第1巻 霧の森の旅人 第6章 ささやき池の夜
夜が近づくと、シルヴァリスの霧は濃くなる。
ただ暗くなるのではない。昼の霧が白い布なら、夜の霧は薄い硝子に似ていた。胞子の光を閉じ込め、音を遠くへ逃がし、近くにいる人の輪郭だけを淡く浮かび上がらせる。
ミセリから、子どもたちが数人やって来た。
ククルーは最初、危ないから広場に残るようにと言った。けれどミトが、記録係は現場を見ないと記録できません、と言い切った。ククルーはしばらく眼鏡を押さえていたが、最後には「正論は強いね」と折れた。
池へ来る前、子どもたちは広場で夜支度をしていた。
ミトは記録札を三枚重ね、いちばん上に「聞こえたこと」、二枚目に「聞こえなかったこと」、三枚目に「まだ置くこと」と小さく印をつけた。文字を書くというより、膜に息を吹きかけて跡を残す。跡はすぐ消えそうで、消えない。
リナは勉強板の角を柔らかい胞子布で包んでいた。
「光が急に出ると、びっくりして落としちゃうから」
そう言う声はまだ不安そうだったが、板を抱える手つきは昼より落ち着いている。
モスは水路から借りた青い石を布に包み、短い拍と長い拍を自分の指で確かめていた。逆に見えるなら、逆に見えたまま持っていく。ククルーがそう言ったからだ。
ピリカは、池の方角を何度も確かめていた。追いかけないために、向きを覚えているのだという。
「怖い?」
僕が聞くと、ピリカは少しだけ頷いた。
「でも、遠い音が本当に遠いのか、私が遠くにしているのか、知りたい」
その言葉を、ミトがすぐに記録しようとした。
ピリカは慌てて首を振る。
「今のは、まだ置くこと」
ミトは真剣に頷き、三枚目の札へ息を吹きかけた。
夜支度は、道具を整えるだけではなかった。
怖いまま行くこと。
分からないまま持つこと。
まだ置く場所を作ること。
その全部が、儀式の一部なのだと思った。
子どもたちは池の周りに座った。
ミトは胞子膜の札を膝に置き、聞こえたことと聞こえなかったことを一生懸命書き留めている。花びら髪の子は、勉強板を胸に抱えたまま、水面を怖そうに見ていた。
リリウムは池の反対側に立ち、杖の先を水面へ向けていた。杖の飾りが開き、小さな茸の傘のような形になる。傘の内側には、星ではなく、文字になる前の点がいくつも光っていた。
「これから何をするの?」
僕が尋ねると、リリウムは水面から目を離さずに答えた。
「問いが言葉になる前の姿を、みんなで見ます」
リリウムは杖を横に倒し、池の縁をゆっくり指した。
「手順は三つです。最初に、池へ持ってきたものを並べる。次に、聞こえたものと聞こえなかったものを分けずに置く。最後に、誰か一人が答えず、全員で輪郭を見る」
「答えないのが手順に入ってるの?」
「はい。今夜は特に」
リリウムは子どもたちへ視線を向けた。
「ミト、記録札を」
「はい」
ミトが膝の上の札を両手で持ち上げた。胞子膜の薄い札には、細かな点と短い線がたくさん浮かんでいる。文字に近いものもあれば、ただの震えにしか見えないものもある。
「リナ、勉強板を」
花びら髪の子が、胸に抱えていた板をそっと差し出した。さっきまで怖がっていた指が、まだ少し震えている。
「モスは、水路の青い石を」
苔色の肌の子が、小さな布包みを開いた。中には、水場の底に敷かれていた青い石が三つ入っていた。消えた胞子灯の影が落ちていた場所から拾ったものだという。
「ピリカは、聞こえた遠い音を」
透明な翅の子は困った顔をした。
「音は、持ってこられない」
「持ってこなくていい。どの方角から聞こえたか、池に向けて座ってください」
ピリカは真剣に頷き、池の東側へ座った。翅が夜の霧を受けて、細く光る。
リリウムは最後に僕を見た。
「旅人は、手を空けておいてください」
「何も持たない?」
「今夜あなたが持つと、すぐに答えになります」
僕は自分の手を見た。
