ネオンに咲く銀の葉 第12章 ネオンに咲く銀の葉
低い信号が渡ったあと、ネオンシャの雨はしばらく細く降り続けた。
誰も、すぐに成功と言わなかった。
反応灯は点いた。けれど、一斉ではない。赤も、青も、金色も、すぐには強くならない。淡い記録紙の上で、影が少しずつ増える。見出し灯も、低いままいくつかの言葉を浮かべた。
銀葉は、見出しだけでは読めません。
銀葉のこと。
反応を隠すな。
書かなかった線。
言葉と線が、同じ高さではなく、少しずつ違う高さに浮かんだ。どれか一つが街の空を支配することはなかった。だから、読みにくい。読みにくいから、すぐには広がらない。けれど、読みにくさの中に、戻れる場所があった。
未送信棚には、月光封筒がまだ空のまま置かれている。
送ったものはある。だが、全部を封筒に入れて送ったわけではない。封筒のまわりに並べたもののいくつかは、棚に残っている。受け取る人の白紙も、弱い透明紙も、未送信札の爪跡も、まだそこにある。
セナリは、棚の前で立っていた。
「空の封筒が残っています」
「残すにゃ」
ミャオリンは棚の下から答えた。
「送ったのに」
「送ったからにゃ。送ったあとの空が要るにゃ」
セナリは、月光封筒の中を見た。中は空だ。だが、最初に見た空とは違っていた。何も入っていない空ではなく、入れなかったものが周りにある空だった。
リンドは、月光タグを一枚、封筒の外へ戻した。
「これは、ルミエールへ持ち帰る」
「貼るのですか」
エレインが聞いた。
リンドは首を振った。
「まだ貼らない。貼らなかったタグとして持ち帰る」
「貼らなかったことを、記録にしますか」
「記録にしすぎない。だが、忘れない」
旅人は、淡い記録紙を一枚取り出した。
そこには、銀葉灯の夜の低い会話の影が残っている。文字ではない。人名でもない。言ったことの証拠でもない。ただ、声があった場所の揺れだ。
「次の場所へは」
セナリが言いかけて、止まった。
旅人は、セナリを見た。
セナリは言い直した。
「次の場所へは、何を持っていくんですか」
巻の番号を口にしなかったことに、セナリ自身は気づいていないようだった。だが、旅人はうなずいた。
「銀葉の小片を、送る前に置いた形で」
旅人は、銀葉小片の写しを見た。
「反応を数えなかった淡い記録紙を」
淡い記録紙は、数字ではなく影を抱えている。
「遅らせた信号の余白を」
ミャオリンが、遅い信号紐の端を少し持ち上げた。紐には、未送信札が通されたままだ。結ばれていない。
「読まれ方をひとつにしなかった月光タグを」
リンドが、貼らないタグを手に取った。
四つのものは、ひとつの袋へ入れられなかった。
浅い連絡袋の外側へ、それぞれ少し離して留められる。銀葉小片は、淡い記録紙の上ではなく横へ。遅い信号紐は、月光タグと結ばず、近くへ。月光タグは、名前札にならない向きで。どれも持ち物になるが、説明の鍵にはしない。
ククルーは、その並びを見ていた。
「ずいぶん、外側がにぎやかになったね」
「中へ入れないものが増えました」
旅人が言うと、ククルーはうなずいた。
「中へ入れないと、落としそうで心配だね」
「はい」
「でも、中へ入れると、荷物になるね」
「はい」
「荷物になると、次の場所で説明したくなる」
ククルーの鈴は鳴らなかった。
鳴らないまま、半拍だけ揺れる。この旅で何度も鳴らなかった鈴は、最後まで答えを言わなかった。だが、その鳴らなさは、もうただの沈黙ではない。未送信棚、低い掲示台、複数記事板、遅い信号紐。その全部に、鳴る前の時間が少しずつ残っている。
広場では、銀葉灯が片づけられていた。
職人は、灯の芯を小さな布へ包む。昨日の夜、銀葉が咲いたように見えた灯だ。だが、職人は灯を祝いの道具にはしなかった。白い布で包み、低い箱へ置く。
「また点けますか」
セナリが聞いた。
職人は少し笑った。
「必要なら。見せたいからではなく、見直す場所が必要なら」
リンドは、職人に短く礼をした。
エレインは、訂正欄の紙片をまだ書き切っていない。筆箱は開いたままだが、乱れていない。書き直せるように、けれど書き急がないように、銀の小筆が並んでいる。
