錆びた甲冑の詩 第11章 錆びた甲冑の詩
甲冑廊の奥は、朝よりも静かだった。
静か、と言っても、音がないわけではない。
銀葉はまだそろわずに鳴っている。硬い葉の音が先に来て、やわらかい葉の音が少し遅れて追いつく。窓の方からは、街の足音ではなく、窓下に残した鈴つきの鍵が風に触れないまま待つ気配だけがあった。
床には、二つ折りの磨かない布が残っている。
何も置かない場所の近く。
そこへ目を向けると、ロウの手が一度だけ動きかけた。拾う手ではない。広げる手でもない。布がそこにあるかを、手の重さで確かめたくなる手だ。
ロウはその手を下ろした。
「残っています」
「はい」
ミラが答える。
鍵束は胸の前にある。鈴つきの鍵が一本抜けた分だけ、音は軽い。軽いのに、今日の鍵束は昨日より重く見えた。
「ここから聞きます」
リンドは甲冑の前に立った。
立った、と言っても、正面の中央ではない。甲冑の胸当てが月光を返す場所から、半歩だけ左へずれている。さっき床に作った白線からも、少し外れている。
「正面に立たないのですか」
ティオが聞いた。
「正面に立つと、聞く前に構えてしまいます」
リンドは答えた。
「今日は、構えないで聞きます」
オルガは筒を横に抱えたまま、甲冑列の間へ目をやった。
「光も上げません」
「はい」
セリカは筆袋を持っている。袋の口は閉じているが、紐は固く結ばれていない。すぐに出せる。けれど出さない。
ティオの銀の輪も袋の中だ。
ロウの磨かない布は床に残っている。
ミラの鈴つきの鍵は窓下にある。
全部、手元にない。
でも、なくなったわけではない。
ククルーは僕の足元を見てから、甲冑を見上げた。
「旅人さん。どこから聞こえそうかな」
僕は甲冑を見た。
面頬の下。
音抜き板を添えた細い場所。
法典横の余白へ置いた読めそうだった線。
窓下の空き。
床の何も置かない場所。
どこか一つを選ぶと、そこが入口になってしまう気がした。
「一つではないと思います」
「では、全部ですか」
「全部でもありません」
自分で言って、少し困った。
全部と言えば、また中央に集めることになる。一つと言えば、入口を決めることになる。
「間から、聞こえそうです」
ククルーは目を細めた。
「間に耳を置いたんだね」
答えをもらった感じはしなかった。耳を置く場所だけを、少し示された気がした。
ミラは甲冑の膝の前へ進んだ。
「私は、鍵を使いません」
誰も聞いていないのに、ミラはそう言った。
「使える鍵はあります。開ける鍵も、閉じる鍵も、開けない場所を示す鍵も。でも、今日は、鍵の手で始めません」
鍵束が、ちゃ、と鳴った。
ミラはそれを止めない。
鳴った音は、甲冑へ届いた。
届いたが、甲冑は開かなかった。
「鳴りました」
ティオが言う。
「開きません」
ミラが答える。
「開くために鳴らしたのではありません」
その言葉のあと、甲冑の内側から、ふ、と低い息が返った。
昨日の息とは違う。
昨日は、配置の間を通っただけだった。
今日の息は、どこかへ戻ろうとしている。けれど、どこへ戻るのかは決めていない。窓へ向かうのか、甲冑の内側へ戻るのか、床の布のそばで休むのか、銀葉の枝へ触れるのか。
まだ、分からない。
セリカの指が筆袋へ触れた。
「書きません」
自分に言うような声だった。
「でも、聞いた順番だけは、忘れそうです」
「忘れてはいけませんか」
ククルーが聞く。
セリカはすぐ答えなかった。
筆袋の紐を、ほどきかけて、ほどかない。
「忘れてはいけない、と思うと、詩を閉じてしまいます」
「では」
「戻れる印だけ、置きます」
セリカは筆を出さず、袋の上から指で三つの点を押した。
鍵の音。
甲冑の息。
まだ行き先を決めない間。
紙には残らない。布にも残らない。けれど、セリカの指の動きだけが、その場に短く残った。
ふ。
甲冑がもう一度息をした。
今度は、息のあとに細い音がある。
ことばではない。
詩でも、まだない。
でも、息だけではない。
「……ま」
誰かが言ったのではない。
甲冑の内側が、そう聞こえそうな形で震えた。
ティオが銀の輪の袋を押さえた。
ロウの肩が少し上がった。
