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第9話『ありがとう』


「これはもう全て、貴女の物です。闇の神子様。何一つ返す必要はありませんし、汚そうが破こうが貴女の自由です」


 帰りの馬車の中で、レオンハルトはノワールにそう言った。

 とてもじゃないがドレス代を返すことは出来ないと、精一杯に伝えたノワールに対する返事だった。


(私の、もの……?)


 ノワールは何度も頭の中でレオンの言葉を反芻するが、上手く理解出来ないでいた。

 今まで自分の所有物といえば、いつ折れてもおかしくない古びたブラシや、闇の神子としての務めを果たすための喪服のように黒いドレスだけだ。そのドレスだって、黒いから目立ちはしないだけで、あちこちがほつれてしまっている。

 

 ノワールは自分の姿を見下ろした。この短時間でもう何度目になるか分からない。

 身に纏うどころか、触れることを夢見ることすら烏滸がましい、上質なドレス。店員がいつの間に香水を吹き付けていたのか、花の香りも纏っている。

 繰り返し確認するように馬車の窓へと視線を向ければ、人形が纏うような衣装に身を包んだノワールの姿が映っていた。


 「うむ、やはり良くなった」


 屋敷の執務室で出迎えてくれたヴィクトリアの第一声はそれだった。

 相変わらずの書類の山に埋もれたまま、満足げに頷いている。


「残りの服は後ほど纏めて届く予定です。採寸も終えたので、新たに誂えた物もそのうち届くでしょう」

 

「そうか、よくやった」


 姉弟の間でそんな会話が交わされる中、ノワールは一人うるさく鳴る心臓を押さえていた。


(い、言わなきゃ……今、言わなきゃ……!)


 何度か口を開き、何も言えないまま閉じる。

 首筋に汗が伝いそうなほどに、ノワールは緊張していた。

 その様子に気付いたヴィクトリアもレオンハルトも、言葉を待つようにノワールへと視線を向けていた。俯いてしまっているノワールだけは、気付いてはいなかったが。

 やがて。


「あ、の……あっ……ありがとう、ございます……」


 緊張に頬を染め、必死に絞り出した声でノワールはそう伝えた。最後の声はほとんど聞こえないほどに小さくなってしまっていたが。


「ああ」


 そう短く答えるヴィクトリアの唇は、やはり満足げに弧を描いていた。


 その後、ノワールとレオンをソファに座らせたヴィクトリアは、一枚の書類を眺めながら口を開いた。


「レオンハルト。お前には、闇の神子ノワールを妻に迎えてもらう」

 

「は?」

 

「えっ」


 唐突な提案、いや命令だった。

 ノワールはもちろん、レオンも揃って目を丸くしている。


「幸い王子殿下は、自ら婚約を破棄すると公衆の面前で宣言してくださった。証文こそ無いが、証人はこの都にいくらでもいる。つまりノワールに今、婚約者はいない。その座は空いている」

 

「……姉上、さすがに突飛すぎます」

 

「なんだ、他に想う相手でもいるのか?」

 

「そういうわけでは……」


 そう何度か言葉を交わした後、レオンは訝しむように僅かに眉根を寄せる。


「――まさか、本気ですか?」

 

「当然だ。ヴァレンシュタイン家の長男ともあろうものが、家の定めた結婚を拒むなどということはなかろう?」

 

「義務の話をするのであれば、それは当然です。が……」


 レオンはちらりとノワールへと視線を向ける。

 そこにはまた顔を真っ青にしてしまったノワールがいた。

 

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