砂漠の薬草市 第3章 水路から来たバドゥ
バドゥが持っていた水路瓶は、大きかった。
ヴェルデガイアの大河をそのまま入れたような瓶ではない。むしろ、中の水は少ない。瓶の底を覆うほどしかなく、歩くたびに、細い線になって揺れる。それでも市場の人々は、その瓶を見て少し息をついた。乾いた棚の前に水が来ると、それだけで何かが分かる気がする。
バドゥは、瓶を高く掲げなかった。
砂皿の横へ置いた。
「上から見ると、全部読めた気になる」
低い声だった。
「横から見る」
旅人は、バドゥの顔を見た。
かつて滝の大陸で見た大河の案内役は、前より少し静かに見えた。水の音を背負って来たのに、説明を急がない。市場の人々は、バドゥが答えを持ってきたのだと思いかけている。けれど、バドゥはその期待を受け取らず、瓶の横に膝をついた。
「その葉札、水路を通ったかもしれない」
商人が言った。
「かもしれない」
バドゥは繰り返した。
「通ったと決めるには早い」
「でも、水の跡がある」
「ある」
「なら」
「水の跡がある葉は、水路を通った葉だけじゃない」
バドゥは、瓶の底を指で軽くたたいた。水が揺れ、細い緑の線が一瞬だけ見えた。ミナモの棚にあった水路瓶の底にも、似た線があった。似ている。だが、同じではない。
ネフェルは、星砂帳を閉じたままバドゥの横へ立った。
「星の穴も、葉札も、水の線も、似ている場所へ集まっています」
「集まりすぎると、ひとつの話になる」
バドゥは言った。
「ひとつの話は、運びやすい」
「市場では売りやすい」
ネフェルが続けた。
二人は、互いに答えを押しつけていない。星読みと水路の案内役が並ぶと、どちらが正しいかを見たくなる。星で測るのか、水で戻すのか。乾いた知識か、湿った生活か。だが、二人は同じ砂皿を見ているだけだった。
バドゥは、腰の袋から石を一つ取り出した。
丸く、濡れていない石だ。
「待つ石」
ミナモが言った。
「まだ持っていたんですね」
「待つ場所が変わると、石も別の顔をする」
バドゥは、待つ石を乾いた葉札の近くへ置かなかった。砂皿の外、客の足元に近い場所へ置いた。
「そこですか」
セナリが聞いた。
「葉の横に置くと、葉を待たせる石になる。客の足元に置くと、持って帰りたい足を待たせる石になる」
客の一人が、自分の足を見た。
戸口へ持って帰りたいと言っていた人だ。かごを置いても、足は少し前へ出ている。待つ石が足元に置かれると、その前へ出た足が見えた。客は、足を引っ込めなかった。ただ、前へ出ていることを見た。
「早く帰りたいです」
客は言った。
バドゥはうなずいた。
「早く帰りたい手は、ここにある」
「悪いですか」
「悪くない」
「でも、買わないほうがいい?」
「それも、まだ早い」
バドゥは、水路瓶を少し傾けた。水はこぼれない。瓶の内側を細く流れ、底の緑の線へ戻る。
「水は、すぐ答えを出さない。流れたところを見せる」
旅人は、その水の動きを見ていた。
ヴェルデガイアの水は、流れれば戻ることがある。アルカディアの星砂は、並べれば測れることがある。ネオンシャの信号は、遅らせれば読めることがある。ルミエールの月光は、照らす前に距離を作れることがある。
どれも、同じではない。
同じにすれば、便利になる。便利になると、次の手が早くなる。
ククルーは、待つ石の前に座った。
「旅先の道具が、ずいぶん集まったね」
「集めると、強くなりますか」
旅人が聞くと、ククルーは首を振った。
「強く見えるね。見えるから、気をつけよう」
ネフェルは、三つの石の横へ、バドゥの待つ石を加えなかった。
「同じ列に置かないのかな」
セナリが聞いた。
