第2巻 名前のない託宣 第2章 閉じない輪
低い音は、歩くほど近くならなかった。
近づいているはずなのに、距離が変わらない。耳の奥では確かに鳴っている。けれど足元の菌糸が光るたび、音は少し横へずれ、霧の奥で別の形になる。大きな輪が息をしているような音だと思ったのに、次の瞬間には、誰かが長い紐をゆっくりほどいている音にも聞こえた。
「音が回ってる」
僕が言うと、ククルーは耳を左右別々に動かした。
「回っている音は、捕まえにくいね」
「捕まえるもの?」
「今のはぼくの悪い癖だね。音は捕まえるより、通り道を見た方がいい」
リリウムが杖で霧を軽く払った。
「輪の聞く場所では、音を追いかけないでください」
「追いかけると?」
「閉じたくなる」
答えは短かった。
閉じたくなる。
言葉にすると、胸の中で何かが小さく頷いた。水滴の聞く場所で、僕は落ちそうなものを受け止めたくなった。ここでは、回っている音を閉じたくなるのだろう。閉じれば輪になる。輪になれば、始まりと終わりが分かる。中と外が分かる。道も、役割も、きっと分かりやすくなる。
でも、閉じる前の道は、まだ閉じていない。
霧が薄くなると、前方に大きな門が見えた。
門と呼んでいいのか迷う形だった。太い根が左右から伸び、頭上で輪を作ろうとしている。けれど輪の上部に、指二本分ほどのすき間が空いていた。すき間は小さい。少し根が伸びればすぐ閉じそうだ。それなのに、根はそこで止まり、互いに触れないまま淡い光を交わしている。
門の足元には、いくつもの細い紐が張られていた。
紐は通行止めではない。むしろ、歩く人がどこを通ったかを覚えるための印のようだった。紐の端には小さな札がついている。丸い札、欠けた札、半分だけ色の違う札。どれも輪に似ているが、完全な丸はひとつもない。
「閉じない輪」
僕が呟くと、門のすき間がかすかに明るくなった。
リリウムが頷いた。
「ここでは、そう呼ばれています」
「名前、あるんだ」
「場所の名前です。託宣の名前ではありません」
その違いを、すぐには言葉にできなかった。けれど何となく分かる気がした。水滴の聞く場所も、場所として呼ぶことはできる。呼べなければ戻ってこられない。でも、そこにある問いを名前で閉じるのとは違う。
門のそばで、薄い蔓を肩にかけた住民が紐を結び直していた。
背は僕より少し低い。顔は木の皮に似た柔らかな模様を持ち、髪のかわりに細い根が後ろへ流れている。根の先には小さな輪飾りがいくつもついていたが、どれも一か所だけ切れている。
住民はこちらに気づくと、手を止めた。
「リリウム。閉じに来たの?」
最初の挨拶がそれだった。
リリウムは首を横に振る。
「聞きに来ました」
「聞く人は増えた方がいい。閉じる人は、今日はもう多い」
住民はそう言って、僕とククルーを見た。ククルーを見る目には、少しだけ親しみが混じっている。
「案内役さんも閉じに来た?」
「ぼくは閉じるのも開けるのも苦手だよ。案内の終わりだけはよく閉じるけれど」
「それはよいこと」
住民は真面目に頷いた。
ククルーが小声で僕に言う。
「冗談が真面目に受け取られる土地では、ぼくは慎重になるね」
「慎重になってる?」
「今からだよ」
住民は自分の胸に手を当てた。
「輪守りのセム。ここで、閉じない輪の番をしています」
「旅人です」
名乗ってから、少しだけ胸が冷えた。旅人。それは名前ではない。けれど今はそう呼ばれている。場所の名前と託宣の名前が違うように、呼称と持ち主名も違うのかもしれない。
セムは僕の胸元のクロニクルブックを見た。
「空白の本」
「見えるの?」
「閉じていないものは、ここではよく見える」
セムは当然のように言い、門のすき間を見上げた。
「この輪も、閉じていないから見える。閉じたら門になる。門になると、通る人は入口と出口だけを見る」
「今は?」
「今は、すき間も見る」
門の上のすき間から、白い霧が細く流れ込んでいた。門の外から内へ入る霧と、内から外へ出る霧が、そこで少しだけ混ざる。閉じていれば見えない流れだ。
「でも、閉じた方が安心しない?」
言ってから、また急いだと思った。
セムは怒らなかった。紐についた欠けた札を一枚持ち上げる。
「安心します。雨が強い日は閉じたくなる。迷った人が多い日は閉じたくなる。外から強い声が来る日は、特に閉じたくなる」
「強い声?」
セムは札を戻した。
「名前を早く決めてほしい声。ここまで来たのだから完成させよう、という声。輪は、そういう声を集めやすい」