オルガの筒が、横のまま一度だけ鳴った。
「今のは」
ティオが言いかける。
リンドは首を横に振った。
「まだ、言葉にしません」
「でも、聞こえました」
「聞こえたことと、読めたことは違います」
前にも何度も近づいた言葉だった。けれど、今は前より重い。聞こえた音を読まずに置くことが、前より難しい。
聞こえ始めたからだ。
聞こえ始めると、読めたことにしたくなる。
「ま、だけなら」
ロウが言った。
「磨く、にも聞こえます」
自分で言って、ロウは苦い顔をした。
「すみません」
「謝るところではありません」
ミラが言った。
「私は、守る、に聞こえました」
ティオは小さく息をのむ。
「僕は、待つ、に聞こえました」
セリカは首をかしげた。
「前へ、にも近いです」
オルガが言う。
「上へ、ではありませんでした」
それぞれが、自分の手に近い音を聞いている。
それは危ないことかもしれない。
でも、悪いことではない。
僕は影札袋の紐に触れた。出さない。比べない。影の音に似ているかどうかを、ここで決めない。
「僕は、返す、に近いと思いました」
言ってから、すぐ足りないと思った。
返す。
誰へ。
どこへ。
何を。
それを言うと、詩の行き先を決めてしまう。
「返す、だけでは足りません」
僕は続けた。
「でも、閉じたままではない音でした」
ククルーの鈴が、小さく鳴った。
りん。
その音は甲冑の息へ混ざらなかった。少し遅れて、銀葉のそろわない音のあとに立った。
ククルーは何も言わない。
ククルーの言葉でまとめない。
その沈黙が、甲冑の前を広くした。
ミラは一歩下がった。
「窓へ向けます」
「甲冑をですか」
ティオが聞く。
「いいえ。私たちの聞き方を」
ミラは窓の方を見た。
外へ聞かせた窓。窓下には鈴つきの鍵と布端がある。足音の間を待つ空きも、そこに残っている。
「甲冑を動かすと、また正面ができます」
ミラは言った。
「だから、甲冑は動かしません」
リンドはうなずいた。
「窓を大きくもしない」
「はい」
ロウが音抜き板を持ち上げた。
「板を添えますか」
ミラはすぐには答えなかった。
甲冑の面頬下を見て、床の磨かない布を見て、窓下の方を見る。
「添えます。でも、前より短く」
「短く」
「戻り始めた音を、道具の音にしないために」
ロウはうなずいた。
音抜き板を面頬下へ近づける。
押し込まない。
固定しない。
板の縁が月光を受けて、灰白色に光る。
セリカの指が、筆袋の上で止まる。
ティオは銀の輪の袋から手を離した。
オルガは筒を床へ向けず、横に抱えたまま、息を吸う。
リンドは半歩下がった。
僕は、床の磨かない布と窓下の空きを同時に思い出した。
ロウが板を添えた。
すう。
筒ではない。
風でもない。
板の三つの目を、甲冑の内側の息が通った音だった。
ふ、すう、しゃら。
甲冑の息。
板を通る細い音。
銀葉のそろわない音。
三つは、合わない。
でも、ばらばらでもない。
それぞれが、同じものを急がせない距離で聞いている。
「ま……え」
今度は、少しだけ長かった。
まえ。
前へ、に聞こえる。
前、にも聞こえる。
守る前、にも聞こえる。
読む前、にも聞こえる。
僕たちは誰も、声に出して繰り返さなかった。
繰り返すと、言葉になる。
言葉になると、詩の一行にしたくなる。
「前ですか」
ティオが小さく聞いた。
「前だけではありません」
リンドが答える。
「前へ急ぐ音でもない」
ミラが続ける。
「前に立つ場所を探している音です」
その言葉は、答えではなかった。
けれど、甲冑の息が少しやわらいだ。
ロウは板を外した。
短く。
本当に短く。
板が離れると、音は消えなかった。ただ、甲冑の内側へ全部戻らず、廊の空気の中で細く残った。
それが、戻り始める未完成詩音なのだと思った。
戻っている。
でも、戻りきっていない。
詩になり始めている。
でも、詩になりきっていない。
祝福が戻った、と言えるほど明るくない。
閉じたままだ、と言えるほど遠くもない。
僕は息をした。
「これを、外へ聞かせますか」
ミラに聞いたつもりだった。
でも、問いはみんなの間に落ちた。
セリカは筆袋を抱え直す。
「聞かせる、というより」