空っぽの手。
でも、胸の奥には、さっきからいくつもの問いがある。ここはどこ。帰るところは。名前を。ネオンシャの雨。白いクロニクルブック。
手ぶらでいることは、思ったより難しかった。
「みんなで?」
「一人で聞くと、自分の記憶が混ざることがあるよ」
ククルーが僕の隣に座った。
「だから集落の託宣は、本来ひとりで抱えるものではないんだ。読む人、記録する人、見守る人、間違える人、笑う人。全部そろって、ようやく祝福に近づく」
「間違える人も?」
「重要だね」
ククルーは大真面目だった。
「間違い方は、問いの輪郭を教えてくれるよ」
僕は勉強板での失敗を思い出した。あのときの光は散った。でも、温かさは残った。もし本当に何も残っていなかったら、子どもたちはここへ来なかったかもしれない。
リリウムが杖を軽く振った。
池の水面が、鏡のように静まる。
霧の音が消えた。
いや、消えたのではない。遠くへ下がった。さっきまで耳元にあった森の呼吸が、背後へ退き、池の中心だけが近づいてくる。
灰色の影が浮かんだ。
昼よりも大きい。
それは池の底から立ち上がる煙のようで、同時に、紙に染みた水のようでもあった。形を持たないまま、何かの形を探している。人の横顔。灯りの膜。小さな手。古い道標の空白欄。僕のクロニクルブックの空白ページ。
池の縁に置かれたものが、順番に反応し始めた。
ミトの記録札には、まだ文字になっていない点が浮かび、雨のように下へ流れた。けれど、札の端で消えずに留まり、細い輪を作る。
リナの勉強板では、短い光がひとつだけ灯った。昨日なら、リナはすぐ続きを追いかけたのだろう。けれど今は、唇を結んで、その一つ目の光だけを見つめている。
モスの青い石は、水を含んだように色を深くした。短い拍と長い拍が逆に見えていた子は、布の上で転がりそうになる石を、そっと指先で支えた。
ピリカの翅は、池へ向けた方角だけがかすかに震えた。遠くで鳴っていた音が、少しずつ近づいているのかもしれない。それでもピリカは追いかけない。座った場所を離れず、怖い顔のまま、そこにいる。
誰も正解を言わなかった。
誰も、間違いを笑わなかった。
ただ、見ている。
その静けさが、池の底へゆっくり沈んでいく。
僕は息を止めた。
影の中に、自分の本が見えた気がした。
「旅人さん」
ククルーの声が低く届く。
「追いかけすぎないで」
僕は頷いた。
でも、視線を外せない。
影の内側で、文字が生まれようとしていた。七大陸の名ではない。ミセリでもない。僕の名前でもない。もっと短く、もっと古い、最初の音。
――か。
――え。
――る。
帰る。
言葉になった瞬間、池の水面が大きく揺れた。
子どもたちが小さく声を上げる。
「今、帰るって」
「私にも見えた」
「音じゃなくて、胸が読んだ」
ミトが慌てて札に書き込む。
ククルーは目を細めた。
「共有されたね」
「共有?」
「旅人さんだけに聞こえていたものが、少しだけみんなに渡ったんだ」
僕は水面を見た。
影の輪郭が揺れている。苦しそうではない。けれど落ち着いてもいない。帰る、という言葉は見えた。でも、どこへ帰るのかは分からない。
そのとき、花びら髪の子が小さく言った。
「帰るって、灯りに?」
影が震えた。
水面に細い光が走る。
「反応した」
ミトが札に書く。
別の子が続ける。
「集落に?」
影は少しだけ明るくなった。
でも、まだ足りない。
僕は問いの奥を聞こうとした。
帰る。灯りに。集落に。けれど、それだけではない。何かが足りない。場所ではない。名前でもない。
池の影が、急に低く沈んだ。
水面の下に、黒い円が開く。
僕はそれを見た瞬間、全身が冷たくなった。
虚無。
言葉が浮かぶ。
中央の底。七つの大陸の下にある深い穴。世界樹が抗い続ける暗さ。落ちれば戻らない、忘れられた問いの行き先。
