第15巻 森と滝の連絡便 第4章 流れない招待札
伏せられた白い札は、昼になっても白いままだった。
ミルはそれを何度も見た。見て、手を伸ばしかけて、葉箱の縁へ戻す。札を表に返せば、何かが分かる気がする。けれど、表に返したところで文字があるとは限らない。文字がなければ、何もなかったことにしたくなる。文字があれば、読めたことにしたくなる。
どちらも早い。
旅人は棚の前で、返事前の乾かし布を見ていた。布の端に残っていた細い線は、乾くにつれて薄くなり、葉にも封筒にも見えない形へ変わっている。濡れていた時は招待の端に見えた。乾きかけた時は折り目に見えた。今は、流れの途中で止まった細い影に見える。
「流れない招待札、ですか」
ミルが、声を低くして言った。
ククルーは耳を動かした。
「そう呼びたくなる札、だね」
ミルは小さくうなずいた。
「呼んだら、見つけたことになりそうだね」
「呼ばないと、見ないことになりそうです」
旅人が言うと、ミルは伏せた札の端を見た。
「その間の名前が、ほしいです」
リリウムは棚の右側に、浅い皿をひとつ置いた。皿の内側は乾いている。外側には、森の霧を受けた細かな水滴がついていた。乾いているのに濡れている。責める前の手に似た皿だった。
「責めない皿です」
リリウムはそう言った。
「責めないために忘れる皿ではありません。責める前に、手を見えるところへ置く皿です」
皿を出すと、森の奥から何人かが静かに近づいてきた。
前に水受けを拭いていた子どももいる。吊り棚で葉包みを見ていた年配の森人もいる。誰も前へ出すぎない。棚から一歩離れたところで、責めない皿を見ている。見ているだけなのに、皿のまわりの空気が少し重くなった。
「人が増えると、皿も緊張するね」
ククルーが小さく言った。
年配の森人は、葉包みを持っていなかった。代わりに、小さな空の籠を胸の前で抱えている。籠の底には、霧の粒が三つだけ残っていた。
「届かないものを見る時、森は集まりたがるね」
彼は言った。
「ひとりで見ていると、自分の手だけが大きくなるね。大勢で見ていると、誰かの手が大きくなりすぎることもある。だから、皿の外側に立つんだ」
子どもは、責めない皿へ近づきすぎないよう、自分の足元に葉を一枚置いた。葉は小さな境目になった。越えてはいけない線ではない。越えたくなった足を見るための葉だった。
ミルは、その人たちを見て、葉箱を少し抱え直した。
「みんなに見られると、ちゃんとしなきゃと思います」
「ちゃんと、の手も皿の横へ」
旅人が言うと、ミルはうなずいた。責めない皿の右側に、葉箱のふたを半分だけ伏せる。ふたは誰かを責めないための盾ではない。ちゃんとしなければという手が、皿の中へ入らないようにする小さな置き場所だった。
森人たちは、誰が何をしたのかを尋ねなかった。
尋ねないことは、関心がないことではない。むしろ、それぞれの顔には心配が見えていた。祝祭の招待が流れなかったかもしれない。誰かが待っているかもしれない。水路のどこかで札が止まっているかもしれない。森の棚が見落としたのかもしれない。そのどれもを、言葉にすれば、すぐ一人の手へ向かってしまう。
だから、まず皿を見た。
責めない皿の内側は空だった。空だからこそ、そこへ誰かの名前を入れたくなる。空だからこそ、理由を入れたくなる。空だからこそ、なかったことにもしたくなる。旅人は皿の空を見て、空というものがどれほど働き者かを思った。
ククルーは、皿の外側の水滴を見ていた。
「内側が乾いていて、外側が濡れているんだね」
「どうして?」
子どもが聞くと、ククルーは少し考えた。
「内側が濡れていると、すぐ原因を浮かべたくなるね。外側だけ濡れていると、原因に入る前に、周りの手が見えるよ」
子どもは、分かったような顔で自分の葉を見た。
「周りの手」
「はい。足も少し」
子どもは自分の足を見て、葉を少しだけ後ろへ下げた。近づきたい足を、見えるところへ置き直したのだ。