「はい」
「外にも、聞く場所を残す」
ミラは窓を見る。
「窓下の空きですね」
「はい」
「そこへ音を置いたら、空きではなくなりませんか」
その心配は、僕にもあった。
空きへ音を置く。
何も置かない場所へ、詩を通す。
置いた瞬間、そこは何もない場所ではなくなるのではないか。
ククルーは床を見た。
「置くことと、満たすことは違います」
それだけ言って、黙った。
僕はうなずいた。
「満たさずに、通す」
「できるでしょうか」
ティオが聞く。
「できるかどうかを、今から聞きます」
リンドの声は、試す声ではなかった。
合否をつける声でもない。
聞くための声だった。
ミラは鍵束を鳴らした。
ちゃ。
窓下に置いた鈴つきの鍵は、鳴らなかった。
でも、鳴らないことで、そこにあると分かった。
ロウは床の磨かない布を見た。
広げない。
磨かない。
ただ、残っている布のそばを一歩通る。
セリカは筆袋を持ったまま、窓の方へ歩いた。
ティオは銀の輪を持ったまま、輪を出さずに歩いた。
オルガは筒を横のまま抱え、筒の口を窓へ向けない。
リンドは何も持たず、最後ではなく、みんなの間を歩いた。
僕とククルーは、甲冑の前に残った。
「旅人さん」
ククルーが言った。
「はい」
「今、読みたいかな」
読みたい。
そう思った。
まえ。
返す。
守る。
待つ。
磨く。
どれでもありそうで、どれでも足りない音。
読めば、先へ進める気がする。
この旅の答えに近づける気がする。
「読みたいです」
僕は言った。
「でも、読むと、僕の答えに近くなりすぎます」
ククルーはうなずいた。
「それが分かっているなら、今は聞けるよ」
優しい言い方だった。
でも、甘くはなかった。
聞くには、読みたい気持ちを持ったまま立つ必要がある。読みたい気持ちをなくすことではない。
僕は甲冑の前へ半歩近づいた。
中央ではない。
正面でもない。
でも、逃げた場所でもない。
「もう一度、聞かせてください」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
甲冑に。
詩に。
閉じられていた託宣に。
床の布に。
窓下の空きに。
そろわない銀葉に。
言葉は、どれにも届きすぎないように、低く出た。
甲冑が息をする。
ふ。
少し遅れて、窓の方から、布端が揺れる小さな音がした。
風ではない。
誰かが触れたのでもない。
甲冑の息が、窓下の空きへ届き、そこを満たさずに通った音。
鈴つきの鍵は鳴らない。
鳴らないまま、鍵の近くに音がある。
「……まえに」
今度は、そう聞こえた。
まえに。
前に。
前へ、ではない。
前に立つ。
前に置く。
前に返す。
でも、まだ一行ではない。
ミラが窓のそばで膝をついた。
膝をつくと、祈る姿勢に見える。
ミラはすぐ、片膝を浮かせた。
「座りません」
小さく言う。
「詩を迎える場所にしたくなるから」
ロウは窓の横で立ったまま、手を開いた。
「磨きません」
セリカは筆袋を胸の前に置いた。
「書きません」
ティオは銀の輪を袋の中で休ませた。
「囲いません」
オルガは筒を少し下げた。
「照らしません」
リンドは窓下の空きの外に立った。
「裁きません」
一つずつ、しないことが置かれていく。
しないことばかりだ。
でも、何もしないことではない。
詩が通る前に、誰の手も先に詩の名前を取らないための、しないこと。
甲冑の内側から、低い音が返る。
「まえに、かえす」
今度は、みんなが聞いた。
誰も繰り返さなかった。
繰り返さないことで、音はまだみんなの外にあった。
僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
正しさは、前に立つものだと思っていた。
誰かの前に立って、守る。
誰かの前に立って、照らす。
誰かの前に立って、間違いを遠ざける。
でも、今聞こえた音は、前に立つことを命じていない。
前に返す。
誰かの前へ、答えを置くのではない。
誰かが自分で聞ける前に、場所を返す。
「正しさは」
言いかけて、止めた。
標語にしたくなる。
法典の読み場からずっと近くにあった言葉を、ここで言えば、全部をまとめられる気がした。
