第1巻 霧の森の旅人 第7章 ククルーの沈黙
ミセリへ戻る道で、誰も大きな声を出さなかった。
子どもたちは疲れていた。ささやき池で見たものを、どう扱えばいいのか分からないのだと思う。帰る、という言葉。池の底に開いた黒い円。ネオンシャの雨。どれも、普段の胞子灯の託宣よりずっと重い。
それでも、ミトは歩きながら記録を続けていた。
「帰る、は共有された。黒い円は、旅人さんが見た。リリウム様も見た。ククルーは一部だけ見た。茸茶は土の味」
「最後の記録はいるかな」
ククルーが言うと、ミトは真剣な顔で頷いた。
「笑ったら、池の影が少し揺れたから。関係あるかもしれない」
ククルーは一瞬黙った。
それから、少しだけ目尻を下げた。
「それも、残しておきたい記録だね」
ミトは嬉しそうに札を抱えた。
広場へ戻ると、消えた胞子灯のいくつかに小さな光が戻っていた。完全ではない。膜の底に、蛍のような点がひとつ、ふたつ浮かんでいるだけだ。それでも、昼に見た空っぽの膜とは違う。
住民たちは池での出来事を聞きたがった。けれどリリウムは、今夜は記録だけを集め、解釈は明日にしましょうと言った。
「眠る前の答えは、夢に蓋をします」
誰も反対しなかった。
その言葉は、シルヴァリスの人たちにとってよく知られた決まりごとのようだった。
僕たちは集落の端にある小さな客間へ案内された。太い木の根元に作られた部屋で、壁には薄い胞子膜の窓がある。外の霧灯がぼんやり透け、室内全体を青白く照らしていた。
低い卓の上には、湯気の立つ杯が三つ置かれている。
茸茶。
香りは、たしかに土に近かった。雨上がりの森の匂いを温めたような香りだ。恐る恐る口をつけると、最初に土、次に木の実、最後にほのかな甘みが来た。
「どうかな?」
ククルーが聞く。
「褒める意味の土の味」
「土の匂いまで、ちゃんと残っているでしょ」
ククルーは小さく頷いたあと、首元の鈴に前足をかけた。
いつも鳴っている小さな鈴だ。森を歩くときも、道標の前でも、ささやき池で僕が水面へ引かれかけたときも、その音はどこかにあった。けれど、今は音が少し濁っている。
ククルーはすぐには外さなかった。
前足を鈴にかけたまま、しばらく動かない。いつものククルーなら、ここで何か言う。鈴も少し休ませようか、とか、音にも疲れが出るね、とか。そういう言葉で、場を少し軽くする。
でも今は、言葉が出なかった。
鈴だけが、指の下で小さく震えている。
僕は茸茶の杯を両手で持った。温かいはずなのに、ささやき池で見たネオンシャの雨が、まだ手のひらに薄く残っている気がする。ククルーも、似たものをどこかに残しているのだろうか。
「鈴を外すの、怖い?」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
ククルーは怒らなかった。困ったように目を細めただけだった。
「怖い、というほど立派なものではないよ」
「立派?」
「怖さにも、名前をつけると急に立派になるんだ。そうすると、扱える気がしてしまう」
ククルーは鈴を押さえたまま、小さく息を吐いた。
「今のこれは、もう少し小さいものだよ。鳴らしたら、何かが起きそうで。鳴らさなければ、何も起きないままでいられそうで。そういう、ずるい迷いだね」
ずるい、という言葉はククルーには似合わなかった。
少なくとも、僕が知っているククルーには。
でも、そう言ったククルーの声は、少しだけ楽になったようにも聞こえた。名前にしすぎないまま、自分の状態を置いたからかもしれない。
「迷ってるって、記録する?」
僕が言うと、ククルーは片目を細めた。
「ミトならそうするかもしれないね」
「ククルーは?」
「ぼくは、まず鈴を休ませるよ」
ククルーは鈴を外し、卓の上に置いた。鈴は思っていたより古かった。金色の表面には細い傷がいくつも走り、そのうち一つだけ、深く削れたところがある。
「手入れ?」
「寝支度だよ」
「鈴も寝るの?」
「鳴りものは、休ませないと音が尖るんだ」
ククルーは小さな布で鈴を拭いた。布はネオンシャのものらしく、霧の中でも少しだけ光を返す。青と白の細い模様が走り、雨に濡れた路地の看板を思わせた。
拭くたびに、鈴の音が少しずつ変わる。
最初は湿った音。
次は、細い音。
最後に、いつものククルーの足音に似た、軽い音。
「その傷、古い?」
僕が聞くと、ククルーの手が一瞬止まった。
「うん。ネオンシャでついたものだよ」
「覚えてる?」
「傷がついたことは」