ミャオリンは、サイバリアの根元から戻ってきた。
「信号は、まだ読まれているにゃ」
「荒れていますか」
セナリが聞いた。
「少し荒れてるにゃ」
ミャオリンは隠さなかった。
「でも、戻って読んでる人もいるにゃ。低い掲示台へ来る人もいるにゃ。銀葉灯の夜を見てなかった人が、見てなかったまま質問してるにゃ」
「それは、いいことですか」
ミャオリンは、すぐには答えなかった。
「いいことにすると、また記事になるにゃ」
セナリは、小さく笑った。
「では、続いていること」
「そうにゃ。続いていることにゃ」
旅人は、信号街の雨を見た。
ネオン雨は明るい。だが、最初に来た時ほど速くは見えなかった。雨そのものが遅くなったわけではない。旅人たちの側に、読む前の場所が増えたのだ。未送信棚。低い掲示台。複数記事板。サイバリアの根元の遅い信号紐。速い雨を止めずに、速さだけを答えにしない場所が増えた。
銀葉は、ネオンに咲いた。
けれど、それは見出しではなかった。
夜の広場で、見出しの外に一度だけ光った。その光は消えた。消えたが、見た人の手元には低い影が残った。銀葉小片の欠けた端も、硬い筋も、ほどけかけた薄い色も、ひとつの美談にはならなかった。
それでよかった。
美談にならないものは、次に持っていきにくい。だが、持っていきにくいものほど、外側へ弱く留めておく必要がある。
旅人は、浅い連絡袋の外側を確かめた。
銀葉の小片。
反応を数えなかった淡い記録紙。
遅らせた信号の余白。
読まれ方をひとつにしなかった月光タグ。
どれも、落ちないほどには留められている。だが、強く結ばれてはいない。次の場所で、すぐ答えとして取り出せないように。けれど、忘れ物にもならないように。
「出発しますか」
セナリが聞いた。
旅人は、ネオン雨の向こうを見た。
次の空には、乾いた光が少し混じっている。砂の匂いのようなものが、雨の合間に薄く届いていた。だが、まだそこへは行かない。ここで終わったことにして進むのではなく、ここで終わっていないものを外側へ留めて進む。
「はい」
旅人は答えた。
「でも、急ぎません」
ミャオリンは、しっぽを上げた。
「急がない出発なら、情報屋も見送れるにゃ」
リンドは、月光タグを持つ手を下げた。
「ルミエールも、答えとしてではなく、光として送る」
エレインは、書き切らなかった訂正欄を閉じずに持った。
「書き直せるまま、送ろう」
ククルーは、最後に低い掲示台を見た。
反応灯の影が、まだ一つ増えている。
誰かが、まだ読みに来ている。
それを数えず、消さず、成功にも失敗にもせず、広場は受け止めていた。
ククルーの鈴は、やはり鳴らなかった。
鳴らないまま、ネオン雨の中を歩き出す。
雨粒は、浅い連絡袋の外側に留めた四つのものへ触れ、すぐにほどけた。ほどけた光は、それぞれ違う色を残す。銀色、淡い灰色、細い青、月光の白。
ひとつにはならない。
ひとつにならないまま、次の問いへ向かう。
出発の前に、ミャオリンは浅い連絡袋の外側をもう一度見た。
「強く留めすぎにゃ」
旅人は、袋を下ろした。
銀葉の小片は、落ちないように細い糸で留めてある。反応を数えなかった淡い記録紙は、その下に重ねず、少し離して差してある。遅らせた信号の余白は、青い細紐の輪に通してあるだけだ。読まれ方をひとつにしなかった月光タグは、貼らないまま、袋の縫い目に軽く挟んである。
強く結んだつもりはなかった。
それでも、ミャオリンは首を振った。
「旅に出ると、揺れるにゃ。揺れると、落ちないように結びたくなるにゃ。結びたくなることを先に見ておくにゃ」
ククルーは、袋の縫い目を見た。
「旅支度は、荷物を守る顔をするからね」
「守るのは必要だね」
旅人が言うと、ククルーはうなずいた。
「必要だね。でも、守るために結んだものが、次の場所で答えの束に見えることがあるよ」
セナリは、光板を持ったまま袋の外側を見ていた。
「この四つを、リストにできるね」
ミャオリンの耳が動いた。
「できるにゃ」
「リストにすると、忘れにくいです」
