第32話『北へ』
「よく眠れたか、ノワール」
「はい」
「ふむ……」
朝、ヴィクトリアはノワールにぐっと顔を近付けて問う。
あれだけはっきりと刻まれていたクマはもうどこにも無く、心なしか肌艶も良い。
そして、薄くではあるがその唇に笑みの形さえ作っている。
返事一つするのに震えていた少女の姿はもうそこに無かった。
と、そのノワールの肩を抱えるようにして、レオンがノワールを一歩下がらせる。
「近すぎます、姉上」
呆れるような溜息混じりに告げるレオンに、ヴィクトリアは目を丸くする。
「なんだ、嫉妬かレオン。珍しいな」
「……まさか。何を言い出すんだか」
ふいと顔を背けるレオン。ノワールは使用人に呼ばれそちらへと行ってしまう。
その二人の姿に物珍しい視線を投げ、ヴィクトリアは茶化すように笑う。
「自然に肩を抱くようになったじゃないか。女との接触などエスコートが精々だったお前が」
「茶化さないでください」
「なに、政略的なものとはいえ婚約しているのだ。仲は良いに越したことはない」
機嫌も良さそうに笑い、レオンの肩を軽く叩いて去っていくヴィクトリア。
その背中を苦々しい表情で眺め、レオンはやり場もなく指先で首を掻いた。
今日は王都にあるこの邸宅を発ち、北部に位置するヴァレンシュタイン領へと旅立つ日だ。
使用人は皆、ノワールに別れの挨拶をしてくれる。
ノワールにとってはヴィクトリア、レオンハルトと同じように受け入れてくれた者達だ。挨拶をして回る度、涙が滲む。
ノワールは一人ひとりに深く頭を下げた。目一杯の感謝が伝わるようにと祈りながら。
やがて馬車はノワールを乗せて動き出す。見送ってくれる使用人たちの姿が見えなくなるまで、ノワールはずっと窓に張り付いていた。
しかしすぐに馬車は屋敷を離れ、見知らぬ風景の中を走る。
馬車は二台に分けられた。
一台にはヴィクトリアと、北の領地から共に来ていた使用人が二人。使用人達は、馬車の中でも仕事を続けるヴィクトリアの補佐をしているようだった。
もう一台にレオンとノワール。それに旅に必要な荷物が積まれている。
その周囲を数人の騎士が馬に乗って護衛をしていた。
レオン曰く、公爵家が移動するにしてはこれでもかなり身軽な人数なのだという。
「本来、俺や姉上に護衛など不要だ。魔法の力がある以上、俺達の方がどうやったって強いのだから」
と、事もなさげに言っていた。
ノワールは、ずっと窓の外を見ていた。
映る景色全てが初めてで、どれだけ眺めていても全く飽きない。にぎやかな王都の風景はすぐに消え去り、やがて緑が多くのどかな風景へと変わっていく。
その中でノワールは、人知れず困惑していた。
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