ククルーは鈴を指先で回した。
「何にぶつけたのかは、覚えていないんだ。そこも、抜けている」
鈴の中で、小さな玉が転がる。
ちりん、と鳴るはずの音が、今は鳴らなかった。
「音が出ない」
「手で押さえているからね」
ククルーはそう言って、少しだけ笑った。
でも、その笑いはいつもの冗談より薄かった。
「鳴らすと、思い出しそうな気がする時があるよ。思い出したいのか、思い出したくないのか、まだ決められない」
リリウムは何も言わなかった。
僕も、すぐには聞かなかった。
ククルーは鈴を首に戻さず、小さな鞄の横へ置いた。その鞄には、あとでククルーが取り出すことになる記録片が入っている。鈴と記録。音と光。どちらも、ククルーが持っていて、まだ読み切れていないものなのだと思った。
リリウムは向かいで静かに杯を持っていた。
「旅人は、言葉を選ぶのが少し上手くなりました」
「褒められてる?」
「はい」
「分かりにくい」
「分かりやすい褒め言葉は、時々人を急がせるよ」
リリウムの言葉に、ククルーが小さく笑った。
「きみは本当に、言い換えないね」
「案内役は言い換えすぎです」
「言いすぎないための配慮だよ」
「隠し事にも似ています」
空気が変わった。
湯気だけが、変わらずゆっくり立ちのぼる。
ククルーは杯を置いた。陶器ではなく、乾いた茸の傘を固めたような器が、卓の上で軽い音を立てる。
「リリウム」
「今夜、言わないままにするのですか」
「言えることと、言えないことがあるよ」
「言いたくないことも?」
ククルーは答えなかった。
僕は二人を見比べた。聞きたいことは、ささやき池からずっと胸の中にある。ネオンシャの路地。若いククルー。白いクロニクルブック。持ち主はどこ、という問い。
でも、言葉にすると、何かが壊れそうだった。
ククルーは僕を見た。
「旅人さん。先に言っておくね。ぼくは、きみのことを全部知っているわけじゃないんだ」
「全部じゃなくても、一部は?」
「一部かもしれないものなら、持っているよ」
「かもしれない」
「うん。記憶というより、記録だね」
ククルーは首の鈴に触れた。鈴の表面には、小さな傷があった。これまで気づかなかった。古い傷で、金色の縁が少しだけ削れている。
「ネオンシャで、ぼくは一冊のクロニクルブックを見たことがある。霧を固めたような表紙で、持ち主の名が空白だった」
僕の手が、自分の本へ伸びた。
「これ?」
「似ているよ」
「同じじゃない?」
「同じと決めるには、足りないものが多すぎるね」
リリウムが静かに頷いた。
「同じと決める手前で、止まれたんだね」
ククルーは少し苦笑した。
「言葉を置いてくれて、ありがとう」
僕はクロニクルブックを開いた。持ち主名の欄は相変わらず空白だ。けれど、ささやき池から戻ってから、その下に細い線が増えている気がした。
線ではない。
文字になりかけた記号。
ネオンシャの看板のようにも、シルヴァリスの胞子の拍のようにも見える。縦に流れ、途中で折れ、また丸く戻る。読もうとすると、視界の端で雨がちらついた。
「これ、前はなかった」
ククルーが身を乗り出した。
リリウムも近づく。
「読まないで」
二人の声が重なった。
僕は手を止めた。
「危ない?」
「今は、疲れているね」
ククルーが言った。
「疲れた心は、近い言葉を選びやすい。今日、見たばかりだね」
僕は頷いた。
読める気がする。
それがいちばん危ないのだと、少しだけ分かってきた。
ククルーは卓の端に置いた鈴を、もう一度見た。
首に戻すのかと思ったが、戻さない。かわりに、鈴と鞄の間へ小さな布を敷いた。金色の鈴。透明な記録片の入った鞄。二つが直接触れないようにしている。
「ぶつかると困る?」
「音と記録が混ざると、どちらを聞いているのか分からなくなることがあるんだ」
「そんなことがあるの?」
「あるよ。特に、ぼくが落ち着いていないときは」
ククルーはそこで、少しだけ笑った。
「案内役らしくない告白が続くね」
「案内役じゃないククルーもいるんだと思う」
言ってから、ククルーがどう受け取るか少し不安になった。
でも、ククルーは目を丸くしたあと、ゆっくり瞬きをした。
「そうだね。たぶん、いるよ」
「たぶん?」
「うん。長く案内をしていると、案内役でいる方が簡単になるんだ。少し遠くから見れば、怖いものも道の形にできるからね」
リリウムが静かに言った。
「案内にすると、近づかずに済む」
ククルーは反論しなかった。
