第14巻 ここが旅の始点だった 第10章 ここが、だった
白い四角の部屋を出ると、廊下の音が変わっていた。
入ってきた時より、広く聞こえる。
でも、広くなったわけではない。
壁も床も、低い順番灯も、返事待ちの糸も、同じ場所にある。
変わったのは、歩く側の手だった。
旅人は、空白を消さない輪の端を見た。
閉じていない輪は、持ち物ではない。
それでも、手のそばにある。
「ここが、だった」
旅人の口から、言葉がこぼれた。
すぐに、足が止まった。
言った瞬間、その言葉は少し高くなった。
白い廊下の天井へ近づき、何かを決めたがっているように聞こえた。
ククルーが、封筒を胸元で押さえた。
ミャオリンは耳を伏せた。
リオは筆を持ったまま、まだ札へ書かなかった。
塔守りの低い声が、廊下の奥から届いた。
「言葉が先に着きました」
「いまのは、だめでしたか」
旅人が聞くと、塔守りは少し間を置いた。
「だめではありません。高いだけです」
高いだけ。
前に作った高すぎる言い方札を、旅人は思い出した。
あの札は、言い方を消すためのものではなかった。
落ちる前に置くためのものだった。
旅人は、手前の棚から小さな白い札を一枚出した。
そこへ、さっきの言葉を書いた。
`ここが、だった`
書くと、言葉は少し低くなった。
でも、まだ強い。
ここが。
だった。
二つの間にある読点が、細い橋のように見えた。
ミャオリンが言った。
「にゃ。ここが、で息をしてるにゃ」
「だった、へ急いでいない」
リオが続けた。
ククルーは、札を見てから旅人を見た。
「その読点がなければ、答えに見えたかもしれないね」
旅人はうなずいた。
「ここがだった、と続けると、ひとつの場所に閉じてしまう気がするね」
「はい」
「でも、ここが、だった、なら」
旅人はそこで止まった。
なら、の先を言うと、また高くなる。
ククルーが小さく笑った。
「止まった手が見えるね」
「止まれました」
ミャオリンが札の横へ、細い透明な糸を一本置いた。
「だったの手綱にゃ」
リオが目を丸くした。
「手綱ですか」
「走り出す言葉を、引っぱって止めるんじゃないにゃ。そばを歩けるようにする糸にゃ」
旅人は、その言い方を気に入った。
リオは札を書いた。
`だったの手綱`
ただし、字の上へ小さく、まだ低い、と付け足した。
塔守りの声が言った。
「よい低さです」
言葉の読点の下に、小さな影ができていた。
影は、文字の影ではない。
息を置いた場所の影だった。
旅人は、さっき自分が止まったところを思い出した。
ここが。
だった。
その間に息が入ったから、言葉は一つの証明へ走らなかった。
リオはその影へ、細い石を置いた。
「読点の重し、でしょうか」
ミャオリンがしっぽを揺らした。
「重くしすぎると読めなくなるにゃ」
「では、軽い重し」
リオは笑って、札に書いた。
`読点を重くしすぎない石`
石は、読点の真下ではなく、少し横に置かれた。
読点を止めるのではない。
読点が軽すぎて飛ばないよう、そばにいるための石だった。
ククルーが、封筒の角を指で押さえ直した。
「ここが、と言う手にも、だった、と言う手にも、どちらにも理由があるね」
「理由があるから、近づきすぎるんですね」
旅人が言うと、ククルーはうなずいた。
「うん。理由がある言葉ほど、走り出すと速いね」
旅人は、だったの手綱を指でそっとなぞった。
引っぱらない。
止めない。
そばを歩く。
それだけの糸でも、言葉は少し低くなった。
廊下の床に、三つの小さな台が現れた。
以前見た三つのここ台に似ている。
でも、同じではない。
ひとつ目の台には、白い点が置かれていた。
ふたつ目の台には、細い線が置かれていた。
みっつ目の台には、何も置かれていなかった。
旅人は、それぞれを見た。
白い点は、塔の入口に似ている。
細い線は、消える映像の廊下に似ている。
何も置かれていない台は、旅立ちに似た空席にも、消えない空白にも似ている。
似ている。
それだけで、もう十分に強い。
旅人は、似ていると言いたくなる手を、いったん棚へ戻した。
「これは、ここがどこだったか、ですか」
「そう言うと、場所だけになります」
塔守りが答えた。
「ここに誰がいたか、ですか」
「そう言うと、誰かだけになります」
「ここから何が始まったか」
「そう言うと、始まりだけになります」
旅人は、三つの台の前にしゃがんだ。
答えを受け取りに来た姿勢ではない。
落ちたものを拾う姿勢でもない。
床に置かれた高さへ、自分の目を合わせる姿勢だった。
「ここが、だった、と言いたくなる台」
旅人は低く言った。