池の中の黒い円は小さかった。
けれど、見たことがある気がした。目覚めたとき、空白ページの奥で見た。道標の空白欄で見た。僕の記憶が途切れる場所にも、同じ黒がある。
「旅人さん、手を引いて」
ククルーの声。
僕は気づくと、水面へ手を伸ばしていた。
触れてはいけない。
そう思うのに、黒い円の奥から何かが呼んでいる。
――ここは、どこ。
――かえるところは。
――なまえを。
問いが重なる。
その奥に、別の音が混じった。
雨。
高い建物。
光る文字。
信号音。
ネオンシャの夜。
それが僕の記憶なのか、池が拾った誰かの記録なのか、ククルーの沈黙からこぼれたものなのか、分からなかった。分からないのに、光だけは近い。近いものほど、自分のものだと決めたくなる。
水面が反転した。
池ではなく、雨に濡れた路地が見える。細い路地の両側に看板が重なり、ピンク、青、金、白の光が水たまりに落ちている。誰かが走っている。小さな影。マント。鈴。
ククルー?
呼ぼうとしたが、声にならない。
路地の奥に、背の低い猫の後ろ姿が見えた。今より少し若い。歩き方が速い。尾が焦ったように揺れている。その猫は何かを抱えていた。白い本。霧を固めたような表紙。
クロニクルブック。
僕のものと同じ。
いや、同じに見えるだけかもしれない。
水面は、似たものを近づけて見せる。リリウムが昼に言った、似ているものを同じものにしないこと、という言葉が、遅れて胸の奥へ戻ってきた。
雨音が強くなる。
ネオンの文字が崩れ、問いになる。
――持ち主は、どこ。
胸が強く痛んだ。
僕は水面へ落ちそうになった。
その瞬間、誰かが手首を掴んだ。
ククルーではない。
リリウムだった。
細い指なのに、力は強かった。彼女は僕の手を水面から引き離し、短く言った。
「戻って」
その声は命令ではなく、帰る場所を示す道標のようだった。
僕は息を吸った。
霧の匂い。
苔の湿り気。
子どもたちの息。
ククルーの鈴。
ささやき池の水音。
ここはシルヴァリス。
ここはささやき池。
ここは、今いる場所。
僕は水面から目を離した。
黒い円は消えていた。
灰色の影も小さくなっている。けれど、完全には消えていない。池の中心で震えながら、細い光をまとっていた。
「大丈夫かな」
ククルーの声がした。
見上げると、ククルーはすぐそばにいた。顔色、という言い方が猫に合うのか分からないけれど、明らかにいつもの余裕がない。眼鏡は少しずれ、鈴も揺れている。
「今の、見た?」
僕が聞くと、ククルーは答えるまでに少し時間を置いた。
「一部だけ」
「ネオンシャ」
ククルーの耳が下がった。
そのときになって、ようやく自分の体が震えていることに気づいた。
指先が冷たい。
けれど手のひらだけは、雨に濡れた路地の熱を覚えている。ささやき池に触れていないのに、爪の間へ黒い水が入り込んだような感覚があった。息を吸うと、霧の匂いではなく、石畳に落ちた雨と、遠くの灯りが熱を持つ匂いが混じる。
僕は胸元のクロニクルブックを押さえた。
表紙が湿っている気がした。実際には濡れていない。けれど指を滑らせると、雨粒の跡のような冷たさが残る。
「ここは」
声がかすれた。
ここはどこ。
その問いは池の影のものだったはずなのに、今は僕の喉の奥から出てきそうになる。
「ここはシルヴァリス」
ククルーが先に言った。
いつもの案内の声ではなかった。短く、低く、僕の足元を押さえるような声。
「ミセリのささやき池だよ。足元は苔。右にリリウム。左にぼく。鈴はここ」
ククルーは首元の鈴を指で軽く押さえた。ちりん、と鳴るはずの音は、指に止められて半分だけ響いた。
半分の音。
それでやっと、僕は自分が立っていることに気づいた。膝が震えている。立っているというより、誰かに立たされているみたいだった。
リリウムが近づき、僕の前に手を差し出した。触れはしない。水面の上で僕がしたように、ただそこに置く。
