最終話『私の望み』
「いよいよ明日だな。気分はどうだ? ノワール。まあ、嫌になったらいつでも王室へ来るといい。私はいつでも歓迎しよう」
「変なことを言わないでください、姉上」
それはヴァレンシュタイン家の朝食の風景だった。
ヴァレンシュタイン家当主となったレオンハルトと、その妻となるノワールの結婚式を明日に控え、屋敷は大変に騒がしかった。
使用人達は忙しなく屋敷中を行き交っているが、食卓だけはいつもと変わらぬ落ち着きだ。
今は次期国王の婚約者となったヴィクトリアが、王都から遥々ヴァレンシュタイン領まで帰ってきていることを含めれば、いつもより少しだけ賑やかな食卓だった。
その隣には第一王子アルベルト・オブスキアの姿もある。
「レオンハルト君は頼れる男だ。まさかノワール嬢を不幸になどさせないだろう」
「……さりげなくプレッシャーを掛けてくるのも、お止めください。殿下」
小さく溜息を零すレオンハルトの隣で、ノワールはクスクスと笑っていた。
「大丈夫です、お姉様。アルベルト殿下。レオンさんは、もう既に私を幸せにしてくれた方です。そして、それはこれからもきっと変わりません」
そう言いながら、綺麗に料理を口に運ぶ所作は、公爵夫人と呼ばれる日を直前に控えた立派な淑女のものだった。
全てに怯え、辿々しくしか話せなかった、ボロボロの少女の姿は、もうどこにも無い。
「君が一番プレッシャーを掛けてくるじゃないか」
「…………?」
首を傾げるノワールの隣でレオンは苦笑する。
だが、否定するつもりは更々無い。
やがて食事を終えて、皆で席を立つ。
差し出されたレオンの手を取ろうとしたノワールを、ヴィクトリアが呼び止めた。
振り返ったノワールの頬に両手を添えて、真っ直ぐに視線を合わせる。
「ああ、本当に美しくなった。我が家に来た時のお前は、もっと小さく、拾われた黒猫のように縮こまっていた気がするが。まるで、我が子の成長を見ているような気分だ」
そう言って、ヴィクトリアの金の瞳が柔らかく微笑んだ。
指で撫でる白い頬はあの時のように痩けてはいないし、怯えて目を合わせることも出来なかった瞳は、今はしっかりとヴィクトリアの姿を映している。
ノワールはヴィクトリアの背中へと腕を回し、力を込めて抱き締めた。
「お姉様が私を助けてくださったあの日を、誓って、生涯忘れません。本当に、ありがとうございます」
「ああ、幸せになれ。ノワール」
ヴィクトリアもノワールを抱き締め、そしてその腕を離した。
「あまりくっつくとレオンハルトが妬くからな」
と。冗談を残して。
「君達は気が早いな。そういうことは、明日やったら良いじゃないか」
「明日は我先にとノワールを囲みたがる奴らが居るだろうさ。私だけが独占する訳にはいかなくなる」
そんな会話を背に、レオンに手を引かれ食堂を後にする。
行き着く先はレオンハルトの部屋だった。最近のノワールは用が無くともレオンの部屋を訪れ、時間を共にすることが多くなった。
それは読書に費やされたり、何気ない会話ばかり繰り返したりと様々だったが。
「姉上達にはああ言ったが、俺は君を幸せに出来ているだろうか」
エスコートのために組んだ腕を解きながらのレオンの言葉に、ノワールは目を瞬かせる。
「別に、不安に思っているわけではない。だが、君は例え不満があろうとも、きっと俺に隠すだろう。望むものを聞いても、いつも『ありません』とだけ答えるし」
確かに、そのやり取りは記憶にあった。
だが、事実ノワールはドレスや装飾品の類にあまり興味は無かった。必要な時に新たに誂えているだけだ。
気になった本や、刺繍に必要な道具を、自分なりに都度ねだってはいたつもりだが。
少しだけ考える素振りを挟んで、ノワールは口を開く。
「では……一つ、望んでも良いでしょうか?」
「何だ? 何でも言ってくれ」
珍しいノワールの言葉に、レオンは間を置かずに頷く。
ノワールは気恥ずかしそうに僅かに視線を逸らし、自ら顎を上げる。
「口付けを……して、ください」
「――全く、俺の妻はこれだから困る」
余りに珍しいノワールの望みに一瞬目を丸くしたレオンは、すぐに口元に笑みを描き、ノワールへと口付ける。
ノワールは照れくさそうに微笑む。
「接吻にも、随分と慣れたじゃないか。あんなに毎回、耳まで真っ赤にしていたのに」
「ええ。式は明日です。皆様の前で真っ赤になるわけには、いきませんもの」
いつかにした会話を思い出し、互いに笑う。
明日、夫となる腕の中で微笑む少女の姿は、誰より幸せに見えた。
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