第12巻 飛空艇と仮説の空 プロローグ 空へ持っていかない言葉
朝の歯車街は、空を見上げる前に、床を見た。
研究棟の入口には、昨夜置いた小さな椅子がそのまま残っていた。白い空欄札の前に、低く、静かに置かれている。誰も座っていないのに、そこだけ朝の手が少し遅くなるように見えた。
ネジリは、椅子の前に立っていた。
まだ座っていない。
座る前に、座りたい手を見ている。
「おはようございます」
旅人が声をかけると、ネジリは振り向いた。
「おはようございます。まだ書いていません」
「うん」
「書かないまま、もう三回、書きそうになりました」
ククルーが、旅人の足元から顔を出した。
「三回ぶん、字が冷えたんだね」
ネジリは少し笑った。
「字も冷えるのですか」
「急いで書かれた字は、よく熱を持つんだ」
ククルーはまじめな顔で言った。
「特に、出発の朝の字は」
研究棟の奥では、ピペット教授が空用の試し布を広げていた。四隅の小さな重りが、机の上で静かに光っている。
触れる前。
そば。
通ったあと。
まだ置かない。
四つの丸は、布の上では昨日よりも小さく見えた。空で広げるために、場所をたたんだ形だ。
場所は小さくなった。
でも、意味は軽くなっていない。
旅人は、布の端へ手を置いた。
「持っていくのは、場所そのものではない」
教授が言う。
「はい。場所の形です」
ネジリが続けた。
「形だけ持っていくと、分かった気になりませんか」
教授は、すぐに答えなかった。
その沈黙が、もう空へ出る朝だった。
「なります」
教授は言った。
「ですから、形のそばに、持っていかない言葉の袋を置きます」
机の端に、空の布袋があった。
昨日の袋。
上から見れば分かる。
空へ行けば急がなくてすむ。
風で格好よく聞こえる説明。
その言葉たちは、袋の中に実物として入っているわけではない。けれど、袋を持つ手は、少しだけ重さを覚えている。
旅人は袋を持ち上げた。
空っぽだ。
空っぽなのに、軽いだけではない。
「今日は、この袋を持っていきますか」
「はい」
教授は答えた。
「持っていかない言葉を忘れないために、持っていきます」
ネジリは首をかしげた。
「持っていかない言葉を、持っていく」
「ややこしいね」
ククルーが言う。
「でも、旅の荷物は時々ややこしいものだよ。お弁当は食べるために持っていくけれど、食べすぎないためにも持っていくんだ」
ネジリは真剣に考えた。
「お弁当も、速さを冷ますのですか」
「お腹が空いていると、かなり速くなります」
教授は笑いを小さくして、白い札を一枚取り出した。
昨夜の空欄札ではない。
今朝の札。
まだ何も書かれていない。
「明日の風が来てからでいい、と昨日は言いました」
教授は言った。
「今日は、風が来ました。ですが、風が来たからといって、すぐ書く必要はありません」
研究棟の窓が、かすかに曇った。
曇りは上へ逃げず、横へ薄く流れた。
第11巻で見た熱の線に似ている。
似ている。
同じではない。
旅人は、その言い方を心の中で確かめた。
ネジリは、椅子に座った。
白い空欄札の前。
座っただけで、部屋の音が少し低くなる。
「書きます」
ネジリは言った。
教授はうなずく。
「はい」
ネジリは筆を持った。
すぐには書かなかった。
一度、窓の曇りを見た。
二度、空用の試し布を見た。
三度、空の袋を見た。
それから、白い札に書いた。
`風が来ても、まだ乗ったことにしない`
字は、昨日より少しまっすぐだった。
でも、まっすぐすぎない。
旅人は、その字が好きだと思った。
好き、という言葉も熱を持つことがある。
だから、心の中で少し冷ましてから、うなずいた。
「よい札です」
教授が言う。
ネジリは頬を赤くした。
「よい札、と言われると、すぐ次の札を書きたくなります」
「じゃあ、その手も置こう」
ククルーが、机の端に小さな余白を作った。
ネジリはそこに、何も書いていない小さな紙を置く。
書きたくなった手の場所。
紙は白いまま。
白いまま、役に立っている。
研究棟の外では、飛空艇の格納桟橋へ向かう道が朝の光を受けていた。歯車街の上側を通る歩廊は、まだ人で混んでいない。今日は見送りではなく、乗る前の確認の日だと、入口掲示板に書いてある。
`乗る前を見る日`
その下に、街の人が少しずつ札を足していた。
`早く見てきて、は置く`
`全部分かったら教えて、は置く`
`空なら安心、は置く`
`飛んだら完成、は置く`
最後の札は、子どもの字だった。
ネジリはそれを見て、笑いそうになり、すぐに笑いを小さくした。
掲示板の前には、札を書いた子どもがまだいた。手には小さな鉛筆を持っている。書き終わったのに、鉛筆をしまっていない。もう一枚書きたい手が、指の先で待っているように見えた。
その子どもの隣で、配達台車の職人が荷台の端を布で拭いていた。荷物は載せていない。空の荷台を拭く音が、朝の歩廊に小さく鳴る。