「息を、数えないで」
「数えない?」
「数えると、合わせようとします。今は合わせなくていい」
僕は頷こうとして、うまく頷けなかった。
息が短い。吸うたびに、ネオン色の雨が胸の内側で弾ける。青。桃色。白。白いクロニクルブック。持ち主はどこ。ククルーの若い後ろ姿。知らない路地。
「旅人さん」
ククルーの声がまた届く。
「見えたものを、全部言わなくていい」
「でも、忘れる」
ククルーは即答しなかった。言い切る前に、一度だけ目を閉じた。
「忘れてしまうものもあるよ。でも、無理に掴むと、今いる場所まで一緒に引っ張られるんだ」
それは、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
僕はククルーを見た。
老猫の瞳の奥に、さっき見たネオンの反射が一瞬だけ残っている気がした。雨の路地を知っている目。白い本を見たことがある目。けれど、そこへまっすぐ踏み込むと、ククルーまで池の黒い円へ近づけてしまう。
「ククルーも、今のを見た?」
ククルーの耳がさらに下がった。
「全部ではないよ」
「少し?」
「少し」
「怖い?」
ククルーは答えなかった。
答えないことが、答えよりはっきり届くこともあるのだと、シルヴァリスへ来てから知った。
リリウムが、池の水を小さな葉に一滴だけ受けた。葉の上で水滴は黒くならず、青白い光を返している。
「これを見てください」
僕は水滴を見る。
霧の光。
胞子の揺れ。
リリウムの白い指。
ネオンの雨ではない。
水滴の中に、今いる場所が小さく映っていた。
「戻すのではありません」
リリウムが言う。
「今の場所を、重ねる」
僕はもう一度息を吸った。数えない。ただ、入ってくるものを入れる。霧の匂い。池の冷たさ。苔の湿り。ククルーの止めた鈴の半分の音。
少しずつ、手のひらの雨の熱が引いていった。
完全には消えない。
でも、シルヴァリスの冷たさと並んだ。
クロニクルブックを開くと、余白に細い線が増えていた。ネオンシャの信号のようにも、胞子の拍のようにも見える線。その横に、未完成の輪が一つ。記録庫の透明な札で見た輪に似ている。
僕は指でなぞらなかった。
似ている。
けれど、同じにしない。
リリウムが静かに言う。
「この問いは、旅人だけのものではなさそうだね」
ククルーは何も言わなかった。
子どもたちは不安そうに三人を見ている。ミトの札を持つ手が震えていた。僕は自分の息を整え、子どもたちへ向き直った。
「ごめん。少し、遠くを見すぎた」
ミトが首を振る。
「でも、帰るって、みんなで見えた」
「うん」
僕は池の中心を見た。
灰色の影は、まだ帰れていない。けれど、昼より少しだけ輪郭がある。名前ではない。答えでもない。ただ、帰りたいという問いだけは、みんなに渡った。
「今は、それを記録しよう」
僕が言うと、ミトははっとして札に書き込んだ。
ミトの手はまだ震えていた。
けれど、震えたまま書いている。線は少し歪み、胞子膜の上で点がにじんだ。それでも消えない。聞こえたこと。帰る。見えたこと。黒い円。見えなかったこと。どこへ帰るのか。
「書けてる?」
ミトが聞いた。
「書けてる」
僕が答えると、ミトは少しだけ息を吐いた。
リナは勉強板を抱えたまま、水面から目を離せずにいた。最初の短い光だけを見つめる癖が、ここでも出ているのかもしれない。けれど今のリナは、短い光を探しているのではなく、見えたものの最初の一つを逃さないようにしているようだった。
「私は、帰るって見えた」
リナが言った。
「でも、最後は白くなった。黒い円のところは、見えたって言っていいのか分からない。見ようとしたら、花びらが閉じちゃった」
髪の花びらは、確かに固く閉じていた。リナはそれを恥ずかしそうに触る。
リリウムが静かに頷いた。
