第12巻 飛空艇と仮説の空 第1章 格納桟橋の朝
見学線の手前には、朝の風が先に来ていた。
風は強くない。
弱くもない。
ただ、床に引かれた線の上で、細い粉を少しだけ横へ流している。誰かが掃き忘れた粉ではない。シオンが、風を見るために薄くまいた粉だ。
「踏まないでください」
シオンが言った。
ネジリの足が、空中でぴたりと止まる。
「踏むところでした」
「踏んでも、怒りません」
シオンはしゃがみ、粉の線を見た。
「ただ、踏んだあとを、風のあとと混ぜます」
ネジリは、足をゆっくり戻した。
「混ぜるところでした」
「うん。今は、戻せたね」
ククルーは、見学線の手前でしっぽを丸めた。
「足も、戻れる速さだったね」
ネジリは少し照れた。
旅人は、粉の流れを見た。見学線の上で、粉はまっすぐではなく、少しだけ横へ流れている。飛空艇へ向かう流れではない。桟橋の外へ逃げる流れでもない。線に沿って、横へ。
粉は、少しずつ形を変えた。
さっきまで細い線だったところが、ところどころで小さな島のように残る。島と言いたくなる。けれど、粉は島ではない。床の上に、風で残った小さな濃いところがある。
シオンは、何も言わずに透明な細い板を差し出した。
「写しますか」
ネジリが聞いた。
「まだ写しません。先に、見たい場所を決めます」
「全部写せばよいのでは」
ネジリは言ってから、自分で口を押さえた。
「全部、が出ました」
ククルーが、空へ持っていかない言葉の袋を少し揺らした。
「袋の入口まで来たね」
シオンは、粉の線の横へ小さな木片を三つ置いた。
一つ目は、足が戻った場所。
二つ目は、風で粉が薄くなった場所。
三つ目は、影の端と粉の濃いところが重なっている場所。
「三つだけですか」
「三つから見ます」
「三つ以外は見ないのですか」
「見ないことにしません。三つ以外を、まだ選ばない場所へ置きます」
シオンは、低い台の下から白い浅皿を出した。皿には何もない。けれど、何もないことが、今朝は働いている。
`まだ選ばない粉`
教授が札を書いた。
ネジリは、その札を見て少し笑った。
「粉にも、まだ選ばない場所がある」
「あります」
旅人は答えた。
「人の手と同じです」
その時、見学線の手前に、配達台車の職人が近づいた。荷台は空のままだ。職人は、粉の線を見て足を止めた。
「ここは通らない方がよさそうですね」
「通ってもよいです」
シオンは言った。
「ただ、通ったことを粉と分けます」
職人はしばらく考え、荷台の片輪を少しだけ持ち上げた。通らないのではない。通る前に、輪がどこへ跡をつけるかを見ている。
「荷台も見学できますか」
ネジリが聞く。
職人はうなずいた。
「空の荷台ほど、何かを載せたくなるから」
職人は、低い台へ札を置いた。
`空の荷台が、何かを載せたくなる`
シオンはその横に、もう一枚を置いた。
`空の荷台は、まだ空`
二枚で置く。
空であることと、載せたくなること。
どちらかだけにすると、急ぐ。
荷台の後ろには、小さな止め具が二つあった。荷物を載せていない時には、使われない止め具だ。けれど、職人はその止め具を一度だけ指で確かめた。
「空なのに、止め具を見るのですか」
ネジリが聞いた。
「空だから見ます」
職人は答えた。
「荷物がある時は、荷物が止まっているかを見る。荷物がない時は、止めたい手が先に出ていないかを見る」
シオンは、その言葉を聞いて低い台へ札を足した。
`止めたい手が先に出ていないか`
ネジリは、止め具を見た。
止め具は、何かを押さえるためにある。
でも、押さえるものがない時にも、押さえる形だけはある。
形だけがあると、何かを入れたくなる。
旅人は、空へ持っていかない言葉の袋を思い出した。袋も、まだ空だ。空なのに、入れたい手を呼ぶ。
「空のものは、手を呼びますね」
旅人が言うと、ククルーはうなずいた。
「空のお皿も、なかなか呼ぶね」
ネジリは、また真剣に考え込んだ。
「空のお皿は、何かを載せたくなるね」
「はい」