さっ。
さっ。
まだ運ばない荷台を、運ぶ前に整える音。
反対側では、伝声管の親子が管の口に布をかけていた。布をかけると、声は少しこもる。こもるのに、親は満足そうだった。
「今日は、遠くへ知らせる日ではないのですか」
ネジリが聞いた。
親は、伝声管の口を指で軽く押さえた。
「知らせる前に、声が速くなりすぎないようにします」
子どもが続ける。
「飛空艇って聞くと、声が先に走ります」
ククルーがうなずいた。
「声は足がないのに、よく走るね」
旅人は、歩廊の手すりに干された薄い布を見た。研究棟で見た空用の試し布ではない。工房の人が、朝の湿りを取るために広げた布だ。端には小さな札がついている。
`乾いたら使う`
当たり前の札だった。
でも、今朝は少し違って見えた。
乾いたら使う。
乾く前に使わない。
乾いたことにしない。
旅人は、その三つを心の中で別々に置いた。ひとつにすると、布が急ぎそうだったからだ。
小窓の老人も、歩廊の上に出ていた。昨日、窓の曇りを見た老人だ。今日は窓ではなく、小さな紙帯の束を持っている。
「見送りの言葉ですか」
ネジリが聞くと、老人は首を横に振った。
「見送りにしたくなった言葉です」
老人は紙帯を一枚だけ見せた。
`空から見てきて`
それから、すぐ裏へ返した。裏は白い。
「今日は裏を持ってきました」
「裏を?」
「空から見てきて、と言うと、上からなら見えるものを待つ手になります。裏を持っていると、下で待つ手も忘れにくい」
教授は、深くうなずきすぎないよう、少しだけうなずいた。
「よい裏です」
老人は笑った。
「裏をほめられるのは初めてです」
ネジリは、掲示板の下へ小さな札を足した。
`表の言葉と、裏の白さを一緒に持つ`
長い札が、子どもの字の横に並んだ。
子どもはそれを読んで、鉛筆を握り直した。
「じゃあ、ぼくのも裏がいりますか」
「いるかもしれません」
旅人が言うと、子どもは自分の札をそっと裏返さず、もう一枚の白い紙を下に重ねた。
`飛んだら完成`
その下に、白い紙。
完成と言いたくなった手の下敷き。
ネジリは、その置き方をじっと見た。
「書いた言葉を消さないで、白い紙を足す」
「はい」
教授は言った。
「消すと、言いたかった手が消えます。白い紙を足すと、言いたかった手の下に、まだ見られる場所ができます」
格納桟橋へ向かう道は、飛空艇だけへ続いているわけではなかった。
空の荷台。
布をかけた伝声管。
裏の白い紙帯。
乾く前の布。
子どもの札の下敷き。
それらが、出発しない朝の手仕事として歩廊に並んでいる。
旅人は、空を見上げたくなった。
でも、少し待った。
まず、道の手元を見る。
空へ行く朝は、空を見る朝ではある。
けれど、その前に、空へ持っていかれそうな言葉を地上で一度置く朝でもあった。
「飛んだら完成、とは言いません」
「はい」
教授は言った。
「飛んだら、飛んだ、です」
ククルーがうなずく。
「とても正確だね」
旅人たちは、格納桟橋へ向かった。
歩廊の下では、蒸気管が朝の息を吐いている。ギアロートの白い蒸気は、遠くで静かに上がっていた。昨日までより整って見える。
整った。
と言いたくなる。
でも、旅人は言わなかった。
整って見える。
今日はそこまで。
格納桟橋の入口で、飛空艇整備係のシオンが待っていた。
シオンは手に、細い風袋を持っている。袋の口には、昨夜ついた二本の折り目がまだ残っていた。
「おはようございます」
シオンは言った。
「今日の風は、まだ飛べとは言っていません」
ネジリが、少しだけ胸をなでおろした。
「飛ぶな、とも言っていませんか」
「言っていません」
シオンは袋の折り目を見せた。
「横へ流れる場所があるように見えます」
教授は、空用の試し布を低い台へ置いた。
「では、今日は横へ流れる場所を、乗る前に見ます」
格納桟橋の床には、三本の線があった。
見学線。
荷物線。
乗船線。
昨日見た線だ。
けれど、今朝は空気が違う。
今日は、線の向こうに飛空艇がいる。
帆をたたみ、蒸気管を冷まし、船体の下に小さな灯りを残している。飛空艇は眠っているようにも、待っているようにも見えた。
「待っている、と言いたくなります」
旅人が言うと、シオンはうなずいた。
「言いたくなります。けれど、飛空艇の気持ちにはしません」
「飛空艇は」
ネジリが言う。
「待てるように整備する」
シオンが続けた。
「はい」
ネジリは嬉しそうにした。
その嬉しさを、今日は走らせなかった。
シオンは、見学線の手前に低い台を置いた。
「ここで最初の確認をします。持っていくもの、持っていかないもの、まだ決めないもの」
教授は三つの布を出した。
青い布。
灰色の布。
白い布。
青い布には、持っていくもの。
灰色の布には、持っていかないもの。
白い布には、まだ決めないもの。