「忘れにくいにゃ」
「でも、持っていく順番ができてしまいます」
セナリは、自分で言って、少し笑った。
「最近、そればかりですね」
「そればかりにゃ」
ミャオリンは、しっぽで袋の端を軽くたたいた。
「でも、そればかりを毎回見るから、少しずつ手が遅くなるにゃ」
エレインは、書き切らなかった訂正欄を折らずに持っていた。紙は風を受けて揺れる。折れば運びやすい。折らなければ、角が傷むかもしれない。エレインは折らず、代わりに紙の横へ細い保ち布を添えた。
「折らずに持つのですか」
リンドが聞いた。
「折るなら、どこを折ったかも残したくなります。今日は、折りたい手だけ見ておきます」
リンドは、月光タグを自分の手元へ戻した。
「貼らなかったタグを持ち帰る。貼らなかったことを誇るのではなく、貼りたくなった手を次も見られるように」
職人は、銀葉灯の芯を包んだ低い箱を閉じた。
「灯は置いていく」
「持っていかないのかな」
セナリが聞いた。
「持っていけば、次の場所でまた点けたくなる。ここで必要だった灯を、どこでも使える灯にしたくない」
旅人は、その言葉を聞いて、浅い連絡袋の外に留めた銀葉小片を見た。
銀葉小片は持っていく。銀葉灯は置いていく。どちらも銀葉に関わるものだが、同じ扱いにはならない。持っていくものと、置いていくものを同じ理由にすると、旅支度は分かりやすくなる。だが、分かりやすくした瞬間、置いていく灯の低さは落ちる。
「灯は、ここで見直す場所でした」
旅人は言った。
職人はうなずいた。
「そうだ。持っていくなら、灯ではなく、見直す前に少し暗くする手だ」
その手は、物として袋に入らない。
旅人は、袋の外側へもう一つ札を増やさなかった。増やせば、見直す前に少し暗くする手、という札になる。札にすれば持てる。持てるようになれば、次の場所で使いたくなる。今は、物にしないまま覚えるほうがよかった。
ミャオリンは、それを見て小さくうなずいた。
「増やさなかったにゃ」
「増やしたくなりました」
「見えたなら、いいにゃ」
サイバリアの葉が、遠くで小さくまたたいた。
低い信号は、まだ読まれている。戻って読んでいる人もいる。別の入口から入った人もいる。すぐ離れた人もいる。全部を追えば、また数字になる。追わなければ、手応えがないように見える。その間で、ネオン雨は細く降っていた。
セナリは、配信所へ戻る道を見た。
「このあとも、記事は出します」
「出すにゃ」
ミャオリンは答えた。
「でも、全部を今日の答えにしないにゃ」
「はい」
「次に似たことがあったら、また失敗するかもしれないにゃ」
セナリは、少し驚いた顔をした。
ミャオリンは、続けた。
「失敗しない方法を覚えた、って記事にすると、次の手が見えなくなるにゃ。今回は、見える場所が増えただけにゃ」
「見える場所が増えた」
セナリは、その言葉を口の中で転がした。
光板へ書かなかった。
代わりに、空の見出し欄を一枚、配信鞄の外へ差した。書かないまま持っていくためではない。書きたくなった時、まず外へ出せるようにするためだ。
ククルーは、浅い連絡袋の外側をもう一度見た。
「銀葉の小片は、少し糸をゆるめよう」
旅人は、糸をゆるめた。
小片が落ちそうになる。落ちそうで落ちない。旅の揺れで動くだろう。動けば、そのたびに気づく。気づけば、持っていることを答えにしにくい。
反応を数えなかった淡い記録紙は、袋の布へ少し斜めに差し直した。まっすぐにすると、記録らしくなる。斜めにすると、まだ途中の紙に見える。
遅らせた信号の余白は、青い細紐から外さず、輪の結び目だけをほどいた。結び目がないので、輪は少し開いている。開いているから、落ちるかもしれない。落ちないように見る必要がある。
月光タグは、貼らないまま、縫い目から半分だけ出した。半分出ているから、タグだと分かる。半分隠れているから、印にはならない。
ミャオリンは、ようやく満足そうにしっぽを上げた。
「これなら、荷物になりすぎないにゃ」
リンドは、ネオン雨の向こうの月光を見た。
「ルミエールへも、同じ形では戻らない」
「戻るのですか」