「でも、載せないままでも、お皿です」
「とても大事です」
教授は、見学線のそばへもう一枚の札を置いた。
`空のまま役に立つ`
その札を見た時、見学線の白い粉も少し違って見えた。
粉は、風を全部説明しない。
それでも役に立つ。
風袋は、風を入れない。
それでも役に立つ。
速度札は、まだ速さを決めない。
それでも役に立つ。
見学線の手前には、空のまま働くものがいくつもあった。
伝声管の子どもも来た。声を遠くへ送る管の口を布で包んだまま、見学線のそばに立つ。
「飛空艇の音を聞きたいです」
「聞けます」
シオンは答えた。
「ただ、聞こえた音を、すぐ知らせる音にしないでください」
子どもは、伝声管の布を少し握った。
「聞こえたら言いたくなります」
「はい」
「言わないと、忘れそうです」
教授は小さな紙片を渡した。
「言う前の紙です」
子どもは、そこへ書いた。
`聞こえたら言いたくなる`
そして、伝声管の口へその紙を貼らず、布の上にそっと置いた。
貼ると、管の言葉になりそうだからだ。
旅人は、その置き方を見て、見学線が少し広くなったように感じた。
線そのものは変わらない。
でも、線の手前に置けるものが増えた。
粉。
足。
荷台。
声。
影。
風袋。
どれも船体そのものではない。けれど、船体を見る前に見えるものだった。
第11巻で、窓の曇りが横へ流れた。
熱が消えたのではなく、行ける場所を見つけたように見えた。
今朝の粉も、少し似ている。
似ている。
同じではない。
旅人は、その二枚の札を心の中で並べた。
シオンは、風袋を見学線の手前に置いた。袋の口は開けない。折り目だけを、粉の線へ向ける。
「風袋は、風を入れる袋ではありません」
ネジリが先に言った。
「はい」
シオンはうなずく。
「折り目を見ます」
「折り目なら、持っていける」
「持っていけます。けれど、折り目を風そのものにしない」
教授は、空用の試し布を低い台に広げた。四隅の小さな重りが、風で揺れないように布を押さえる。
触れる前。
そば。
通ったあと。
まだ置かない。
四つの丸は、格納桟橋の朝にも置けた。
ただ、研究棟よりも音が多い。
飛空艇の船体から、低い金属音がする。蒸気管が冷えている音。帆布の留め具が風に触れる音。遠くで歯車街の朝の機械が、自分の小さな仕事へ戻る音。
音が多いと、すぐに何かが始まった気がする。
旅人は、待つ針の包みを布の `触れる前` の外側へ置いた。
からん。
音がした。
格納桟橋では、研究棟よりも少し高く聞こえる。
風が音の端を持ち上げたのかもしれない。
「いい音です」
ネジリが言いかけて、口を押さえた。
「いい音に聞こえました」
教授はうなずいた。
「言い直した手が見えるね」
ククルーが、すぐに付け足す。
「風のある場所では、音も少し格好よくなるからね」
シオンは、飛空艇の方を見た。
「格好よく聞こえる音は、整備係も気をつけるんだ」
「整備係も?」
ネジリが驚く。
「はい。飛空艇は、まだ動いていないのに、動ける音を出します」
シオンは、船体の下にある小さな整備灯を指した。
「あの灯りも、進め、と言っているように見えます。でも、灯りは灯りです。進め、と読んだのは、こちらの手です」
ネジリは、灯りをじっと見た。
「進め、と読んだ手」
「はい」
「その手も、整備しますか」
シオンは少し笑った。
「します。飛空艇の整備は、船体だけでは足りません」
格納桟橋の朝が、その言葉で少し深くなった。
飛空艇を整備する。
帆、蒸気管、係留紐、灯り、速度札。
それだけではない。
乗りたい手。
早く見たい手。
空なら分かると思う手。
それらも、整備の対象になる。
教授は低い台に新しい札を置いた。
`手も整備する`
ククルーがその札を見て、前足をそろえた。
「ぼくの手も、整備対象ですか」
「必要なら」
教授は答えた。
「それじゃ、まず爪を出しすぎないところから」
ネジリは笑い、すぐに笑いを小さくした。
「笑いも、線を越えますか」
「越える時があります」
