしれません」
「ルミエールだから?」
「ルミエールだから、というより、ルミエールは試すことが好きです。罰したいからではありません。誇りを、どの距離で差し出すか確かめるためです」
「距離」
「近すぎる誇りは、相手を押します。遠すぎる誇りは、誰にも届きません」
ククルーは顔を上げた。
道の先に、銀色の門が見え始めていた。
門は高くない。けれど、まっすぐだった。左右へ伸びる銀葉の垣が、空の道を受け止めるように並んでいる。葉は朝の光を受けても緑には見えず、薄い銀の紙片のように揺れていた。
その手前に、小さな掲示板がある。
まだ遠くて字は読めない。
でも、掲示板の前で人が立ち止まり、何かを見ては、少し背筋を伸ばして門をくぐっていくのが見えた。別の人は、掲示板を見てから肩を落とし、それでも隣の人に笑いかけられていた。
笑い声は聞こえない。
銀葉の音が、先に届く。
きん。
きん。
そのたびに、掲示板の表面が白く光った。
僕は、手元の札を袋へ戻した。
「行きましょう」
「はい」
ククルーは歩き出した。
その背中は、いつもの案内役の背中だった。けれど、少しだけ慎重だった。帳面の前へ立つのではなく、帳面の光が強すぎないか見にいく背中だった。
僕はその後を追った。
手の中で、月光へ渡す影札が、まだ何も答えないまま静かに揺れた。




