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ネリーのいない空  作者: 武良 保紀
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連載第十二回

   40

 いよいよ、受験シーズンがやって来た。と言っても、山本くんは地元の薬科大への進学を推薦で決めてしまってたし、外にも推薦入試組は何人か既に進路を決めてた。

 僕が目指してた大学の2つの学部なんかが結局それの先陣を切ったってことになってしまっているが、アドミッション・オフィス入試、略してAO入試と言われるあれだ。これがその後やたらと盛んになってないか? その大学によると「画一的な勉強をした生徒だけではなく、独創的な活動に励んだ学生も入学させることで、多様な学生を集めて学内のダイバーシティを実現する」というようなことだった。このダイバーシティという言葉は、学生の頭数確保にあたって大学人にとって実に都合のいい言葉だ。本来「多様性」とかそんな意味であって、なるほどいろんな出自のいろんな人と出会うことは一見いいことみたいに思えるが、それって要するに「学力の確かな普通の学生より、学力の不確かな変な学生を採る」ってことじゃないか。

 AO入試は、別名「自己推薦入試」とも言われる。僕が目指していた2つの学部を作った先生は実は日本でもかなり有名な人で、心から「金太郎飴じゃない学生が欲しい」と思ってこの学部を作ったんだと思う。だから入試も変わった入試にしたし、推薦枠やAO枠を大きく取ったし、留学生や帰国子女の受け入れも積極的に行った。だけど結局、変な連中が変であるというそれだけを売りに入学してくる結果になってしまって、早々に幻滅したんではないかと僕は思ってる。と言うのも、苦労して作ったはずのこの2学部をあっさりほっぽり出して、この先生は無名大学の学長に転職してしまったからだ。

 当時からAO入試の合格基準が定かでないことには危惧の声もあったんだが、若者が減って大学という産業の市場が小さくなり、とにかく顧客獲得したい大学はこのAO入試を言い訳にして変な連中を採ってるよね。誰が言ったがAho OK入試の略がAO入試だそうだが、そこまで言われるまでになってしまった。この2学部を作った先生はいまどんな思いだろうか。

 こういう大学の劣化は、目立たない形ではあるが大学入試競争が空前絶後の熾烈さを誇った僕らの時期に間違いなく始まってる。帰国子女枠だ女子学生枠だと言って「ダイバーシティ」を錦の御旗に「変な学生の皆様お越し下さい」と「客引き」するのは私立大学では名門でも既に始まっていたし、割と残念な大学では「一芸入試」と銘打って自分の特技をアピールして面白かったら合格ということを始めてもいた。この制度でその大学に入学した人の中には、それから間もなくダジャレ芸人として少しだけ人気が出た人もいた。入試の時にもこれをやったんだそうで、ダジャレで大学入学を許された世界でも数少ない人間だろう。

 僕らは男子であり小中高と進学してきた普通の高校生で課外活動も何もやっていないから、要はどの大学を受けるにも正面突破以外の戦法はなかった。僕のクラスメイトには国公立の受験者はいなかった。このころの国公立に受かるには5教科が満遍なくできる必要があったがそんな生徒はいなかったし、高校が掲げたゴールもゴールドクラスの生徒は国公立、シルバーの生徒は私大トップだった。サックスの彼がもう少し精神的に図太かったら、芸術大学受験生としてクラス唯一の国公立受験生になったかも知れない。それを思うと少し残念だ。

 入試の時期には長期の休みがあった。僕は志望校のほとんどが遠隔地だったから、長期間そこにとどまって受験した。唯一の地元大学を受験するのも、遠隔地入試制度を使い移動を避けた。と言っても試験会場は1カ所にお尻を落ち着けて行き来できるほど近くなかったから、親の知り合いのところを渡り歩いた。遠隔地への行き帰りには新幹線は使わずに夜行バスを使った。