低い音が、門のすき間で一度だけ濃くなった。
僕は胸元を押さえた。クロニクルブックの中で、閉じかけた輪の印が少し熱を持っている。水滴の点はまだ消えていない。三つの印が順番ではなく、互いに少しずつ響き合っている。
「ここで何をすればいい?」
セムが僕を見た。
「閉じたい人の話を聞く」
「開けたい人の話は?」
「もちろん聞く」
「じゃあ、どっちを選ぶの?」
セムは不思議そうな顔をした。
「すぐ選ぶの?」
ククルーが前足で眼鏡を押さえた。
「旅人さん、今の問い返しはここに置いておきたいね。ぼくの帳面にも少し借りたい」
「輸入?」
「見方の交換だよ」
リリウムは門のすき間を見上げたまま言った。
「輪の聞く場所では、選ぶ前に、なぜ選びたいのかを見る」
なぜ選びたいのか。
僕は門を見た。閉じるか、開けるか。そう聞かれると、どちらかを選ばなければいけない気がする。けれど、なぜ選びたいのかと聞かれると、別のものが見えてくる。
早く安心したい。
役に立ちたい。
曖昧なまま進むのが怖い。
そしてたぶん、物語の続きがほしい。
水滴はまだ落ちていない。それでも僕たちは次へ来た。ここでも輪が閉じないままだと、何も終わっていないものが二つになる。胸の中に、終わっていないものばかりが増えていく。
「終わってほしいんだと思う」
声に出すと、門のすき間が少し暗くなった。
セムは頷いた。
「そういう日はある」
それだけだった。
責められなかったことで、かえって胸の奥が静かになった。
門の向こうから、数人の住民がやってきた。みんな輪飾りを身につけているが、切れ目の位置が違う。頭上に切れ目がある人。胸元に切れ目がある人。手首の輪が、わざと開いたまま揺れている人。
そのうちの一人が、セムへ言った。
「今日こそ閉じた方がいい。外の音が強い」
別の一人が首を振る。
「閉じたら、外の音がどこから来たか分からなくなる」
「でも、子どもたちが眠れない」
「すき間から入る音を聞いているから眠れないんじゃない。音を閉じるかどうかを大人が決められないから眠れない」
言葉は荒くない。誰も声を高くしない。それでも、言葉の端が互いに触れるたび、門の根が少し震えた。輪は閉じたいのか、開きたいのか分からない。たぶん、どちらの声にも理由がある。
ククルーは僕の隣で座ったまま、何も言わない。
僕は、また答えを探しかけている自分に気づいた。
閉じるべきか。
開けるべきか。
中間はないのか。
そう考えた時、ミトの照合札が鞄の中でかすかに光った。第1章で書いたばかりの札。水滴は、まだ落ちていない。その記録が、ここまで来ても残っている。
僕は札を取り出した。
「水滴の場所では、落とさなかった」
住民たちがこちらを見る。
「でも、何もしなかったわけじゃない。落ちる前の場所を少し開けた。水滴が落ちるかどうかは、まだ決めてない」
言いながら、自分でも確かめていた。水滴の場所でできたことが、そのまま輪に使えるとは限らない。落ちることと閉じることは違う。水滴と輪は同じではない。
「ここでも、閉じる前の場所を作れる?」
セムの輪飾りが、ひとつだけ明るくなった。
「閉じる前の場所」
「閉じるでも、開けるでもなくて」
「逃げる場所ではなく?」
「たぶん、違う。選ばないためじゃなくて、選ぶ前に聞くための場所」
門のすき間から入る霧が、少し太くなった。
閉じたいと言った住民が、腕の輪を押さえる。
「聞いている間に、音が強くなったら?」
僕はすぐに答えられなかった。
強くなったら怖い。子どもたちが眠れないなら、何かしたくなる。水滴の時も、落ちそうだから受け止めたくなった。よい理由があると、手は早く動きたがる。
リリウムが、そこで初めて一歩進んだ。
「強くなった音を、そのまま中へ入れる必要はありません」
「開けておくのに?」
「開けておくことと、全部を通すことは違います」
ククルーが軽く頷いた。
「これは重要だね。案内の場でも、質問を受け付けることと、全員が同時に話すことは違うよ」
「案内と門を一緒にするの?」
僕が聞くと、ククルーは真面目な顔をした。
「閉じない場所は、なかなか高度だね」
住民の一人が小さく笑った。
その笑いが門の根に伝わり、すき間の霧がゆっくり揺れた。緊張がなくなったわけではない。でも、少しだけ別の音が混じった。
セムは足元の紐を一本ほどいた。
「閉じる前の場所を作るなら、輪の内側へ入ってください」
「内側?」
「まだ内側ではない場所です」
門をくぐると、そこは広場だった。