茸茶の湯気が、三人の間をゆっくり通った。土の匂いがする。帰る場所の匂いかもしれない、とミトが言っていた匂いだ。
「旅人さん」
ククルーは小さく呼んだ。
「これから出す記録片は、案内役として見せるものじゃない。ぼく自身が、まだ持て余しているものだよ」
「じゃあ、案内じゃない?」
「案内にしてしまいたい気持ちはあるよ」
「でも?」
「今夜は、少しだけ相棒に預けるよ」
相棒。
その言葉は、案内役、と呼ばれる時より軽く、でも近かった。
僕は頷いた。
「受け取る。答えにはしない」
ククルーは、ほっとしたように肩を落とした。
「ククルーは、その本をどこで見たの?」
ククルーは窓の外を見た。
胞子膜の向こうで、消えかけの灯りがゆっくり明滅している。しばらく答えはなかった。沈黙が長い。けれど、その沈黙を急かす気にはなれなかった。
「雨の夜だね」
やがて、ククルーが言った。
「ネオンシャの下層路地。サイバリアの信号が乱れた日だった。ぼくは、届けものを預かったんだ」
「届けもの?」
「クロニクルブックだよ」
ククルーは首の鈴から手を離し、腰の小さな鞄を開いた。中から出てきたのは、指先ほどの記録片だった。紙ではない。薄い透明な板に、細い光の線が閉じ込められている。
「これは、ネオンシャ式の記録片だよ。情報を短く圧縮して、光の筋として残す道具なんだ」
「読めるの?」
「普通なら」
ククルーは記録片を卓の中央に置いた。
透明な板の中で、光が一度だけ流れる。雨粒のように縦へ落ち、途中で信号の色に変わり、すぐに途切れた。赤、青、白。最後に、白い本の輪郭だけが浮かぶ。
そこから先は空白だった。
「壊れている?」
「壊れてはいないよ。むしろ、丁寧に残されている。残されているのに、肝心なところだけが読めない」
ククルーの声は、いつもより乾いていた。
「ネオンシャでは、情報は流れ続ける。街角の掲示、信号、音声案内、広告、噂。忘れたいことまで、勝手に残る。そんな場所で、ここだけが抜けているんだ」
リリウムが記録片を覗き込む。
「抜けているのではなく、伏せられているようにも見えます」
「そうかもしれないね」
ククルーは小さく笑った。
「だから怖いんだ。偶然の忘れものなら、まだよかった。誰かが、何かを守るために伏せたのだとしたら、ぼくはその理由を知らないまま、きみをここまで連れてきている」
胸が鳴った。
「誰から?」
「覚えていません」
「覚えてない?」
「そこだけ、抜けている」
ククルーは鈴に触れたまま続けた。
「本を預かったことは覚えている。雨の匂いも、信号音も、路地の光も覚えている。けれど、誰が渡したのか、どこへ届けるはずだったのかが、どうしても思い出せない」
「それって」
僕は言葉を探した。
「僕と似てる」
「うん」
ククルーは小さく頷いた。
「だから、ぼくは少し怖いんだ」
その言葉は、茸茶の湯気よりも静かに部屋へ広がった。
ククルーが怖いと言うのを、初めて聞いた。
いつも冗談を言う。案内役らしく振る舞う。問いには問いで返し、分からないことも道の形にしてしまう。そのククルーが、今は小さな老猫に見えた。
「何が怖いの?」
「ぼくが、きみを助けているつもりで、どこかへ誘導しているんじゃないかってことだよ」
僕はすぐに答えられなかった。
ククルーは僕を見ない。
「案内役は、道を示す仕事だよ。でも、もしぼくの忘れた記録が、きみを間違った場所へ連れていくものだったら」
「それも、まだ答えにしなくていいんじゃないかな」
言ってから、自分で少し驚いた。
ククルーもこちらを見た。
「案内役に教わったから」
僕はクロニクルブックを閉じた。
「今分かっているのは、ククルーがネオンシャで似た本を見たこと。誰から預かったかを忘れていること。僕も名前を忘れていること。これだけ」
「うん」
「それを、今すぐ怖い答えにしなくてもいいと思う」
リリウムが目を伏せた。
「旅人は、今夜、答えにする前の場所を見ているよ」
ククルーは何か言おうとして、やめた。
そして、深く息を吐いた。
「ぼくの立場がないね」
「減ってしまうんでしょ、出番」
僕が言うと、ククルーはようやく少し笑った。
「まだまだ減らさないよ。ぼくは年季の入った案内役だからね」
その笑いは、完全にいつも通りではなかった。
けれど、ささやき池で見た震えよりは、ずっと温かかった。
外で、胞子灯がひとつ灯った。
ミセリの夜に、小さな光が戻る。
その光を見た瞬間、クロニクルブックの中で、読めない記号がひとつだけ静かに脈打った。




