第14巻 ここが旅の始点だった 第4章 始点と言いたくなる部屋
次の部屋には、扉がなかった。
低い声の灯りを後ろに残したまま進むと、光のすきまは静かにほどけた。ほどけた先にあったのは、広い部屋ではない。天井も壁も近い。けれど、狭いと言うには、足もとの影が遠くまで伸びている。
部屋の中心に、低い記録卓があった。
卓の上には、何も置かれていない。
卓の足は四本ではなかった。
三本でもない。
見る角度によって、二本にも、五本にも見える。
影だけが先に数えたがり、数えるたびに違う数を返した。
旅人は、足の数を言わなかった。
数えれば、卓が安定する気がする。
安定すれば、そこに何かを置ける気がする。
でも、ここでは置ける気がすること自体を見なければならない。
ミャオリンが低く言った。
「数えたい顔をしてるにゃ」
「卓がですか」
「旅人の手がにゃ」
旅人は、自分の指を見た。
たしかに、指が少し動いている。
一本。
二本。
数える前の動きだ。
リオは、薄い紐を取り出し、卓の足へ結ばずに床へ置いた。
紐は輪になっていない。
短い線として、卓から少し離れた場所にある。
「数えたい手の紐です」
「卓に結ばないのですか」
「結ぶと、数える手順になってしまいます」
旅人は、その紐を見た。
数えたい手は消えない。
でも、卓へ触れない場所で見える。
「数えたい手を、卓から少し離す」
旅人が言うと、塔守りの声が床から返った。
「少し、が大切だね」
ククルーがうなずいた。
「遠ざけすぎると、なかったことになるね」
ミャオリンは紐の端を少しだけ曲げた。
「近づけすぎると、数え始めるにゃ」
リオは札を書いた。
`数えたい手の紐`
札も卓へ置かない。
紐の横へ、同じ低さで置いた。
何も置かれていないのに、卓の周りだけ、ネオン雨が止まったあとの空気のように少し明るい。明るい場所は、すぐ「見える場所」と呼びたくなる。見えるなら、そこにあるはずだと言いたくなる。
旅人は、部屋の入口で止まった。
止まった足もとに、返事待ちの糸が細く伸びている。糸は後ろへ戻りながら、部屋の中心へもほんの少しだけ向いていた。
戻る。
進む。
その二つが、同じ糸の中にあった。
ミャオリンは、部屋へ入る前に帽子のつばを押さえた。
「見えるね」
「はい」
「見えすぎるね」
旅人は、うなずいた。
見えすぎる。
それは、暗い場所より困ることがある。暗い場所では、分からないと言える。見えすぎる場所では、分かったと言いたくなる。
ククルーは、低く歩いて記録卓の前まで行った。卓には触れない。卓の足もとに、前足をそろえて座った。
「この部屋は、名前が速いね」
「名前」
「うん。見えたものへ、すぐ名前が届くね」
リオは、道具袋から札を一枚出しかけて、止めた。
「まだ札にしません」
「どうしてですか」
旅人が聞くと、リオは卓を見た。
「ここで札を出すと、札が部屋の返事より先に着きます」
ミャオリンが小さく笑った。
「情報屋の店なら先に棚を作るところだけど、塔は棚を作る手も見てくるんだね」
「棚を作る手も、記録になります」
塔守りの低い声が、どこからともなく聞こえた。
姿は見えない。
声だけが、部屋の床に低く広がった。
「記録になります、と言いたくなる声も、ここでは高すぎるね」
ククルーが言った。
塔守りは、少し間を置いた。
「じゃあ、記録になりたがるね」
ミャオリンは目を細めた。
「面倒な言い直しだね」
「面倒な言い直しが、ここでは手すりになります」
旅人は、卓の上を見た。
何もない。
何もないはずなのに、見える。
最初に見えたのは、雨見台だった。
低い台。濡れた縁。ネオン雨の色。そこに立つ誰かの後ろ姿。
旅人は息を吸った。
後ろ姿は、小さい。
小さいから子どもだと言いたくなる。細いから自分だと言いたくなる。ネオン雨の中にいるから、この街の人だと言いたくなる。
言いたくなる言葉が、三つ同時に高くなった。
ククルーが、何も言わずに足もとを見た。
旅人は、言葉を落とす前に、床へ置いた。
「子ども、と言いたくなりました」
リオが、やっと札を出した。
白い札ではない。薄い灰色の札だった。
`と言いたくなったところ`
リオはそれを、卓の上ではなく、旅人の足もとの少し前に置いた。