地面には無数の輪が描かれている。白い胞子で描かれた輪。苔を刈って作った輪。水路が丸く巡る輪。けれど、どれも一か所だけ開いていた。開いた先は、別の輪の開いたところへ向かっている。完全な輪がひとつもない代わりに、未完成の輪同士が細い道でつながっていた。
広場の中央には、低い台があった。
台の上には、透明な膜が張られている。膜は丸いが、端が少し足りない。そこだけ空いていて、霧が入っては出ていく。膜の内側で、文字になりかけた線が何度も回り、閉じる直前にほどけていた。
「託宣?」
「まだ託宣になっていない輪です」
セムが言った。
「閉じれば読めるかもしれない。読めれば、何をすればいいか分かるかもしれない」
「だから閉じたい」
「はい」
「でも、閉じると?」
セムは膜の欠けたところへ指を近づけた。触れない。けれど、膜の線が指先へ寄っていく。
「閉じた瞬間、輪の外に残っていた音が落ちます」
「落ちる?」
「水滴の場所で、落ちなかったものがあったでしょう」
リリウムが言った。
「ここでは、閉じた瞬間に落ちてしまう音があります」
僕は膜の欠けたところを見た。そこから低い音が入ってくる。さっきから聞こえていた、輪が息をするような音。その奥に、もっと遠い音が混じっている気がした。
大きい。
けれど、はっきりしない。
遠くで何かが歩いているような、森全体が寝返りを打ったような、胞子の雨が一斉に止まったような音。
ククルーの鈴が、鳴らないまま少し揺れた。
僕はそれに気づいた。
「今の音、ククルーにも聞こえた?」
ククルーはすぐに冗談を言わなかった。
「聞こえたよ」
「何の音?」
「分からない」
短い答えだった。
でも、その短さに、いつもの逃げる感じはなかった。分からないことを分からないと言う。第1巻でククルーが言ったことを、今もちゃんと守っている。
セムが膜の前に座った。
「旅人。閉じる前の場所を作るなら、この膜にひとつだけ言葉を置いてください」
「言葉?」
「閉じるための言葉ではなく、閉じないまま聞くための言葉」
また、難しいことを言われた。
僕は膜の前に膝をついた。膜の内側の線は、僕が近づくと少し速く回った。閉じたいのか、逃げたいのか、分からない。ただ、何かになりたがっているようには見える。
言葉を置く。
何を書けばいい。
閉じないで。
待って。
聞こう。
どれも悪くない。でも、どれも少し強い。命令の形に近い。僕が輪へ言うには、まだ早い気がした。
第1章で書いた言葉を思い出す。
呼ぶ前の水滴を見た。
見たことだけを書く。決めたことではなく、見たこと。
僕は指先を膜の欠けた縁へ近づけた。
胞子が集まる。
文字はすぐには出なかった。膜の上で、線が輪になろうとして、途中で止まる。僕はその止まったところに、ゆっくり言葉を置いた。
――輪は、まだ聞いている。
文字は閉じなかった。
一文字ずつが小さな開きを持ち、膜の上に浮かぶ。読みにくい。けれど、読めないわけではない。
閉じたいと言った住民が、膜を覗き込んだ。
「まだ聞いている」
開けたいと言った住民も、同じ言葉を見た。
「閉じない、ではないんだ」
「開ける、でもない」
セムが静かに言った。
「聞いている」
その瞬間、膜の欠けたところから入っていた霧が、ひとつの流れになった。広場の未完成の輪が、順番ではなく、あちこちで弱く光る。閉じたわけではない。開いたまま、互いの欠けた部分を見つけるように光が渡っていく。
低い音が、少しだけ形を変えた。
輪が息をする音ではなく、遠くで大きな足が苔を踏む音に聞こえた。
一歩。
それから、長い沈黙。
もう一歩。
住民たちは一斉に門の外を見た。
怖い、という声は出なかった。でも、空気が少し冷える。ククルーの耳が伏せられ、リリウムの杖の点が二つ同時に消えた。
「今のは」
僕が言いかけると、リリウムが首を横に振った。
「まだ名前にしない」
僕は口を閉じた。
遠くの足音。大きな輪郭。霧の奥で、まだ見えない何か。
名前をつければ、少し楽になる。巨像、と呼べば形が見える気がする。けれど、今はまだ第2章の輪の場所だ。ここで名前を置くには早い。
ククルーが小さく息を吐いた。
「聞こえたことを、聞こえたまま置こう」
「ククルーが言っていいの?」
僕が聞くと、ククルーは困ったように笑った。
「今のはぼくにも必要な言葉だよ」
セムは膜のそばに小さな札を置いた。欠けた輪の形をした札だ。
「旅人の言葉は、ここに残します」
「僕の言葉でいいの?」
「旅人だけの言葉にはしない。閉じたい人も、開けたい人も、今日からこの札を読める」