ミルの肩がわずかに揺れた。
「誰かが流し忘れたのかもしれません」
「かもしれません」
旅人は答えた。
「ミルが早く動きすぎたのかもしれません」
「かもしれません」
「森の棚が低すぎたのかもしれません」
「かもしれません」
ミルはそこで、少しだけ息を止めた。
「ヴェルデガイアの水路が、受け取りにくかったのかもしれません」
旅人はうなずいた。
「それも、かもしれない」
ククルーが、責めない皿の外側をそっと見た。
「かもしれない、が増えると、誰か一人を責めるには重すぎるね」
「でも、軽くすると、なかったことになりそうだね」
ミルの声には、今度は焦りではなく怖さがあった。届けたい手の焦りとは違う。届かなかったかもしれないものを、軽く扱ってしまう怖さだった。
旅人は、その怖さを皿の近くへ置くように、指を棚に触れた。
「重いまま、低く置く」
リリウムは、静かにうなずいた。
「それが、この皿の高さです」
責めない皿のとなりに、ミルは細い水路模型を置いた。模型と言っても、説明のための図ではない。苔の枝を二本並べ、その間に葉の裏を敷いただけの小さな流れだった。葉の裏には、乾かし布から移った細い影が載っている。
影は水路の入口に触れていた。
けれど、出口までは行っていない。
「空いた水路です」
ミルは言った。
「流れがない水路、ではありません。流れたと言いたくなるところと、流れなかったように見えるところの間が空いている水路です」
旅人は、その小さな水路を見た。入口に影があり、真ん中に空きがあり、出口には何もない。何もない出口は、空白の証拠ではない。誰も受け取らなかった証拠でもない。ただ、ここから先を見ていないという形だった。
「届かなかった、とはまだ言えない」
旅人が言うと、ミルは慎重にうなずいた。
「でも、届いたとも言えないね」
ククルーは前足で自分のひげを整えた。
「言えないことが二つある時は、ぼくはお茶を入れたくなるね」
「お茶はないよ」
リリウムが言うと、ククルーは空の前足を見た。
「それじゃ、今日はお茶に似た沈黙で」
森の霧が、棚の上に薄く降りた。沈黙は空ではなかった。ミルの怖さ、旅人の読みたい手、リリウムの測るような視線、ククルーの軽い冗談が、その中でそれぞれの場所を取っている。
ミルは、伏せた白札を責めない皿の横へ移した。
札はまだ伏せたままだ。表を見ないことと、札を見ないことは違う。伏せたままでも、そこにあると分かる。そこにあるから、手が急ぎたくなる。
森人たちは、伏せ札を順番に見た。
順番にと言っても、列を作ったのではない。誰かが見ている間、ほかの者は水受けや吊り棚や棚の下を見る。伏せ札だけに目が集まりすぎると、札が急に大きくなってしまうからだ。年配の森人は、伏せ札の角ではなく、その影が皿の外側の水滴へ届いていないことを見た。
「まだ離れています」
彼は言った。
「札と皿が?」
「札と、責める手が」
その言葉で、ミルの肩が少しだけ下がった。責める手は消えていない。けれど、まだ札に触れていない。それを見られることが、皿の働きだった。
子どもは、空いた水路の模型を見ていた。苔の枝二本の間に、葉の裏が敷かれている。その空きは、小さな谷のように見える。子どもは自分の葉をそこへ差し込みかけて、止めた。
「埋めたくなる」
小さな声だった。
旅人はうなずいた。
「埋めたくなるね」
子どもは葉を戻した。
「埋めたら、通れそう」
「通れそうに見える」
ククルーが言った。
「通れそうに見える道は、なかなか人気があるね」
子どもは笑ったが、葉をもう差し込まなかった。空いた水路は空いたまま残った。空いたままで、見える。見えるから、埋めたくなる手も見える。
「招待だったら、誰かが待っているね」
ミルが言った。
「招待でなかったら?」
旅人が聞くと、ミルは少し考えた。
「招待だと思った手が、ここに残ります」
「その手も、見る」
「はい」