旅人が聞くと、リンドは首を振った。
「戻る、というより、戻って読む。持ち帰るのはタグだけではない。貼らなかった時間も、持ち帰って読む」
エレインは、書き切らなかった訂正欄を胸の前に持った。
「書き直す時も、このまま始めません。まず、書かなかった時間を机へ置きます」
職人は、低い箱を抱えた。
「灯も、次に点ける前に、消えた跡を見る」
それぞれが、少しずつ違うものを持って帰る。
ひとつの結論ではない。
同じ記事の読後感でもない。
同じ夜を見た人たちが、違う手元を持って帰る。その違いが、ばらばらに散る前に、旅人の袋の外側で四つのものが弱く揺れていた。
ネオン雨が、また細く降った。
雨粒は、銀葉小片の端へ触れ、淡い記録紙の斜めの角へ触れ、開いた輪の青い細紐へ触れ、半分だけ出た月光タグへ触れた。触れるたびに、違う音がした。紙の音。糸の音。光の音。タグの音。
ククルーの鈴は、そのどれにも重ならなかった。
鳴らないまま、横にいる。
その距離が、出発の合図にならない出発を支えていた。
サイバリアの根元では、まだ小さな返信の光がほどけていた。
返信、と呼ぶには短い。読んだ、という印でもない。反応灯の色ほどはっきりせず、見出し灯の文字ほど形もない。ただ、低い信号を受け取った人の手が、一度戻った時に出る、ごく薄い光だった。根の間にたまり、すぐ消え、また別の場所に現れる。
ミャオリンは、その光を追わなかった。
「追うと、返信数になるにゃ」
セナリは、配信鞄の外へ差した空の見出し欄を押さえた。
「でも、戻って読んだ人がいることは、知りたいです」
「知りたいにゃ」
「知ってはいけないわけではない」
「違うにゃ。知り方を遅くするにゃ」
ミャオリンは、サイバリアの根元に置いた遅い信号紐を少しだけ持ち上げた。紐に通された未送信札が、さらさらと音を立てる。結ばれていない札は、持ち上げると少しずつ位置を変える。そのずれで、根元の光が一瞬だけ細くなった。
「今、数えられなくなりました」
セナリが言った。
「数えられなくしたんじゃないにゃ。数える前に、札がずれる音を聞いたにゃ」
ククルーは、根元に耳を近づけた。
鈴は鳴らない。だが、未送信札がずれる音は聞こえる。紙と光板の間の、小さな乾いた音。音は、返信の光より遅い。遅い音があると、速い光をすぐ追えなくなる。
「遅らせる祝福は、音にもあるね」
ククルーは、そう言ってから、少し口を閉じた。
「祝福、と名づけすぎましたか」
ミャオリンは、首を横へ振った。
「今日は、名づけても走らせなければいいにゃ」
旅人は、ククルーの言葉を聞きながら、根元の光を見た。遅らせる祝福。もう言葉としては近くにある。だが、それを技にして使えば、ここまで見てきた手元が落ちる。音、札のずれ、低い棚、靴の影、空の封筒、書かなかった欄。その全部があって、ようやく遅く読める距離が生まれている。
セナリは、空の見出し欄を開いた。
今度は、一文字も書かず、欄の下に小さな線だけを引いた。線は、サイバリアの根の形に似ている。だが、根の写しではない。返信の光を数えた線でもない。低い信号紐の札がずれた音を、見失わないための線だった。
「これは、記事に入れないよ」
セナリが言った。
「鞄の外ですか」
旅人が聞くと、セナリはうなずいた。
「はい。次に書きたくなった時、先に外へ出します」
リンドは、根元の光が消えるのを見ていた。
「ルミエールへ戻ったら、月光タグの扱いを聞かれるだろう」
「何と答えますか」
エレインが聞いた。
「貼らなかった、とだけ言えば、足りない。貼る前に見たものがある、と言えば、見たものを聞かれる。聞かれた時、一つの説明へ急がないようにする」
エレインは、書き切らなかった訂正欄を抱え直した。
「書き直しも、同じです」
サイバリアの根が、また小さく光った。
今度の光は、さっきより薄い。誰かが戻って読んだのかもしれない。途中で読むのをやめたのかもしれない。反応したくなって、しなかったのかもしれない。どれかを確かめる道具は、ここにある。だが、今は使わない。
旅人は、浅い連絡袋の外側を見た。