住民の一人が、門の上のすき間を見上げた。
「今日は閉じない」
別の一人が言った。
「でも、音が強い時は、すき間の前に聞く係を置く」
「子どもたちには?」
「閉じるかどうかを決められないから眠れない、と伝えるのではなく、今は聞いている途中だと伝える」
セムが頷いた。
「途中は、不安だけではない」
広場の輪が、短く三つ光った。
長く一つ、ではなかった。
短く二つ。
少し空いて、短く一つ。
僕はその違いに気づいた。
「ミセリの拍と違う」
「ここでは、欠けた拍を残します」
セムが自分の輪飾りを持ち上げた。
「短く二つ。空き。短く一つ。空きも拍の一部です」
空きも拍の一部。
その言葉が、胸の中にゆっくり入ってきた。
僕のクロニクルブックには空白がある。名前欄も空白のままだ。空白は、ただ足りないところだと思っていた。第1巻で、空白は余白にもなると知った。今は、空きも拍の一部だと教えられている。
足りないことと、空いていることは、同じではない。
僕はその場でクロニクルブックを開いた。
閉じかけた輪の印が、さっきより濃くなっている。けれど、完全な輪にはなっていない。上部に小さなすき間があり、そこから細い霧が出入りしている。ページの端に、薄い文字が浮かんだ。
――輪は、まだ聞いている。
自分で書いた言葉なのに、クロニクルブックに出ると少し違って見えた。僕だけの言葉ではなく、この場所に置いた言葉として戻ってきたのだと思う。
水滴の点は、さらに薄くなった。
代わりに、曖昧な灯りの点が一度だけ瞬いた。
「次は灯り?」
言ってから、すぐに首を振った。
「いや、次に聞こえやすくなっただけ」
ククルーが小さく頷いた。
「言い直す場所が、ちゃんと残っていたね」
「帳面は?」
「帳面が閉じなくなったよ」
「それ、いいこと?」
「今日の土地では、たぶん」
リリウムは門のすき間を見ていた。
その横顔は静かだったが、どこか遠い。遠くの足音を聞いているのか、それとも自分の中の別の音を聞いているのか、分からない。第2巻に入ってから、リリウムは時々、言葉を置く前に長く黙る。その沈黙は正確さだけではない気がした。
「リリウム」
呼ぶと、リリウムはゆっくりこちらを見た。
「何か、聞こえた?」
「聞こえました」
「何が?」
リリウムは答えるまでに少し時間を置いた。
「まだ、言わない方がいい音です」
「言わない方がいい?」
「言わないことで消える音ではありません。でも、今言うと、輪が閉じます」
僕は頷いた。
分かったわけではない。
でも、分からないまま頷くことと、分かったことにして頷くことは違う。今の頷きは、たぶん前者だった。
セムが僕たちを門の外まで送ってくれた。
門は相変わらず閉じていない。上のすき間から霧が入り、出ていく。けれど最初に見た時より、輪全体が少し落ち着いて見えた。閉じていないことが問題なのではなく、閉じていない理由を誰も聞けなくなった時に、輪は不安になるのかもしれない。
「旅人」
セムが呼んだ。
「はい」
「空白の本は、閉じなくていい」
胸が少しだけ跳ねた。
「でも、落とさないで」
「落とす?」
「閉じないものは、落ちやすい。持ち続けるには、時々、誰かに見せるといい」
僕はクロニクルブックを押さえた。
見せる。
誰かに見せることで、閉じないまま持つ。
それは少し怖い。空白を見せることは、自分でも分からないものを外へ置くことだから。でも、ミセリでも、水滴の場所でも、輪の場所でも、ひとりで持つより、置き場所を作った方が問いは息をしやすかった。
「覚えておく」
「覚えなくても、札が残ります」
セムはそう言って、欠けた輪の札を一枚くれた。
札は軽い。中央に輪が描かれているが、上部が少し開いている。その開いたところに、小さな空きがあった。空きは白いのに、周りの胞子より目立った。
鞄へしまうと、空の小瓶がかすかに鳴った。
入れすぎないように。
でも、まったく入れないわけでもないように。
門を離れる時、遠くの足音がもう一度だけ響いた。
今度は、広場の住民たちも慌てなかった。閉じたい人は門の根元へ行き、開けたい人はすき間の下へ立った。そして、その間にセムが欠けた輪の札を置く。
閉じる前の場所。
開けたまま聞く場所。
その場所があるだけで、足音は少しだけ遠く聞こえた。
霧の奥へ進むと、クロニクルブックの曖昧な灯りが、ゆっくり明るくなった。
次の聞く場所が、呼んでいる。
いや。
まだ、呼んではいない。
息継ぎをしている。