リオが札を書いた。
`ここが、だった台`
台の後ろに、短い道のような線があった。
道と言うには短い。
線と言うには、少し歩けそうだった。
旅人は、その短さに助けられる気がした。
長い道なら、どこへ続くのか知りたくなる。
短い線なら、戻って聞くための一歩だけを残せる。
塔守りの声が言った。
「ここで道を長くしないことです」
「長くすると、次へ行ける気がするからですか」
「はい。行ける気がすると、まだ聞けることを置いていきます」
リオは小さな札を書いた。
`一歩だけ戻れる返事道`
札を短い線の横へ置くと、線は伸びなかった。
伸びないことで、低く残った。
リオは、読点を重くしすぎない石のそばへ、小さな皿を置いた。
皿の底には、何も入っていない。
けれど、空の底に浅いくぼみがあり、落ちてきた言葉をすぐ跳ね返さない形をしていた。
「読点のあとを急がない小皿です」
リオは札を書いた。
`読点のあとを急がない小皿`
「読点のあと」
旅人は、ここが、だった、をもう一度低く読んだ。
ここが。
そのあとに、すぐだったへ行きたくなる。
だった。
そのあとに、すぐ何がだったのか聞きたくなる。
小皿は、どちらの手も止めなかった。
ただ、読点のあとに息をひとつ置く場所を作った。
塔守りの声が低く響いた。
「読点は、答えの前ぶれではありません」
「はい」
「分からないことを長引かせるためだけのものでもありません」
旅人はうなずいた。
読点のあとを急がない。
それは、分からないまま立ち尽くすことではない。
次の言葉が走り出す前に、言葉の足もとを見ることだった。
リオは、小皿の横に短い箸のような棒を置いた。
箸と言うには先が丸く、物をつまむには向いていない。
「言葉をつままない箸です」
ミャオリンが笑いかけて、すぐに真面目な顔になった。
「つまむと、すぐ取り出したくなるにゃ」
`言葉をつままない箸`
札を置くと、小皿の中の空っぽが少しだけ深く見えた。
ここが。
だった。
その二つの間に、取り出せそうな言葉はある。
でも、今つまみ上げると、ここが、だった、は答えの皿になってしまう。
旅人は、箸に触れなかった。
触れないまま、そこにあることを見た。
小皿の横で、言葉をつままない箸は静かに寝ている。
寝ているものを見ると、起こしたくなる。
起こせば、言葉をつまめるかもしれない。
つまめば、ここが、だった、のあとに何を言えばよいか分かるかもしれない。
旅人は、その「分かるかもしれない」を、すぐには嫌わなかった。
分かりたい手はある。
分かりたい手があるから、ここまで来た。
でも、分かりたい手が強くなりすぎると、ここが、だった、は低い札ではなくなる。
ククルーが、封筒の角をそっと撫でた。
「分かりたい手も、ここに置けるね」
リオは、箸の横へ小さな箸置きを置いた。
箸置きと言うより、箸が転がらないようにする低い波の形だった。
`分かりたい手の箸置き`
箸は箸置きの上に置かれた。
それだけで、つまむ道具ではなく、まだ使わない道具に見えた。
ミャオリンが息を吐く。
「使わない道具って、けっこう大事にゃ」
旅人はうなずいた。
使える。
でも、今は使わない。
その高さで、巻タイトルの言葉は少しだけ低くなった。
旅人は、ここが、だった、の言葉を持って先へ走るのではなく、一歩だけ戻って聞けるようにするのだと思った。
書いた途端、何も置かれていない三つ目の台に、細い影が差した。
影は、誰かの姿にはならない。
入口にも、出発口にも、駅のベンチにも、飛空艇の影にも見える。
でも、どれにもならない。
ククルーの封筒が、また細く光った。
旅人は聞きたくなった。
その封筒の中に、ここが、だった、と言える言葉があるのか。
ククルーは、この台を知っていたのか。
でも、旅人は聞かなかった。
聞きたい手は、前よりはっきり見える。
見えるなら、すぐに口へ出さなくてもいい。
旅人は、言わなかった言葉の封筒の横へ、小さな札を置いた。
`聞きたい手も、だったにしない`
ククルーが、ゆっくり息を吐いた。
「ありがとう」
「聞かない、と決めたわけではないよ」
「はい」
「聞きたい手を、過去にしないだけだね」
ククルーは、封筒の角をなでた。
「それは、とても助かるよ」
ミャオリンが、軽くしっぽを揺らした。
「だった、は便利にゃ。なんでも終わったものにできるにゃ」
リオがうなずいた。
「終わったことにすると、見やすくなります」
「でも、終わったことにしたせいで見えなくなる手もあるにゃ」
旅人は、だったの手綱を見た。
ここが、だった。
言えば、胸の中に少しだけ明かりが灯る。