でも、まとめたら、詩が狭くなる。
ククルーが僕を見上げている。
待っている。
助け船を出さない。
僕は言い直した。
「窓を、閉じないでおきたいです」
ミラがこちらを見た。
「開けたままにするのですか」
「見張らずに」
リンドの表情が少し動いた。
法典が、開いたまま見張らないものになった時と似た顔だった。
「見張らずに、開けておく」
ミラはゆっくり言った。
「怖いです」
「はい」
僕はうなずいた。
「でも、閉じて守るより、聞ける気がします」
ミラは鍵束を見た。
鍵を使えば、窓を閉じられる。
鍵を使えば、誰かが詩を美しい話にする前に、内側へ戻せる。
でも、それでは戻る音が戻る場所を失う。
「鍵は」
ミラは言った。
「窓を閉じるためではなく、閉じたくなった時に見るために持ちます」
鍵束が、ちゃ、と鳴った。
窓下の鈴つきの鍵は、やはり鳴らない。
でも、鈴が鳴らないことが、今は返事のようだった。
ロウは床の方へ戻り、二つ折りの磨かない布の手前で止まった。
「布は、ここに残します」
「次に歩く時までですか」
ティオが聞きかけ、すぐ口を押さえた。
ロウは少し笑った。
「はい。次に歩く時まで」
セリカも微笑んだ。
「問い札は持っていきます」
「残さないのですか」
「残すと、問い札がこの場所の答えになりそうです」
ティオはうなずいた。
「輪も持ちます」
オルガは筒を抱え直す。
「筒も」
ミラは鍵束を持つ。
リンドは何も持たない。
僕は影札袋の紐から手を離した。
詩は戻り始めた。
でも、影札はまだ出さない。
忘却の影が何だったのか、今日で全部分かったことにしない。
甲冑の内側に閉じられていた託宣は、外へ返り始めた。
でも、影札も、胸の奥の知らない空白も、ククルーの鈴の奥にある遠い音も、今日は名前を持たない。
今決まったのは、ただ一つ。
閉じたまま守るより、聞ける前を返すこと。
「まえに、かえす」
音はもう一度だけ戻った。
今度は、甲冑の内側だけではなかった。
窓下の空き。
床の磨かない布。
銀葉のそろわない枝。
三つが同じ一行にはならず、それぞれ少し違う遅さで、音を返した。
しゃら。
硬い葉が鳴る。
そのあと、やわらかい葉が遅れて鳴る。
全部はそろわない。
そろわないまま、聞こえる。
僕はその音が好きだと思った。
そろっていないから、不安も残る。
でも、そろっていないから、誰か一人の答えにならない。
ミラは窓下から戻ってきた。
「甲冑の詩を、外へ返し始めます」
その言い方は、宣言ではなかった。
作業を始める前の、手元の確認だった。
ロウは床の布を見た。広げないまま、手を下ろす。
セリカは筆袋を閉じたまま、袋の上へ指を置いた。
ティオは銀の輪の袋を押さえず、腰の横で休ませる。
オルガは筒を上げず、横の重さを腕で受けた。
リンドは何も持たない手を、窓下の空きの外へ置いた。
ククルーが最後に、僕を見る。
僕は答えを探した。
読まずに。
決めずに。
でも、逃げずに。
「聞ける前を、返すために」
そう言うと、ククルーは小さくうなずいた。
「それで、歩けるよ」
甲冑廊の奥の月光が、少しだけ広がった。
広がったと言っても、廊を明るくしたわけではない。影が消えたわけでもない。錆がきれいになったわけでもない。
ただ、甲冑の胸当てに映っていた細い白が、窓下の空きと床の布の方へ、別々の線として伸びた。
一本の道にはならない。
でも、戻れる線が三つある。
ミラは鍵束を鳴らさず、甲冑の横に立った。
ロウは板を片づけず、立てかけもしない。床へ寝かせ、三つの目が上を向かないように斜めへ置いた。
セリカは筆袋を開けず、袋の上から三つの点をもう一度押した。
ティオは銀の輪の袋を腰の横へ戻す。
オルガは筒を横のまま肩にかけず、腕で抱えた。
リンドは何も持たず、甲冑へ深く頭を下げなかった。礼をしないのではない。礼の形で、甲冑をきれいな記念にしないためだった。
僕も頭を下げなかった。
代わりに、半歩だけ横へずれた。
甲冑の前を、一人ぶん空ける。
そこへ誰かが立つわけではない。
詩が立つわけでもない。
聞ける前だけが、そこに戻る。