「測りたい手、売りたい手、持って帰りたい手は、葉札の周りにあります。待つ石は、足元にあります」
「同じ手元ではない」
「はい。同じ皿に入れると、待つことまで測る手順になります」
バドゥは、低く笑った。
「待つことを手順にすると、待てたかどうかを数えたくなる」
セナリは、空の見出し欄をまた外へ出した。
「待つことも、数えられます」
「数えられる」
バドゥは否定しなかった。
「でも、戸口で待つ人の時間は、ここで全部数えられない」
客は、顔を上げた。
「戸口のこと、どうして」
「ミナモが聞いていた」
バドゥは、ミナモを見た。
「市場で聞いたことは、市場だけの情報じゃない。戸口へ戻る」
ミナモは、静かにうなずいた。
「だから、葉だけを見て選べません」
ネフェルは、星読み札を一枚、砂皿の外へ置いた。穴のふさがっていない札だ。光は落ちない。寝かせてあるからだ。
「星も、棚だけの情報ではありません。夜へ戻ります」
「水は、水路へ戻る」
バドゥが言った。
「薬草灯は、戸口へ戻る」
ミナモが続けた。
三つの言葉が並んだ。
夜へ戻る。
水路へ戻る。
戸口へ戻る。
どれも市場から出ていく言葉だった。市場の中で売るための言葉ではない。市場を通り、生活へ戻るための言葉だ。
旅人は、淡い記録紙を砂皿の端から少し外へ動かした。
「ここに置くと、市場の記録になります」
ネフェルが言った。
「少し外へ置きます」
「なぜ」
「夜、水路、戸口へ戻る手を、市場の中だけで数えないためです」
バドゥは、待つ石を足元へ置いたまま、うなずいた。
「それでいい」
その時、未登録の葉札が風で少し動いた。
誰かが手を伸ばしかけた。
止まった。
手を伸ばしたのは商人だった。売るためではなく、落ちないようにするためだ。だが、手を伸ばすと、守る手と隠す手は似て見える。商人は、そのことに気づいたのか、指を途中で止めた。
ネフェルは、商人の手を見た。
「守りたい手も、置きます」
商人は、少し苦い顔をした。
「置くと、何もできない気がする」
「何もできないのではありません。何をしたくなったかを先に見ます」
バドゥは、待つ石を商人の足元へ少し近づけた。
「守りたい足も、前に出る」
商人は、自分の足を見た。
客も、商人の足を見た。
市場の声が、ほんの少し低くなった。
原因を知りたい声は消えていない。買いたい手も、止めたい手も、守りたい手も残っている。未登録の葉札も、ふさがった星の穴も、水路瓶の緑の線も、まだ同じ砂皿の近くにある。
だが、星砂棚の前には、足元を見る人が増えていた。
砂皿市は、売る場所である前に、足が前へ出たことを見られる場所になり始めていた。
ミナモは、戸口へ持って帰りたい客のかごを見た。
「まだ選びません」
客は、不安そうに息を吐いた。
「でも、待っている人がいます」
「はい」
ミナモは、待つ石を見た。
「待っている人がいることを、ここで急がせないようにします」
バドゥは、水路瓶を抱え直した。
「戸口の話を、次に聞く」
「次」
セナリが聞いた。
「市場の棚ではなく、戸口へ戻る話」
ネフェルは、閉じた星砂帳を砂皿の横へ置いた。
「星読みも、戸口の話を聞いてから開きます」
星砂帳が、初めて棚から離れた。
開かれてはいない。だが、閉じた帳が砂皿の横へ置かれたことで、星読みは少しだけ生活のほうへ下りてきた。
旅人は、浅い連絡袋の外側を見た。
銀葉の小片も、淡い記録紙も、遅い信号の余白も、月光タグも、砂の風で乾いている。けれど、それらはまだ答えの道具になっていない。市場の足元を見るために、少し外側で揺れている。
薬草市のざわめきは続いていた。
しかし、そのざわめきの中に、水路瓶の小さな音が混じった。