「自分、とも言いたくなりました」
二枚目の札。
`自分と言いたくなったところ`
「この街の人、とも」
三枚目。
`この街の人と言いたくなったところ`
三枚の札は、卓へ近づかない。旅人の足もとで並んでいる。見えたものではなく、言いたくなった手を置くための札だ。
三枚の札の間に、ほんの少しだけ雨の色が落ちた。
部屋の中に雨は降っていない。
それなのに、札の角だけが濡れたように光っている。
旅人は、三枚をそろえたくなった。
そろえれば、読みやすい。
読みやすければ、扱いやすい。
扱いやすければ、卓の上の後ろ姿に近づける。
その順番が、あまりに自然に見えた。
自然に見えるものほど、急いでいることがある。
旅人は、三枚の札をそろえなかった。
むしろ、一枚ずつ少しずつ角度を変えた。
子ども、と言いたくなった札は、少し左。
自分と言いたくなった札は、少し手前。
この街の人と言いたくなった札は、少し右。
ばらばらではない。
でも、同じ列でもない。
「言いたくなった札にも、距離がいります」
旅人が言うと、ミャオリンは満足そうにうなずいた。
「その距離がないと、三つが一つの顔になるにゃ」
リオは、三枚の札の間へ細い透明な板を置いた。
板は仕切りではない。
向こう側が見える。
でも、札同士がぴったり触れない。
「ぴったり触れない板です」
ククルーが、低く笑った。
「今日は、ぴったりしないものが多いね」
「ぴったりすると、答えに見えるからですか」
旅人が聞くと、ククルーはうなずいた。
「ぴったりしないことで、返事でいられるものがあるね」
リオは札を書いた。
`ぴったり触れない板`
卓の上の後ろ姿は、まだ振り向かない。
振り向かないまま、三枚の札から少し離れていた。
卓の上の後ろ姿は、消えなかった。
消えない。
消えないと、ますます本当にあったことに見える。
旅人は、そこへ手を伸ばしかけた。
手を伸ばせば、後ろ姿の輪郭がはっきりする気がした。振り向く気がした。振り向けば、知っている顔かどうか分かる気がした。
その手が動いた瞬間、卓の周りの明るさが少し高くなった。
高くなる。
落ちる前に置く。
旅人は、手を引っ込めず、伸ばしかけたまま止めた。
「振り向かせたい手があります」
ミャオリンが、静かにうなずいた。
「あるね」
「顔を見れば、何か分かると思っています」
「それもある」
「顔を見ないと、分からないままだと思っています」
「それもある」
ククルーは、卓の足もとで目を細めた。
「顔は、答えになることがある。でも、顔だけが返事じゃないよ」
旅人は、伸ばしかけた手を見た。
顔を見たい。
その手は悪くない。
けれど、顔を答えにしたい手は、少し速い。
リオは小さな空台を出した。前の廊下で使ったものと似ているが、今度は台の縁に短い線が三つ刻まれている。
「三つのここ台です」
「ここ?」
「ここがどこか。ここに誰がいたのか。ここから誰が行ったのか。三つを一つにしない台です」
旅人は、胸の奥で何かが鳴りそうになるのを感じた。
ククルーの鈴ではない。
自分の中で、何かが音になりたがった。
「ここが、旅の始まりだった」
言葉が出そうになった。
出る前に、旅人は口を閉じた。
始まり。
その言葉は、やわらかい。
でも、ここでは少し高い。
「ここが、だった、と言いたくなりました」
旅人は言った。
塔守りの低い声が、床から返ってきた。
「よい低さです」
「言ってはいけないのではなく」
「言う前の高さを見られています」
ミャオリンが、記録卓の横へ回った。
「この部屋は、ずるいね。見せて、言わせて、固めたくさせる」
塔守りは答えなかった。
代わりに、記録卓の上の後ろ姿が少しだけ動いた。
振り向かない。
ただ、手元が見えた。
小さな手ではなかった。
大人の手とも言い切れない。
その手は、何かを持っている。
札かもしれない。
封筒かもしれない。
空の箱かもしれない。
見えた瞬間、三つの言葉が並んだ。
札。
封筒。
箱。
旅人は、どれも言わなかった。
「持っているように見えます」
「何を」
ミャオリンが聞いた。
「分かりません」
「誰が」
「分かりません」
「どこで」
旅人は、卓の周りを見た。
雨見台に見える。
塔の入口にも見える。