「花びらが閉じたことも、記録です」
「読めなかった、じゃなくて?」
「閉じて守った、かもしれません」
リナは驚いた顔をした。守った、という言葉が自分に向けられるとは思っていなかったのだろう。少しして、彼女は勉強板の端に小さく書いた。
花びらが閉じた。
モスは青い石を握っていた。
「僕は、黒い円が逆に見えた」
「逆?」
ミトが聞く。
「みんなは下に穴があるみたいに言うけど、僕には上から落ちてくる丸にも見えた。怖かった。でも、どっちが本当か分からない」
ククルーが眼鏡を押し上げた。
「その向きで見えたんだね。虚無は下にあると教わるけれど、感じ方としては上からかぶさることもある。恐怖の向きは、人によって違うんだ」
モスはほっとしたように石を見た。
「じゃあ、逆でもいい?」
「逆と記録しておこう」
モスは頷いた。青い石の表面に、水滴のような光が一つ浮いた。
ピリカは、池から少し離れた根の上にいた。翅の震えは小さい。けれど完全には止まっていない。
「私は、帰るって言葉は近かった」
ピリカは目を閉じたまま言った。
「でも、持ち主はどこ、は遠すぎた。追いかけたら、声じゃなくなった」
「声じゃなくなる?」
「音の形が、雨みたいになった。たくさん落ちてきて、どれを聞けばいいか分からない」
ネオンシャの雨。
僕の手のひらに残った熱が、また少し戻る。
ピリカは続けた。
「だから、聞かなかったことにする」
「聞こえなかったこと、じゃなくて?」
ミトが尋ねると、ピリカは首を振った。
「聞こえたけど、聞かなかった。追いかけないために」
ミトは三枚目の札を開いた。
まだ置くこと。
そこに、ピリカの言葉を書き込む。聞こえたけど、聞かなかった。追いかけないために。
その一文が刻まれた瞬間、池の縁の草が同じ向きへ小さく揺れた。強い反応ではない。けれど、池がその記録を受け取ったのだと分かった。
子どもたちは、まだ怖がっていた。
でも、怖がったまま記録している。
それは、昼の広場での訓練よりずっと難しいことだった。明るい広場で、読めませんでしたと言うのも勇気がいる。けれど夜の池で、黒い円とネオンの雨を見たあとに、自分の見え方を置くのは、もっと勇気がいる。
僕はそのことを、忘れないようにしたかった。
「みんな、すごい」
思わず言うと、ミトが少しだけ照れた。
「すごいって記録する?」
「それは、まだ置くことかな」
ククルーが小さく笑った。
「旅人さん、言葉の置き方が慎重になってきたね」
「案内役の影響」
「責任重大だね」
笑いは小さかった。けれど、池の中心の影が、また少しだけ揺れた。笑い方を思い出すように。さっき感じたことが、今度は少し確かに見えた。
リリウムが僕を見る。
その目に、最初の警戒とは違う光があった。
「受け取り方が早いですね」
「失敗したから」
「それが、次に見る場所を教えてくれたんだね」
ククルーが小さく息を吐いた。
「ぼくの出番が減ってしまうね。案内役としては、少しさびしいな」
いつもの調子に戻そうとしているのが分かった。
でも、その声は少しだけ震えていた。
僕は聞きたいことがたくさんあった。
ククルーは、あの路地を知っているのか。
あのクロニクルブックは何なのか。
僕の空白と関係があるのか。
けれど、今それを問い詰めたら、また近い言葉で蓋をしてしまう気がした。
だから、僕は別のことを聞いた。
「ククルー。帰ったら、温かいものはある?」
ククルーは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ほっとしたように笑った。
「ミセリの茸茶は絶品だよ。少し土の味がするけれど」
「土の味」
「悪口じゃないよ」
子どもたちが小さく笑った。
ささやき池の影も、ほんの少しだけ揺れた。
まるで、笑い方を思い出そうとしているみたいに。




