砂漠の薬草市 第7章 ククルーの薬袋
その夜、市場の布屋根は半分だけ下ろされた。
完全には閉じない。閉じれば、今日の光を終わったことにしてしまう。開けたままにすれば、砂の風が強すぎる。だから、布屋根は半分だけ下ろされ、星砂棚も薬草灯の棚も、低い影の中に置かれた。
客たちは帰りきっていない。
戸口へ持って帰りたい人は、まだ空のかごを持っている。商人は、未登録棚の前を離れず、売る手と守る手を交互に見ている。セナリは、空の見出し欄を低い試し台の足元へ置いたまま、その横に座っていた。
ククルーは、市場の端で自分の小さな薬袋を見ていた。
旅人は、しばらく黙っていた。
その袋を、これまで何度か見たことがある。ククルーが旅の途中で持ち歩いている、小さく古い袋だ。中に何が入っているのか、ククルーは詳しく話したことがない。薬袋と呼ばれているが、薬を出して使うところを見たこともない。
砂の夜風が袋の紐を揺らした。
ククルーは、前足を袋へ近づけた。
開けるのかもしれない。
そう思ったのは、旅人だけではなかった。セナリも、ミナモも、ネフェルも、バドゥも、少しだけククルーの手元を見た。
ククルーは、その視線に気づいていた。
「開けると、楽になるかもしれないね」
声はいつも通りに聞こえた。
けれど、ほんの少し乾いていた。
「何が入っているんですか」
セナリが聞きかけて、口を押さえた。
聞きたい手が出たのだ。
ククルーは、怒らなかった。
「聞きたいね」
セナリはうなずいた。
「うん。今日の市場では、薬袋という言葉が強すぎるね」
「強い言葉だよ。薬草市で薬袋を開ければ、何か分かるように見える」
ククルーは、袋を開けなかった。
かわりに、低い試し台の近くへ歩き、三つの円の外側へ袋を置いた。買う前、測る前、持って帰る前。そのどれにも入れない。説明前の布の上にも置かない。少し離れた砂の上に置いた。
「ここですか」
旅人が聞いた。
「ここだね」
「なぜ、円の外に」
「この袋を円に入れると、袋の中身を市場の手順にしてしまうね」
ククルーの鈴は鳴らない。
薬袋の横で、鈴も鳴らない。
二つの沈黙が、低い試し台の足元に並んだ。
ミナモは、薬袋を見ていた。
「袋を開ければ、薬草灯の話が進むように見えます」
「見えるね」
「でも、開けない」
「開けたい手を、置こう」
ククルーはそう言った。
ネフェルは、測る前布を薬袋の近くへ持ってきた。置こうとして、止めた。
「測る前布も、近すぎるね」
「近すぎるね」
ククルーはうなずいた。
「測る前に置く布は、測るものがある時に働くね。この袋を測るものにすると、また違う話になるんだ」
バドゥは、待つ石を持っていた。
「待つ石も、近すぎるか」
「少し」
「待つことにすると、いつか開ける約束になる」
「そうです」
バドゥは、待つ石を薬袋から少し離れた場所へ置いた。袋のための石ではない。袋を見て待ちたくなった足のための石だ。
セナリは、空の見出し欄を抱えた。
「ククルー、薬袋を開けず」
そこまで言って、首を振った。
「見出しになりすぎます」
「なるね」
ククルーは、少し笑った。
「ククルーと薬袋は、ずるい言葉だね」
「ずるい」
「知っていそうに見えるからね」
セナリは、欄を伏せた。書かないために閉じるのではない。言葉の強さを、少し砂へ向けるためだった。
旅人は、薬袋を見た。
開けてほしい手がある。
開けないでほしい手もある。
中身を知りたい手と、中身を市場の答えにしたくない手が、同じ胸の中にあった。どちらか一方を正しい手にすれば楽になる。知りたい手を責めれば、袋は守れる。開けない手を責めれば、説明は進む。だが、どちらも少し違う。
「知りたいです」
旅人は言った。
ククルーは、旅人を見た。
「うん」
「でも、今ここで知ると、市場の答えにしそうだね」
「うん」
「だから、知りたい手を置こう」
旅人は、浅い連絡袋の外側に留めていた月光タグを少し揺らした。タグは、読まれ方をひとつにしなかったものだ。ここで薬袋の横へ置けば、薬袋の読み方を整える札になってしまう。
置かなかった。
月光タグは、袋の外側に留めたままにした。
ククルーは、それを見ていた。
「使わなかったのだね」
「使いたくなりました」
「使いたくなった手が、ここで見えたんだね」
その言い方は、ミャオリンに少し似ていた。
市場の夜が、深くなった。
薬草灯は、強く光らない。星砂も、昼のようには点を落とさない。水路瓶の中の水だけが、布屋根の下で小さく揺れている。
ミナモは、薬袋の近くへ湿り布を置かなかった。
ネフェルは、星砂帳を開かなかった。
バドゥは、待つ石を薬袋のためには動かさなかった。
それぞれが、自分の道具を近づけすぎないようにしている。その距離が、市場の夜に必要だった。
「説明しないことは、不親切に見えます」
セナリが言った。
ククルーは、薬袋を見たまま答えた。
「不親切に見える日もあるね」