どこかの出発口にも見える。
「分かりません」
ミャオリンは、三つのここ台の横へしっぽを置いた。
「分からないが三つあると、少し歩ける」
ククルーは、言わなかった言葉の封筒を置いてきた入口の方を一度だけ見た。
「ククルー」
旅人が呼ぶと、ククルーは振り向いた。
「うん」
「この部屋を、知っていますか」
また、聞いた。
前の廊下でも、似た問いをした。
でも、今度は少し違う。知っていますか、という言葉をククルーの胸へ投げるのではなく、部屋の床へ置いてから渡した。
ククルーは、その違いを聞き取ったように、すぐには答えなかった。
「知っている、と言いたくなる場所があるね」
同じ言い方。
けれど、今回はそのあとが違った。
「そして、知らなかったことにしたくなる場所もあるよ」
旅人は、息を止めなかった。
止めたくなったが、止めなかった。
「知らなかったことに」
「うん」
ククルーは卓の上を見た。
「知っていた、と言うと、そこから全部知っていたことになるね。知らなかった、と言うと、見なかったことにできる。どちらも、少し楽なんだ」
「楽」
「うん。楽な言葉は、時々とても高くなるよ」
旅人は、三枚の札を見た。
子どもと言いたくなったところ。
自分と言いたくなったところ。
この街の人と言いたくなったところ。
そして、三つのここ台。
どれも、答えではない。
答えではないものがこれだけあると、部屋の中心へ進むのは遅くなる。
遅くなることに、少し安心した。
記録卓の上の後ろ姿が、もう一度だけ動いた。
今度は、手元のものが落ちたように見えた。
小さな光が、卓の上で跳ねた。
光は札の形になりかけ、封筒の形になりかけ、箱の形になりかけた。
どれにもならないまま、三つに分かれた。
三つの光は、卓の上ではなく、旅人の足もとの方へ滑ってきた。
一つは、三つのここ台の `どこか` の線へ。
一つは、`誰がいたのか` の線へ。
一つは、`誰が行ったのか` の線へ。
線は光った。
でも、つながらなかった。
三つがつながれば、一つの始点になる。
つながらないから、まだ始点ではない。
「始点未満」
旅人は、小さく言った。
ククルーがうなずいた。
「うん。始点未満だね」
塔守りの声が、低く響いた。
「この部屋で持てるのは、そこまでだね」
「ここで終わりですか」
旅人が聞くと、塔守りは答えた。
「終わり、と言うには、次の手が動いています」
記録卓の向こう側に、細い通路が見えた。
さっきまではなかった。
いや、見えていなかっただけかもしれない。
通路の入口には、何も置かれていない。
ただ、そこへ続く床に、薄い封筒の影が落ちていた。
ククルーが閉じた封筒。
次の場所は、そこへ向かうのだと分かった。
分かった、と言う前に、旅人は三つのここ台を見た。
「次は、封筒ですか」
ククルーは、少しだけ目を伏せた。
「封筒を閉じたくなる場所だね」
旅人はうなずいた。
卓の上の後ろ姿は、まだ振り向かない。
振り向かないまま、そこにいる。
そこにいる、と言いたくなる。
けれど、今日はそう言わない。
旅人は、三つの光がつながらないまま低く残っているのを見届けた。
部屋を出る前に、リオがようやく一枚の札を作った。
`始点未満を持つ札`
札は、三つのここ台の横で淡く光った。
答えの札ではない。
持って出るための札だった。
旅人は、始点と言いたくなる部屋を振り返った。
そこには、始点があったわけではない。
始点と言いたくなる手が、見えるように置かれていた。
部屋の外へ出る時、三つのここ台のそばで、まだ名前のない薄い紙片が一枚揺れていた。
紙片は、札になりたがっているようにも見えた。
でも、文字を書けば、どの台に属するかを決めてしまいそうだった。
旅人は立ち止まった。
リオも気づいて、筆を握ったまま待った。
「書かないんですか」
ミャオリンが聞くと、リオは紙片から目を離さずに答えた。
「書くと、置き場所が決まるね」
ククルーは、耳をそっと動かした。
「書かない札も、持ち方があるね」
「札なのに、書かない」
旅人は、その矛盾のような言い方を、すぐにはほどかなかった。
紙片の端には、三つの光が映っている。
どこか。
誰か。
どこから。
どの光も、紙片の中央へ来ない。