その返事は、少しだけ強かった。ミルは失敗担当ではない。早く届けたい手を持つ便係だ。その手が、今は届かなかったように見えるものを、自分のせいにしたくなる手を見ている。
旅人は、ミルの横顔を見てから、棚の下へ目を落とした。
低い棚の下には、小さな胞子がいくつか落ちている。落ちた胞子は、捨てられた光ではない。棚に上がりきらなかっただけの光だった。そこにも、責めない皿の影が届いていた。
「下も見るんですね」
ミルが気づいた。
「棚の上だけを見ると、置けたものだけが見える」
旅人は言った。
「棚の下には、置く前に落ちたように見えるものがある」
リリウムは膝を折り、棚の下をのぞき込んだ。胞子の一つが、彼女の影で少し暗くなった。暗くなったことで、逆に形が見える。丸くない。端が少し伸びている。水に触れた胞子の形に似ていた。
「水路の手前にも、落ちた光があります」
リリウムの声は、いつもより低かった。
ミルはあわてて手を伸ばしかけ、また止めた。拾いたい手だった。落ちたものをすぐ上へ戻したい手だった。
ククルーはその手を見て、やさしく言った。
「拾う前に、拾いたい手も一緒に見よう」
ミルはゆっくり手を下ろした。
「うん」
旅人は、棚の下の胞子を見たまま考えた。湿った封筒に見えたものは、皿の上にあった。招待の端に見えたものは、乾かし布に残った。流れない招待札にしたくなるものは、伏せた白札として皿の横にある。
そして棚の下には、置く前に落ちたように見える光がある。
届かなかった一つは、まだ一つとは言えない。
流れなかったものは、まだ水路だけの話とも言えない。
「空いた水路は、森の中にもある」
旅人が言うと、リリウムは顔を上げた。
「はい。森は水路を持たないようで、霧の通り道を持っています。胞子の沈む道もあります。声にならないものが、声になる前に止まる場所もあります」
「ヴェルデガイアだけを見に行けばいい、ではない」
ミルが言った。
リリウムはうなずいた。
「でも、ヴェルデガイア側を見ないままでは、滝の湿りを森の考えだけで埋めてしまいます」
その言葉で、次に必要な距離が見えた。
森だけで決めない。滝だけのせいにしない。棚の上だけでも、皿の中だけでも、伏せた札だけでも足りない。相手側を見る必要がある。けれど、原因を探しに行くのではない。失敗した場所を見つけに行くのでもない。
受け取る前の手を見に行く。
旅人は浅い連絡袋を持ち上げた。袋は低い棚に触れ、湿りを見た。今は、責めない皿の横に置かれた伏せ札の影を受けている。袋の口は、まだ閉じていない。
「ヴェルデガイア側へ行く」
旅人が言うと、ミルの顔に一瞬、安心が浮かんだ。すぐに、その安心も高くなりすぎないよう、ミルは責めない皿を見た。
「見に行く、ですね」
「うん。直しに行く、ではない」
「探し当てに行く、でもない」
「責めに行く、でもない」
ククルーが言葉を足すと、ミルは少しだけ笑った。
「お茶に似た沈黙を持って行く、かな」
「それは少し荷物になるね」
ククルーは真面目に考え込んだ。
リリウムは、責めない皿のとなりに小さな苔布を敷いた。苔布は、皿と水路模型と伏せ札を一つに包むには小さすぎる。けれど、それぞれの位置を動かさないまま、同じ手元として見られるだけの広さはあった。
「持って行くのは、全部じゃないよ」
「全部持つと、森が結論を運ぶことになるね」
旅人が言うと、リリウムは目を細めた。
「はい。だから、位置だけを写します」
ミルは葉箱から、三つの小さな印を出した。丸い印、細い印、空いた印。丸い印は責めない皿の場所。細い印は空いた水路の場所。空いた印は伏せ札の場所。どれも、内容を写さない。形だけを持つための印だった。
「これを、ヴェルデガイア側で同じ高さに置けたら」
ミルはそこまで言って、言葉を止めた。
「同じ高さに置けたら、何か分かる、と言いたくなりました」
「見え方が変わるかもしれない、くらいなら」
旅人が言うと、ミルはうなずいた。