「それでも」
「説明すれば親切に見えることもあるね。でも、親切に見える説明が、相手の手元を奪うこともあるんだ」
旅人は、戸口へ持って帰りたい客を見た。
その人は、まだ空のかごを持っている。薬袋を見ている。もしククルーが袋を開け、何かを示せば、その人はかごへ何かを入れられる気がするかもしれない。安心できるかもしれない。だが、その安心が、戸口の時間へ戻る前に市場で形になるなら、また速い。
ククルーは、袋の紐へ前足を近づけた。
今度も、開けなかった。
ただ、紐の結び目を少しゆるめた。
「ゆるめるだけですか」
旅人が聞いた。
「開けないことを固くしすぎないためだね」
「いつか開けるためではなく」
「そうだね。開けない、と決めると、それもまた答えになるね」
ククルーは、薬袋を低い試し台の外側へ置いたまま、少し離れて座った。
袋は閉じている。
だが、結び目は少しゆるい。
市場の人々は、それを見た。中身は分からない。分からないが、閉じられた壁にも見えない。開ける前の手が、そこに置かれている。
セナリは、空の見出し欄をまた開いた。
何も書かない。
欄の下に、小さな線だけを引いた。袋の紐のように、少しゆるい線だった。
「これは、記事に入れません」
「では、何に」
旅人が聞くと、セナリは首を傾けた。
「書く前のかごの底に置きます」
ミナモは、小さくうなずいた。
「底に置くものは、見えにくいです。でも、かごの形を少し変えます」
薬袋は開かれなかった。
ククルーの説明も、まだ始まらなかった。
けれど、説明したくなる手、知りたい手、親切に見せたい手、安心を持って帰りたい手が、低い試し台の外側に少しずつ見えていた。
市場の夜は、答えではなく、開ける前の距離を覚え始めていた。
### 中盤増補4 薬袋の影を測らない夜
薬袋の下には、小さな影があった。
布屋根の隙間から入る星明かりと、薬草灯の低い光が交じり、袋の影はひとつに見えなかった。結び目の影、袋の底の影、紐の先の影。それぞれが少しずつ違う向きへ伸びている。
ネフェルは、その影を見ていた。
「測れますか」
旅人が聞くと、ネフェルはすぐ答えなかった。
「測れます」
やがて、そう言った。
「測るのですか」
「今日は測りません」
測れるものを測らないことは、測れないものを測らないことより難しい。星砂帳が閉じられていても、ネフェルの目は影の向きを知っている。どの光がどの線を作ったか、見ようと思えば見られる。
バドゥは、水路瓶を影へ近づけなかった。
「水に映せば、見えやすい」
「見えやすくしないのですね」
「映った影は、水のものになる」
バドゥは、瓶を自分の膝のそばへ置いた。袋から離れた場所だった。
ミナモは、湿り布を袋の横へ置きかけ、手を止めた。
「布を敷けば、影がやわらかくなります」
「敷きますか」
「敷くと、やわらかくした手になります」
ミナモは、布を畳んだまま膝に置いた。
ククルーは、薬袋の影を見ていた。
「影まで説明できるね」
「説明したくなりますか」
旅人が聞くと、ククルーは耳を少し伏せた。
「なるね。影は、中身より話しやすいから」
中身は見せない。
けれど影なら話せる。
話せるものを話せば、親切に見える。袋を開けていないのだから、秘密を守ったようにも見える。だが、影を説明しすぎると、袋の中身を回り道で読ませることになる。
セナリは、空の見出し欄の端に筆を近づけた。
「薬袋の影、という見出しは」
そこで止めた。
「強いですね」
旅人は言った。
「強いね。中身を書かなくても、読ませられるからね」
セナリは、筆を置いた。
「書かないことを、書く手段にしてしまうところでした」
ククルーは、薬袋の紐を少し見た。
結び目はゆるい。影もゆるい。だが、ゆるい影は、安心の印ではない。開けないことを固くしすぎないためのゆるさであって、開けてもよいという合図ではない。
旅人は、低い試し台の外側に小さな石を置いた。
「影を測りたい手です」
ネフェルが、その石を見た。
「測れるから、置けます」
バドゥは、もう一つ石を置いた。
「映したい手」
ミナモも布端の小さな折り目を置いた。
「やわらかくしたい手」
セナリは、筆の乾いた先を見たあと、木片を置いた。
「書きたい手」
薬袋の影の周りに、四つの小さなものが並んだ。どれも袋へ触れない。影にも触れない。ただ、影を扱いたくなる手だけが外側に置かれている。
ククルーは、薬袋を動かさなかった。
「影を測らない夜も、あるね」
「影を見ない夜ではなく」
旅人が言うと、ククルーはうなずいた。
「見るよ。見て、測らない。見て、映さない。見て、やわらかくしない。見て、書かない」
市場の夜は、さらに低くなった。
薬袋の影は、少しずつ形を変える。布屋根が揺れ、灯の位置がわずかに変わる。測らなかった影は、測られないまま動いた。
その動きが、袋を開ける前の距離をもう少し厚くした。