四つのものは、ゆるく揺れている。
落ちそうで落ちない。答えになりそうで、まだならない。次の問いへ持っていけそうで、荷物にはなりきらない。その頼りなさが、今の出発には合っていた。
ミャオリンは、根元の遅い信号紐を戻した。
「行くにゃ」
「見送らないんですか」
セナリが聞いた。
「見送るにゃ。でも、見送りを配信しないにゃ」
ミャオリンは、しっぽを一度だけ上げた。
「見送りが記事になると、出発がきれいになるにゃ。今日は、きれいに出発しなくていいにゃ」
ネオン雨の奥で、サイバリアの葉が細かくまたたいた。
それは見送りにも、返信にも、合図にも見えた。
だが、どれにも決めなかった。
決めないまま、旅人たちは歩き出した。
歩き出す直前、セナリが一度だけ戻った。
戻った先は複数記事板ではない。未送信棚でもない。見出し通りの低い台でもなかった。セナリは、反応広場の低い段へ行き、そこに敷かれていた淡い記録紙を見た。靴の影はもうほとんど残っていない。だが、紙の端に、乾いた粒のようなざらつきが少しあった。
「これも、置いていきます」
セナリは言った。
「持っていかないのかな」
旅人が聞くと、セナリはうなずいた。
「持っていくと、次に読む人へ説明したくなります。ここで座った人の足元は、ここに残したほうがいい気がします」
ミャオリンは、低い段の下から顔だけ出した。
「いいにゃ。全部持っていくと、広場が空になるにゃ」
リンドは、月光タグを少し下げた。
「持ち帰るものと残すものがある」
エレインは、書き切らなかった訂正欄を見た。
「残すものにも、読み返される日があります」
セナリは、配信鞄の外へ差していた空の見出し欄を一枚抜いた。そこに何も書かず、低い段の横へ置いた。持っていかない印ではない。だが、持っていかない手が見える小さな札だった。
ククルーは、鈴を鳴らさないまま、その札を見た。
「持っていかないものが増えたね」
「増えました」
旅人は、浅い連絡袋の外側を見た。
袋には、持っていく四つのものが弱く留められている。広場には、持っていかない低い段の紙が残る。銀葉灯も残る。鈴置き台も空のまま残る。橋番の未配達札は、おそらく橋の台の外側にまだある。全部を持っていけば、旅は分かりやすくなる。だが、ここに残るものがあるから、ネオンシャは次に読める。
「出発しても、ここは続きます」
セナリが言った。
ミャオリンは、すぐにうなずかなかった。
「続くにゃ。でも、続いていることを見出しにしないにゃ」
セナリは笑いそうになって、笑わなかった。
「はい。まだ書きません」
ネオン雨は、低い段の紙へ細く降った。紙のざらつきが少しだけ光り、すぐに戻る。旅人たちは、その光を合図にしなかった。合図にしないまま、今度こそ歩き出した。
歩き出してからも、ネオンシャの音は背中に残った。
見出し灯の高い音ではない。反応灯が強く点く音でもない。低い掲示台の前で座布が擦れる音、乾かし棚で指が小さく鳴る音、未送信札が遅い信号紐でずれる音、空の封筒の口が雨で少し鳴る音。それらは、街を代表する音にはならない。遠くへ届くほど大きくもない。
だが、旅人たちが門へ向かうあいだ、その小さな音だけが何度も思い出された。
セナリは、配信鞄の外へ差した空の見出し欄を押さえた。
「見出しを書かないまま持つと、手が落ち着かないね」
「落ち着かないにゃ」
ミャオリンは、少し先を歩きながら答えた。
「落ち着かないから、書いてしまいたくなります」
「書きたくなるにゃ」
「そのたびに、外へ出します」
「それでいいにゃ」
セナリは、欄を一度抜いた。何も書かない。雨に当てる。雨粒が欄の空白を滑り、言葉になりかけてほどける。セナリは、それを見てからまた鞄の外へ差した。
「今、書けそうでした」
「何をにゃ」
「ネオンに咲く銀の葉、と」
旅人は、少し振り返った。
その言葉は、この夜に近い。銀葉は、確かにネオンの中で光った。見出しの外で、低く咲いたように見えた。だが、その言葉を今、見出しとして書けば、銀葉灯の夜も、低い掲示台も、座布も、端布も、余り光も、ひとつのきれいな形へ寄ってしまう。