長い旅に、ひとつの線が引ける気がする。
でも、その線を強く引きすぎると、白い点も、細い線も、何も置かれていない台も、全部ひとつの証明になってしまう。
証明にした瞬間、七つの返事灯は高さを失う。
そろえない返事布は、ただのまとめ布になってしまう。
旅人は、首を横に振った。
「ここが、だった、は、まだ札です」
塔守りが答えた。
「まだ札であるなら、持てます」
「答えにすると、持てませんか」
「答えは、持つより先に置く場所を決めたがります」
旅人はうなずいた。
ここが、と言った時、足元が少し暖かくなった。
だった、と言った時、胸の奥が少し静かになった。
どちらも、悪いものではない。
ただ、その暖かさと静けさを使って、旅を閉じたくなる手がある。
旅人は、その手を見た。
見ただけで、少し楽になった。
リオが、三つの台の前に薄い布を敷いた。
布の端は、七つに分かれている。
七つの返事灯と同じ数だ。
でも、布の中央は空いている。
「一か所に閉じない札を作れますか」
リオが聞いた。
旅人は、ミャオリンを見た。
ミャオリンはうなずいた。
「作れるにゃ。でも、作った札を強くしすぎないにゃ」
旅人は筆を取った。
`一か所に閉じない札`
書き終えると、三つの台の光が少しずつ分かれた。
白い点は、入口の白さに戻った。
細い線は、廊下の線に戻った。
空の台は、空のまま残った。
何も増えていない。
何も戻っていない。
けれど、見え方が少し楽になった。
ククルーが言った。
「旅人。ここが、だった、と言っても、すぐ閉じすぎない場所はあると思うよ」
旅人は顔を上げた。
「あるんですか」
「はい。ただし、ひとつではありません」
その言い方に、旅人の胸が少し揺れた。
ひとつではない。
それは、始点を散らすという意味ではない。
迷子にするという意味でもない。
ひとつに閉じないまま、いくつかの低い場所へ置くということだ。
ミャオリンが、透明な糸を七つの布端へ渡した。
「ここが、だった、の返事道にゃ」
リオが札を書いた。
`ここが、だったの返事道`
返事道。
道と言っても、進むためだけの道ではない。
戻って聞ける道。
遅らせて送れる道。
大陸と大陸の間で、閉じないまま細く光る道。
旅人は、白い点、細い線、空の台、七つに分かれた布端を順に見た。
これなら、持って出られる。
ここが、だった。
その言葉を、胸の中心に置かない。
旅の終わりの印にもしない。
次の旅へ向かう前に、足元へ置ける低い札にする。
塔守りの声が、さらに低くなった。
「塔は、ここが何だったかを決めません」
旅人はうなずいた。
「塔は、言いたくなる手を見せる」
「そうです」
「では、こちらは」
旅人はそこで、言いかけて止まった。
こちらは、と言ったあと、何か大きな役目を言いそうになったからだ。
ククルーが、何も言わずにそばへ来た。
ミャオリンも、リオも、黙って待った。
旅人は、言葉を低く直した。
「じゃあ、いまは、札を持とう」
塔守りの声が、静かに返った。
「それで十分です」
リオは、三つの札を重ねず、布の上に離して置いた。
`ここが、だった台`
`だったの手綱`
`一か所に閉じない札`
その横に、細い道の札を置く。
`ここが、だったの返事道`
四つの札は、巻物のようには並ばなかった。
星図のようにもならない。
それぞれが、少しずつ違う向きで、低い灯りを受けていた。
旅人は、それを見て、ようやく息を吐いた。
ここが、だった。
言ってもいい。
ただし、閉じるためではなく、開けたまま持つために。
部屋の奥で、白い四角へ続く回線が一度だけ淡く光った。
消えない空白は、ここが、だった、の札を受け取らない。
でも、遠ざけもしない。
ただ、閉じない端として、静かにそこへあった。
旅人は、札を布ごと持ち上げた。
重くはない。
軽すぎもしない。
旅の終わりを持った重さではなく、次へ置き場所を探せる重さだった。
廊下の先に、低い出口の灯りが見えた。
塔の出口ではない。
まだ、塔の中の出口だ。
それでも、外の雨音が少しだけ聞こえる。
ネオン雨は、遠くで細かく光っていた。
ククルーが言った。
「出る前に、もう一度だけ、置く場所を作ろう」
旅人は、四つの札を見た。
「ここが、だった、を持って出る前に」
「はい」
ミャオリンがにやりとした。
「持ち出し検査じゃないにゃ。手の置き場にゃ」
リオが笑った。
その笑いで、廊下の白さが少しやわらいだ。
旅人は歩き出した。
ここが、だった。
その言葉は、もう天井へ上がらなかった。
足元の少し前を、低い灯りのように進んでいた。