旅人は、空用の試し布を青い布へ置いた。
待つ針の包みも、青い布へ置く。
空へ持っていかない言葉の袋は、少し迷って、白い布へ置いた。
ネジリが驚いた。
「持っていくのでは」
旅人は袋を見た。
「持っていく。でも、持っていかないものを入れる袋だから、まだ決めない場所に置きたい」
シオンは、すぐに直さなかった。
教授も、うなずくだけだった。
ククルーが小さく言う。
「ややこしい荷物は、白い布が似合うね」
ネジリは、少し考えてから、袋の横に札を置いた。
`持っていくが、持っていったことにしない`
長い。
でも、朝の桟橋に必要な長さだった。
シオンは、三本の線の横に小さな札立てを置いた。
見学線の横には、`見えるだけで決めない`。
荷物線の横には、`持てるだけで使わない`。
乗船線の横には、まだ何もない。
ネジリは、三つ目の空欄を見た。
「乗船線には、何も書かないのですか」
「乗る時の手で書きます」
シオンは答えた。
「乗る前に乗船線の言葉を決めると、線が扉のようになります」
「扉ではないのですか」
「扉にもなります。でも、今日は線です」
旅人は、床の線を見た。
線は、越えるためにあるように見える。
でも、線は、越えないで見られる場所を作ることもできる。
第11巻の四つの丸と同じだ。
丸は入るためだけにあったのではない。丸の外に立つことで、手がどこへ行きたがっているかが見えた。
見学線も、そうなのかもしれない。
「線の手前にも、場所があります」
旅人が言うと、シオンはうなずいた。
「はい。飛空艇では、手前の場所をなくすと、すぐ空のせいにします」
「空のせい」
ネジリが繰り返す。
「風が強かったから。高さがあったから。遠くが見えたから。そう言うと、手前で急いだ手が見えなくなります」
教授は低い台の端に札を置いた。
`手前の手を見る`
ククルーは、その札の横に座った。
「手前は、急ぐ手がいったん座れる場所だね。おやつにも手前があるよ」
ネジリが警戒した顔をする。
「おやつの手前とは」
「食べる前に、ほんとうに今食べたいのかを見る場所だよ」
「それは、だいたい食べたいです」
「だから、見る価値があるんだ」
ネジリは考え込んだ。
シオンは、そのやりとりを聞きながら、飛空艇の下へ目を向けた。船体の下で、小さな整備灯が二回またたく。
「整備灯が、見学線までの確認を求めています」
「灯りが求めるのですか」
ネジリが聞く。
シオンはすぐに首を振った。
「求めているように見えます。正しく言うなら、整備灯が二回またたいたので、私の手が確認したくなりました」
教授は嬉しそうにしすぎない顔でうなずいた。
「よい言い直しです」
シオンは少し照れた。
「飛空艇のそばでは、道具が言ったように聞こえやすいのです」
旅人は、飛空艇の船体を見た。
大きな道具。
大きな道具は、言葉まで大きく聞こえさせる。
だから、言い直す場所がいる。
見学線の手前。
荷物線の手前。
乗船線の手前。
その手前ごとに、言葉を一度小さくする。
シオンは、空白の速度札を出した。
「今日は、速度を決めません」
ネジリが、すぐに顔を上げる。
「まだ決めないのですか」
「はい。けれど、速度札へ最初の言葉を書きます」
空白の札は、風に少し揺れた。
風で飛ばないよう、シオンが小さな重りを置く。
教授は旅人を見た。
「昨日の言葉を、そのまま使ってもいいです」
もう一度見られる場所をなくさない速さ。
旅人は、その言葉を思い出した。
よい言葉だ。
でも、昨日の言葉をそのまま置くと、昨日の答えを持ってきたように見えるかもしれない。
旅人は、少しだけ書き換えた。
`もう一度見られる場所へ戻れる速さ`
シオンは、札を読んだ。
「戻れる、ですね」
「うん。なくさない、より、今日は戻れるを見たい」
教授はうなずいた。
「今日の最初の速度札として、ここに置けると思うよ」
ネジリが息を吸った。
「今日の」
言いかけて、自分で止まった。
研究日誌の外へ出そうになった言葉ではない。
でも、見出しが先に走りそうな言葉だった。
ネジリは言い直した。
「今日の最初の速度札として、よいと思います」
ククルーは目を細めた。
「戻ってきたね」
「はい」
ネジリは胸を張った。
「言葉も、戻れる速さです」
その時、飛空艇の下で、灯りが一つだけ明るくなった。
出発の合図ではない。
整備完了の合図でもない。
シオンはその灯りを見て、風袋を少し上げた。
「見学線の手前で見る準備ができました」
ネジリの足が、ほんの少し前へ出た。
見学線の手前。
まだ越えない。
越えないまま、見る。
旅人は空用の試し布の重りを確かめた。
ククルーは、袋の口を軽く結び直した。
教授は、空白の速度札を低い台へ置いた。
飛空艇は、朝の風の中で静かにいた。
空は、まだ答えではない。
けれど、問いを持って上がれる場所には、少しずつなっていた。