ククルーは、鈴を鳴らさずに言った。
「題のような言葉は、強いね」
「題なら、いいのかな」
セナリが聞いた。
「題も、急ぎます。けれど、題は中身を閉じるためだけのものではありません。戻るための入口にもなります」
「入口」
「はい。入口にするなら、奥へ入れる場所を残しましょう」
セナリは、空の見出し欄を見た。
「今は、書かない」
「今は、外へ出す」
ミャオリンが言った。
セナリはうなずいた。欄を鞄の外へ差し直す。そこにはまだ何も書かれていない。だが、書きたくなった言葉があったことは、セナリの手に残っている。
門のそばには、ネオン雨を受ける細い排水溝があった。
雨粒はそこへ集まり、街の外へ流れていく。流れると、見出し灯の光は薄くなる。反応灯の影も届かない。代わりに、雨粒が地面の細い溝を通る音だけが聞こえる。サイバリアの根の音よりさらに低い、ほとんど足音に近い音だった。
旅人は、そこで一度止まった。
「何か落ちましたか」
リンドが聞いた。
旅人は、浅い連絡袋の外側を確かめた。
銀葉小片はある。淡い記録紙もある。遅らせた信号の余白も、月光タグもある。どれも落ちていない。だが、落ちていないことを確かめた時、少し強く押さえたくなった。
「落ちていません。でも、押さえたくなりました」
ククルーはうなずいた。
「門は、そういう場所だね。内側で見たものを、外へ出す時、荷物にしたくなる」
エレインは、折らなかった訂正欄の紙を見た。
「外へ出ると、折りたくなるね」
リンドは、貼らなかった月光タグを低く持った。
「外へ出ると、貼った理由を求められる気がする」
ミャオリンは、門の柱へしっぽを掛けた。
「門で、もう一度ゆるめるにゃ」
旅人は、銀葉小片の糸を少しだけゆるめた。落ちそうになる。落ちない。淡い記録紙の角を斜めに直した。遅い信号の余白を通した青い輪を、もう一度開いた。月光タグを、縫い目からほんの少し外へ出した。
四つのものは、門の雨を受けて弱く揺れた。
その揺れを見て、セナリも空の見出し欄を少し外へ出した。光板へ入れない。鞄の中へしまわない。外へ出しすぎて落とすこともしない。
「外側は、手が疲れます」
セナリが言った。
「疲れるにゃ」
「でも、中へしまうより、今はいい」
「そうにゃ」
ミャオリンは、門の外を見た。
「次の場所で、また中へしまいたくなるにゃ。その時、今日の外側を思い出すにゃ」
旅人は、門の内側を振り返った。
ネオンシャはまだ明るい。低い掲示台の前には人がいる。座布も見える。未送信棚の月光封筒は、遠くからは見えない。見えないが、残っている。銀葉灯の低い箱も、乾かし棚の空の小札も、橋の外側の未配達札も、全部は見えない。
見えないものが、ここにある。
見えないからといって、隠れているわけではない。遠いからといって、終わったわけでもない。旅人たちは、それを全部持っていくことはできない。できないから、いくつかを外側へ弱く留め、いくつかを街に残す。
「残したものが多いですね」
旅人が言うと、ミャオリンは小さく笑った。
「残せたなら、ネオンシャの巻としては十分にゃ」
セナリは、巻という言葉を記事の単位として聞いたようだった。首をかしげたが、深く聞かなかった。
「十分、ですか」
「全部持っていけたら、ここで読めなくなるにゃ」
「ここで読めるように、残す」
「そうにゃ」
ククルーは、低い雨音を聞いていた。
「次へ行くための出発ではなく、ここが読み返せるままの出発だね」
旅人はうなずいた。
門の外の光は、少し乾いている。けれど、その乾いた光へ名前をつけるのはまだ早い。次の場所の市場も、道も、出会いも、ここでは始めない。ここでは、ネオン雨の内側で作った読む前の場所を、読み返せるまま残す。
セナリは、最後に空の見出し欄を見た。
そこへ何も書かなかった。
書かなかったことを誇る顔もしなかった。ただ、書ける場所を外側へ出したまま、門を越える。
ネオン雨は、門の内側でほどけた。
外へ出た雨粒は、光ではなく、足元の細い音になった。旅人たちは、その音を合図にしない。ただ、歩く速さを少しだけ遅くした。