乾いた市場に、生活へ戻るための湿った音が、ようやく入ってきた。
### 中盤前段増補2 水路瓶の底に残る線
水路瓶の底には、細い緑の線が残っていた。
それは水草の色ではない。瓶を運ぶあいだ、底の水が何度も傾き、乾いた内側に少しずつ跡をつけた線だった。市場の光を受けると、その線は葉脈のようにも、道のようにも見える。
「道ですか」
客の一人が聞いた。
バドゥは、瓶を少し低くした。
「線だ」
「どこへ続く線ですか」
「続ける前の線だ」
短い答えだった。
市場では、線を見るとすぐ道にしたくなる。道にすれば、どこから来たか、どこへ行くかが言える。言えれば安心する。だが、水路瓶の底の線は、まだ水路へ戻っていない。瓶の中で揺れ、歩く腕の重さを受け、砂皿市の乾いた空気に触れただけの線だった。
ネフェルは、星読み札をその線へ向けなかった。
「星で向きを決めないのですか」
旅人が聞くと、ネフェルは首を振った。
「向きをつけると、行き先に見えます」
「行き先ではない」
「はい。今は、揺れた跡です」
ミナモは、湿り布を瓶の下へ差し込まなかった。差し込めば、瓶の底は安定する。安定すれば、線も見やすくなる。だが、見やすくなった線は、市場でまた別の意味を持つ。
「安定させないのですか」
商人が聞いた。
「倒れないようには見ます。でも、見やすくしすぎません」
ミナモは、瓶の横に手を置いた。支えるのではない。倒れる前に気づける距離だった。
バドゥは、待つ石をひとつ、瓶の底の影から少し離して置いた。
「水のそばに石を置かないのかな」
旅人が聞いた。
「水のそばに置くと、水を止める石に見える」
「離すと」
「待つ手の石になる」
石は、水路瓶を止めていない。線を守ってもいない。ただ、線を道にしたくなる手の少し手前に置かれていた。
セナリは、閉じていない見出し欄へ視線を落とした。
「水路瓶の底に残る線。短く書けます」
「短いと、何になりますか」
旅人が聞くと、セナリは線を見た。
「水が来た、という話になります」
「来たことは事実です」
「はい。でも、来た理由まで来たように読まれます」
セナリは、見出し欄を瓶へ向けなかった。鞄の外側で、欄の角だけを指で押さえた。
客たちは、瓶をのぞき込むのを少しやめた。
のぞき込むと、底の線が見える。見えると、そこに何かを書き足したくなる。誰かの戸口へ続く線。未登録の葉札へ続く線。ふさがった星の穴へ続く線。
どれも、まだ早い。
バドゥは、瓶を持ち上げなかった。
低いまま、瓶の口を布屋根の影へ向けた。瓶の中の水は、影を映さない。水が少なすぎるからだ。映らない水を見て、客の一人が不安そうに言った。
「何も映りません」
「映すための水ではない」
「では、何のために」
バドゥは、すぐ答えなかった。
「持って来た手が、重さを忘れないためだ」
瓶は重い。
水は少ないのに、瓶は重い。厚いガラス、乾いた外側、遠くから来た腕の疲れ。市場では、中に入っているものだけを見たくなる。だが、持って来た手の重さも、生活へ戻る前の記録だった。
旅人は、淡い記録紙を見た。
紙に書けるのは、水の量かもしれない。瓶の底の線かもしれない。だが、腕の重さは書きにくい。書きにくいものほど、市場では落ちやすい。
旅人は、紙を出さなかった。
代わりに、自分の手首を見た。
何も持っていない手首だった。だからこそ、バドゥの腕の重さを簡単に言葉にしてはいけないと思った。
水路瓶の底に残る線は、まだ線のままだった。
道ではない。
理由ではない。
市場の答えでもない。
ただ、乾いた市場へ水が来たとき、線にしたくなる手がどれほど速いかを、低い瓶の底で見せていた。