旅人は言った。
「でも、今のは見学線の手前で止まったと思う」
ネジリは安心したようにうなずいた。
笑いも、手前で止まれる。
そのことが、桟橋の朝を少しやわらかくした。
シオンは、見学線の前に細い棒を置いた。棒の先には、小さな布が結ばれている。布は白く、端だけ青い。
「これは、見学針です」
「針?」
ネジリが身を乗り出す。
シオンは棒を持ち上げた。
「飛空艇を見る時、どこから見始めたかを示します。今日は、船体の中央から見ません」
「中央ではなく」
「足元から」
シオンは、見学針の先を桟橋の床へ向けた。
飛空艇の影が、床に落ちている。
影は大きい。
船体そのものより、先にこちらへ来ている。
「影から見るのですか」
「はい。影は、飛空艇がここにあることを教えますが、飛空艇そのものではありません」
教授は満足そうにしすぎない顔でうなずいた。
「よい入口です」
旅人は、影の端を見た。
影は見学線の手前まで伸びている。
つまり、飛空艇そのものへ近づかなくても、飛空艇の端はもうこちらへ来ている。
それは少し不思議だった。
近づいていないのに、そばにいる。
そばにいるのに、触れていない。
空用の試し布の二つ目の丸、`そば` が、桟橋の床で少し意味を変えた。
「そば、は距離だけではないのですね」
旅人が言うと、シオンは見学針を止めた。
「はい。影のそば、音のそば、風のそばがあります」
ネジリは、すぐに札を書きたくなった顔をした。
でも、書かなかった。
かわりに、空欄の小さな紙を一枚、低い台へ置く。
「今のは、あとで書きたいです」
「よい置き方です」
教授が言った。
見学線の手前で、最初の見学が始まった。
飛空艇の船体を見るのではなく、影を見る。
影の端。
影が粉の線と重なるところ。
影が風袋の折り目に触れそうで触れないところ。
シオンは、見学針をゆっくり動かした。
「影は、風で動きません」
ネジリが言う。
「はい。でも、風で動く粉と重なると、影も動いたように見える時があります」
シオンは、粉が横へ流れたところを指した。
「ここです」
たしかに、粉が動くと、影の端も揺れたように見えた。
影は動いていない。
粉が動いた。
でも、目は、影が動いたように受け取る。
「動いたように見える」
旅人が言う。
「はい。飛空艇では、この `ように見える` がとても大事です」
シオンは言った。
「高いところでは、近いものと遠いものが重なります。速く動くと、自分が動いたのか、風が動いたのか、下の影が動いたのか、すぐ一つにしたくなります」
ククルーが小さく息を吐いた。
「空でも、同じにしたくなる手が忙しそうだね」
「はい」
教授は、低い台へ札を置いた。
`影が動いたように見える`
その横に、もう一枚。
`粉が動いた`
二枚を重ねず、少し離す。
「二枚で置く」
ネジリが言った。
「はい。今日は、二枚で置きます」
シオンは、見学針を戻した。
「ここまでが、見学線の手前で見られることです」
ネジリは目を丸くした。
「まだ、船体を見ていません」
「見ていません」
「それなのに、たくさんあります」
「はい」
シオンは静かに言った。
「乗る前には、たくさんあります」
シオンは、低い台の下から薄い箱を取り出した。
箱のふたには、何も書かれていない。
開けると、中には小さな布片が並んでいた。どれも飛空艇の帆布と同じ色をしている。端だけ、少しずつ違う。
青い端。
灰色の端。
白い端。
それから、何色とも決めにくい、薄い空色の端。
「これは、帆の端見本です」
シオンが言った。
ネジリの目がすぐに輝く。
「帆ですか」
「帆そのものではありません」
ネジリは、自分でうなずいた。
「帆の端」
「はい。飛ぶ布をいきなり見ると、広い面を見たくなります。広い面を見ると、風を受けた時の姿を想像したくなります」
「想像してはいけないのですか」
「いけないのではありません。想像した手を、先に見ます」
教授は、空用の試し布の `そば` の丸へ、帆の端見本を置いた。