リオは、紙片の下に透明な細い板を差し込んだ。
紙片は少しだけ浮き、どの台にも触れない高さになった。
`まだ書かない始点未満の紙片`
札ではなく、紙片の端にそう小さく書いた。
旅人は、その紙片を持って出るのではなく、三つのここ台の間に浮かせたままにした。
始点未満を持つ札は手元にある。
でも、書かない紙片は部屋に残る。
持つものと残るものが、ここでも同じ答えにならない。
それが少し、頼もしかった。
紙片は、浮いたまま小さく揺れた。
塔の中に風はない。
それでも、紙片の端は、誰かが名を書こうとするたびに少しだけ動くように見えた。
リオは、筆を持った手を下ろした。
「書かないためにも、置くものがいりますね」
ミャオリンが、透明板の横へ細い糸を垂らした。
糸は紙片に触れない。
触れないまま、どの台にも寄りすぎない高さを見せている。
`どの台にも寄せない糸`
リオが札にそう書くと、三つのここ台の線は少しだけ薄くなった。
消えたのではない。
紙片を呼び寄せる力が、弱くなっただけだった。
旅人は、始点未満を持つ札を手にしたまま、紙片を見た。
持って出る札。
残しておく紙片。
寄せない糸。
三つがあると、始点という言葉は、部屋の中央へ急いで集まらない。
ククルーが静かに言った。
「持っているものがあると、残るものを忘れやすくなるね」
旅人はうなずいた。
「残っているものがあると、持っている札を答えにしなくて済むね」
紙片の端が、ほんの少し低くなった。
それは返事ではない。
でも、返事を待てる高さだった。
三つのここ台の光は、まだ足もとのあたりで止まっている。
旅人は、ひとつ目の線へ目をやった。
ここがどこか。
その問いは、地図を呼びたがる。
ふたつ目の線を見る。
ここに誰がいたのか。
その問いは、顔を呼びたがる。
みっつ目の線を見る。
ここから誰が行ったのか。
その問いは、出発の音を呼びたがる。
どれも呼びたがる。
呼びたがるから、悪いわけではない。
でも、呼びすぎると、紙片はすぐ三つのうちどれかへ寄ってしまう。
リオは、どの台にも寄せない糸の下へ、薄い丸板を一枚置いた。
丸板の中心には何も書かれていない。
中心が空いているのではなく、中心と呼ぶところが最初から決まっていない板だった。
「中心を作らない受け板です」
`中心を作らない受け板`
その札を置くと、紙片の揺れは止まらなかった。
止まらないまま、揺れが大きくもならない。
ククルーは、封筒を持つ手を胸の前で少しだけ下げた。
「始点未満は、真ん中へ置くと始点に見えるね」
旅人はうなずいた。
「端へ置きすぎると、関係がないものに見えるね」
「はい」
ミャオリンがしっぽを丸めた。
「だから、真ん中でも端でもないところに浮かせるにゃ」
旅人は、中心を作らない受け板の上で揺れる紙片を見た。
そこに答えはない。
でも、答えではないものが、部屋の中で落ちずにいる。
それだけで、この部屋は少し深くなった。
深くなった部屋では、足音も少し遅れて聞こえた。
旅人が一歩動くと、床の低い線がすぐには返事をしない。
遅れて、三つのここ台の影の間から、小さく光が返ってくる。
返ってくる光を見ると、また聞きたくなる。
いまの一歩は、どの台へ近づいたのか。
どこかへ近づいたのか。
誰かへ近づいたのか。
出発へ近づいたのか。
問いは、三つの台を順番に回りたがった。
ミャオリンが、中心を作らない受け板の外へ、小さな輪を半分だけ置いた。
「回りきらない輪にゃ」
リオが札を書いた。
`三つを回りきらない半輪`
半輪は、三つのここ台を囲まなかった。
途中で切れているから、順番に全部を回った気になれない。
旅人は、その切れ目を見た。
回りきらないと、不安になる。
でも、回りきると、ひとつの説明を作りたくなる。
ククルーは、封筒を抱えたまま言った。
「切れ目があると、あとで戻れるよ」
「戻るための切れ目」
「うん。通れなかった切れ目ではなく、決めずに残す切れ目だね」
旅人は、半輪の切れ目を始点未満の紙片の下へ重ねないよう、少し離して見た。
切れ目がある。
紙片が浮いている。
中心はまだない。
三つのここ台は、答えではなく、答えにしたくなる手を照らす台のままだった。