「次は、送るものを選びます」
リンドが言った。
ただ、遠くに古い灯のような色がある気がした。
黄昏色。
何かの縁。
過去へ戻りたくなる手。
まだ、どれも見えていない。
「保存する場所へ、ですか」
オルガが聞く。
リンドはすぐには答えなかった。
「その前の場所へ」
リンドは言った。
「この誇りを、閉じないまま送る準備をします」
ミラは鍵束を握り直した。
「保存すると、閉じたくなります」
「だから、次はその怖さを見るんだ」
ククルーが言った。
「保存は、閉じることと同じじゃないからね」
その声には、どこか遠い響きがあった。
ククルー自身も、何かを保存したかったことがあるのかもしれない。
でも、今は聞かない。
ククルーの鈴はいつもの音だった。けれど、今の響きだけは忘れないでおこうと思った。
甲冑の内側から、最後に小さく音がした。
「まえに」
それだけだった。
返す、までは聞こえない。
足りない。
でも、足りないまま、詩は外へ向き始めている。
僕たちは窓下へ戻った。
鈴つきの鍵は右端にある。
隣を見る布端は反対側にある。
その間の空きは、まだ空きのままだ。
ミラは鍵を拾わなかった。
セリカは布端を拾わなかった。
ロウは床の布を拾わなかった。
残したものが増えた。
でも、置きすぎた感じはしない。
それぞれが違う場所で、違う待ち方をしているからだ。
窓の外で、誰かの足音が一つ通った。
止まらない。
振り返らない。
でも、前より少しだけ、間が長い。
僕たちはその間を聞いた。
詩が街へ届いた証拠にはしない。
でも、届かなかったことにもしない。
ククルーが窓の縁へ前足を置いた。
「旅人さん」
「はい」
「今日は、よく読まないでいられました」
僕は笑いそうになった。
読まないでいられたことを、こんなふうに言われる日が来るとは思わなかった。
「読めたら、もっと楽でした」
「楽な日は、また別にあります」
「今日は違いますか」
「今日は、戻り始めた音を、戻りきらせない日だよ」
ククルーはそう言って、窓下の空きを見た。
「それだけで、今日は忙しい日だね」
十分、忙しい。
その言葉が、低い詩音のそばで少しだけ温かく聞こえた。
ミラは窓の外を見たまま、鍵束をもう一度胸の前へ戻した。
「保存する場所へ送るなら、きれいに畳みたくなります」
「畳むと、持ちやすいですから」
セリカが答えた。
「持ちやすいものは、説明しやすいですね」
ロウも言う。
「説明しやすいものは、磨きやすい」
ティオは銀の輪の袋を見た。
「囲いやすい」
オルガは筒の口を手のひらで軽く押さえた。
「光らせやすい」
リンドは少しだけ目を伏せた。
「裁きやすい」
みんなの声が、一つずつ窓下へ置かれた。
どれも悪い手ではない。
でも、保存する場所へ行く前に、その手が先へ出ると、詩はまた閉じるかもしれない。
「それじゃ、送る前に、ほどかずに持つ時間を作ろう」
ククルーが言った。
「ほどかずに、かな」
「はい。閉じたまま持つのではなく、ほどききらずに持つ」
その違いは、すぐには分からなかった。
でも、床に残った二つ折りの布を見ると、少しだけ分かる気がした。布は広げられていない。けれど、結ばれてもいない。磨く面も聞く面も上にしていない。ただ、次に手が出る前に、手の速さを見せている。
「切符も、そういうものかもしれません」
言ってから、僕は自分の声に驚いた。
切符。
どこから出てきた言葉なのか分からない。
それを使う場所も知らない。行き先も知らない。けれど、遠い黄昏色の縁だけが、詩の音の向こうに見えた気がした。
ククルーの鈴が、り、と鳴りかけて、鳴りきらなかった。
「今は、まだ持たないでおこう」
ククルーは言った。
「見えた気がするものを、すぐ持つと、手が先に旅を始めるからね」
僕はうなずいた。
切符は、まだない。
でも、切符の前に置くべきものがある。
閉じない誇り。
戻りきらない詩音。
保存したくなる手。
その三つを、同じ袋へ入れないこと。
甲冑廊の奥から、未完成の音がまだ続いている。
まえに。
まえに。
返す、までは言わない。
でも、返す前の場所はできた。
僕たちは、窓を閉じなかった。