中央ではない。
帆布の端が、見学線の粉と同じ向きに少しだけ揺れる。
「飛びそうです」
ネジリが言い、すぐに言い直した。
「飛びそうに見えます」
シオンはうなずいた。
「はい。端だけでも、飛びそうに見えます」
「端だけなのに」
「端だからです。全部が見えないと、手が続きを作ります」
旅人は、帆の端を見た。
見えない続きを作る手。
それは物語を読む時にも似ている。
でも、今はその言葉を大きくしない。
ここは格納桟橋で、飛空艇の帆の端を見ている。
ククルーは帆布の端へ鼻を近づけすぎない距離で言った。
「続きを作る手は、なかなか働き者だね」
「働き者だね」
教授が答える。
「ですから、休み時間も必要です」
シオンは、箱の横にもう一つ小さな道具を置いた。丸い金具に細い糸が三本ついている。
「係留紐の手元です」
「飛空艇をつなぐ紐ですか」
ネジリが聞く。
「その手元だけです。紐全体を見ると、外したくなります」
ネジリは口を閉じた。
外したい。
その手が、顔に出ていた。
シオンは責めなかった。
「外したい手は、悪くありません。飛空艇は、いつか紐を外すために整備します」
ネジリは、少しほっとした。
「でも、今ではない」
「はい。今は、外す前に、つないでいる手を見ます」
係留紐の手元は、空用の試し布の `触れる前` と `まだ置かない` の間に置かれた。
どちらにも入らない。
外す前。
でも、まだ外さない。
その間。
旅人は、係留紐の細い糸を見た。
糸は飛空艇を止めている。
けれど、止めるためだけではない。飛べるものを、飛ぶ前の場所に置いている。
「つないでいるから、飛べないのではなく」
旅人は言った。
「飛ぶ前の場所を作っている」
シオンは、静かにうなずいた。
「はい。よい係留は、飛べない理由ではありません」
教授は札を書いた。
`つないでいる手も、飛ぶ準備`
ネジリはその札を見て、深く息を吐いた。
「つなぐことも、準備」
「はい」
「外すことだけが準備ではない」
「はい」
格納桟橋の下から、蒸気が一つ低く抜けた。
ふく。
飛空艇の音ではない。
桟橋を支える管の音だ。
でも、飛空艇が返事をしたように聞こえた。
ネジリが顔を上げる。
「今のは」
「桟橋の管です」
シオンが先に言った。
「飛空艇ではありません」
「でも、飛空艇が返事したように聞こえました」
「はい。そう聞こえました」
シオンは札を書いた。
`桟橋の管が鳴った`
その横へ、もう一枚。
`飛空艇が返事したように聞こえた`
教授の置き方と同じだった。
二枚で置く。
ネジリは、二枚の札を見て、少し笑った。
「整備係も、長い札を書きますね」
「飛空艇のそばでは、短い札だけだと足りません」
シオンは言った。
その言葉は、朝の桟橋にしっくり来た。
短い札だけでは足りない場所。
広い空へ出る前に、言葉を少し長くしておく場所。
その言葉に、桟橋の風が少しだけ低くなったように感じた。
乗る前。
飛ぶ前。
速くなる前。
その前は、空白ではない。
前には、前の仕事がある。
ネジリは、見学線を見た。
「ここを越えるのは、いつですか」
教授は、すぐに答えなかった。
シオンも、飛空艇を見なかった。
まず、低い台の札を見る。
持っていくもの。
持っていかないもの。
まだ決めないもの。
影が動いたように見える。
粉が動いた。
手も整備する。
見えるだけで決めない。
それらが、朝の台に並んでいる。
「越える前に、越えたい手を見ます」
教授は言った。
ネジリは、自分の足元を見た。
つま先が、見学線へ少し向いている。
「越えたいです」
「はい」
「でも、まだ見たいです」
シオンがうなずく。
「それじゃ、今日は朝が少し軽いね」
ククルーが、見学線の手前で背伸びをした。
「少し待てる朝は、手が空まで急ぎすぎないね」
旅人は、空を見上げた。
飛空艇の帆はまだたたまれている。
空は広く、青い。
でも、その青さは、答えの色ではなかった。
見学線の手前で見るには十分な、朝の色だった。