「それくらいにしよう」
ククルーは静かに、三つの印を見た。
「丸い、細い、空いた。説明しすぎないまま持てる荷物だね」
「説明しすぎると、届かなかったことまで説明した気になるからね」
旅人の言葉に、ミルの手が止まった。
「そうですね」
その声には、さっきの怖さがまだ残っていた。けれど、怖さだけではなくなっている。見に行ける場所ができたからだ。責めない皿があり、空いた水路があり、伏せた白札がある。そこから写した三つの印がある。
原因は分からない。
誰のものかも分からない。
招待だったのかも、まだ分からない。
それでも、見に行く理由はできた。
森の奥で、水音に似た露が落ちた。今度は湿り皿ではなく、棚の下の胞子のそばへ落ちた。胞子は水を吸わず、少しだけ光の向きを変えた。光は棚の右端から、外へ向かう道へ伸びる。
ヴェルデガイアへ向かう道は、まだ道ではない。けれど、森だけで見ないための足元にはなった。
ミルは伏せた白札を見た。
「この札は、置いていきますか」
旅人は少し考えた。
「置いていく。持っていくと、向こうで読んだことにしたくなる」
「では、印だけ」
ミルは三つの印を浅い連絡袋の口へ入れた。印は軽い。軽いのに、さっきまでの湿りを少しだけ覚えているようだった。
リリウムは責めない皿の横へ、胞子をひと粒置いた。皿の中ではない。皿の横だ。責めないことを、皿だけの役割にしないための位置だった。
ククルーは棚の下をもう一度のぞき込んだ。
「落ちた光も、留守番かな」
「留守番、というより」
旅人は、胞子の端に残る湿りを見た。
「戻って聞けるように、ここにいる」
ククルーは目を細めた。
「留守番より、少し足が自由なんだね」
ミルが小さく笑い、リリウムも息だけで笑った。棚の上は明るくなりすぎない。伏せた札は伏せたまま、責めない皿は空のまま、空いた水路は入口と出口の間を空けたままだ。
旅人は、浅い連絡袋を持った。
中には丸い印、細い印、空いた印がある。何かの答えではない。誰かを責めないための証拠でもない。ただ、森で見えた手の位置を、滝の側でも同じ高さで見られるようにするための軽いしるしだった。
ミルは棚の前で、深く頭を下げなかった。謝るような礼になってしまうからだろう。かわりに、葉箱のふたを半分だけ閉じた。閉じきらないふたが、今のミルの返事だった。
「向こうで、受け取り台を見るんですね」
「うん」
「水路係ナナムなら、たぶんいます。水音を急がせない人です。でも、押したくなる印を見ると、少し早くなります」
リリウムがミルを見た。
「人の手を先に説明しすぎないで」
ミルははっとして、それから苦笑した。
「はい。ナナムの手は、ナナムのところで見ます」
旅人はうなずいた。
それでよかった。森で決めない。こちらで準備しすぎない。向こうの水路係がどんな手を持っているかも、まだ読まない。名前だけを先に持ち、人物を説明にしない。
棚を離れる時、責めない皿の中はまだ空だった。
空なのに、何も置かれていないわけではない。責めたい手、急ぎたい手、怖がる手、直したい手が、皿のまわりに見える高さで座っている。空いた水路も、伏せた札も、落ちた胞子も、そのまま残った。
旅人は振り返らなかった。
振り返ると、確かめたくなる。確かめると、置いていったものが正しいかどうかを知りたくなる。今は、正しさではなく、戻れることが必要だった。
ククルーが隣を歩きながら言った。
「責めない皿は、なかなか持ち歩きにくい道具だね」
「置いていく道具だから」
「そうだね。置いていくことで、一緒に来るものもあるよ」
森の道は、少し湿っていた。ヴェルデガイアの湿りとは違う。シルヴァリスの霧が、自分の湿りを思い出したような道だった。旅人は浅い連絡袋の口を見た。三つの印は、袋の底で重ならずに並んでいる。
次に必要なのは、流れなかった理由を探すことではない。
受け取る前の手が、どんな高さにあるのかを見ることだった。




