第39話 エレンスト先生、ベアトリス現象について語る。
冷却魔法と、ベアトリスという現象
魔導薬学研究室に籍を置いて、どれほどの年月が経っただろうか。
研究とは静謐で、孤独で、時に人間の限界に挑み続けるものであると、かつての私は信じて疑わなかった。感情の起伏など必要ない。ただ淡々と、日々を繰り返すことで進歩は成されるのだと。
だが、それは——ある少女が研究室に現れるまでの話だ。
ベアトリス・ローデリア。
王立学術院で“破天荒な優等生”として知られる彼女が、私の元に助手として配属されたとき、正直に言えば眉を顰めた。彼女の論文は時に奔放すぎ、理論よりも直感に寄りすぎているように思えたからだ。学術の場において、それは危うさでもある。
だが、数か月が過ぎる頃には、その考えも少しずつ変わっていった。
彼女は、常に私の予想の斜め上を行く。
たとえば“氷の菓子”——アイスクリームなどという、くだらない甘味の研究。最初にその提案を受けたとき、私は本気で時間の無駄だと思った。だが、彼女は真剣だった。ただの遊び心ではなく、冷却魔法の持続性に注目し、それを実験し、理論に昇華させてみせた。
魔法陣の組み立て、温度推移の制御、冷却媒体の選定。それらすべてが“美味しいものを作りたい”という動機から導き出されたものでありながら、そこには確かに、応用魔導科学としての価値があった。ベアトリスは、純粋な好奇心と研究者の情熱を、見事に両立させている。
彼女はいつも、学術の枠を越えている。
それは決して「軽さ」ではない。真面目一辺倒では見逃してしまうような、“人のための魔法”という観点。私が失いかけていた“なぜ研究するのか”という問いの根源に、彼女は常に寄り添っているのだ。
記憶を失い、結晶に囚われていた間、私は多くのものを失った。それでも再びこの世界と向き合う勇気を得られたのは、彼女の存在あってこそだった。
……いや、彼女だけではない。今の私は、かつてよりも多くの人と繋がりを持った。だが、その中でも特に強く、深く、私の時間に刻まれた存在。それが、ベアトリスという現象だった。
氷を操る魔法の中で、彼女の言葉と笑顔は、いつもどこか温かい。
たとえば、冷却術式の実験中。魔導鍋を覗き込んで「うまくいってる……」と小さく呟いたあの声。子どものようにはしゃぐ表情の裏にあった、緻密な計算と集中。どれほど突飛な提案をしても、彼女はその根底に“理”を通している。それが、私にはとても眩しく見えた。
かつて私は“研究者とは孤独な道”と信じていた。だが、彼女と日々を過ごすうちに、その信念すら揺らいでいる。助手としてではなく、対等な研究者として、あるいは……。
——いや、それ以上の存在として。
そう考えてしまう自分が、時折、いるのだ。
彼女は気づいていないだろう。だが私は、ふとしたときに思うのだ。もし、彼女が私の元を去る日が来たら、自分は平静を保てるだろうかと。
今、研究室の窓辺には初夏の陽光が差し込んでいる。静かな時間が流れ、かすかにバニラの香りが残っている。
彼女が手にしていた“魔導冷菓”は、学院内で話題になりつつある。私たちの研究が、こうした形で世に受け入れられることに、私は奇妙な誇らしさを覚えている。ベアトリスの名が、学術院ではなく、子どもたちの間でさえ語られることに、なぜか胸が温かくなるのだ。
……冷たい魔法で生まれた甘味に、確かにぬくもりが宿っている。
ベアトリス・ローデリア。彼女の名が示すその存在は、私にとって「再び歩き出す理由」なのかもしれない。
孤独な研究者が、ふと足を止めた先で出会った、ひと匙の魔法。
彼女が振り返って笑うたびに、私は思い出す。
この世界には、まだ知らない可能性がいくらでもあるのだと。
そして、それを共に見つける者がいるのだと。