 何度か話したようにこのころは私立の総合大学は郊外に広大な土地を買ってキャンパスを開くのがトレンドだった。僕の第1志望大学も、学部別に3カ所のキャンパスを持っている。僕の志望しているところが一番都心から離れているわけだが、試験は交通の便がいいところというのが最優先であり広い土地は必要ないから、3カ所の中でも一番多くの学部が集まっているキャンパスで全学部の試験が行われた。帰りには大群衆が正門に、そこから駅に殺到することになるから、そこの学生が門を開いたり閉めたりして一定量づつを放出するようにコントロールしていた。それだけじゃ待たされる受験生がストレスを溜めるから、という理由だろうか、ボロボロの服を着て無精ヒゲを蓄えたお兄さんが門柱の上に立って、受験生のリクエストに応えて歌を歌ったり芸を披露したりしてくれた。これがお坊ちゃま校だって? いや、なかなかいい感じに汚い学生がいるじゃないか。僕はこの大学がますます好きになった。

 予備校の模試では「英語しか出してない扱い」の大学の話はしたけど、そこの受験は逆にトラウマになった。前日に場所の確認をするために現地まで出向いたが、正門前のバス停に降りても奥に続く道路とその両サイドに立つポプラ並木しか見えない。そこから延々と奥の方に歩いて行くと、広大な土地に小さな建物群がかなりスペースを措いて配置されたキャンパスが見えてきた。夕暮れ時で寒くてほとんど人がいないという風景は僕には廃墟に見えてしまった。授業とか入試の時とかは、バスがその建物群の真ん中に設けられたバスロータリーまで入ってきているようだが、入試前日は何もないので門前でバスを降りるしかなかったわけだ。

 旧帝大も似たような制度を取っているらしいが、この大学も入試時点で学部は決めない。1回生2回生の間に幅広い学問の基礎を勉強して、その中で本人の希望と成績により3回生から専門を決める。だから入試は全受験生が同時で同じ試験、同時に来て同時に帰ることになる。

 そして問題の試験なんだが、とにかく英語の試験に度肝を抜かれた。問題冊子を開かずに30分ほどの英語による説明を聞く。何についての説明とかヒントは一切ない。そして指示があったら問題冊子を開くんだが、家の間取り図が書いてあって事前に聞いた説明に則ってその家の中の様子に関する英語の質問に答えるという内容だ。

 全受験生に同じ問題を出して、大学の個性を考慮せずに合格可能性を出すという予備校の模擬試験が意味を持たないことを、僕はこのとき腹の底から実感した。共通点は「英語の試験」であると名乗っている、それだけじゃないか。こんな問題の解き方習ったこともない。当てずっぽうで解答用紙を埋めつつ、僕はただ「早く帰りたい」と考えていた。だから帰りはキャンパス内のロータリーまで来るバスに順番を待って乗るのもイヤで、門前のバス停まで出てそこから一番近い駅まで行くバスに乗って帰った。2度と受けるものか、そう思った。

 夜行バスのカーテンをめくって遠くなっていく景色を見ながら、僕はそういう諸々のことがあったそれまでの数日間、これまでの人生で一番たくさんのテストを受けた数日間を思い返した。入試か。これで終わってくれればいいけどな。僕はそう思いながら、狭苦しい夜行バスのシートのリクライニングを倒して目を閉じた。


41

 それから1週間ほどの間に、僕の元には数枚の不合格通知と、1通の「補欠」合格通知が届いた。補欠合格通知を送ってきたのは、僕が一番行きたい2学部のうちのひとつだ。この学部は「補欠」とだけ通知し、合格への繰り入れは個別に郵送通知していた。一応、繰上合格人数を発表する自動音声案内の電話サービスをやってはいたけど、自分が上位何番目なのかわからないと目安にもならない。

 僕はやっぱり予備校による模擬試験の限界を感じていたんだが、模試はその学部に行きたい人だけで成績上位者を出す。だけど、現実の入試は「上位大学の滑り止め」として受験する大量の受験者がいる。この学部は当時日本でも一番「熱い」学部で、東大の滑り止めとも言われていたから、優秀な受験者がいっぱい集まっていた。予備校の模擬試験で「この大学には行ける」と占われた大学より、実際に入れるのは2枚3枚下の大学だと思っておいた方が良さそうだ。早く言えば、僕はそういう人たちに押し出される形で「補欠者」以上の立場は得られなかったということだ。

 直前の政治経済詰め込みは、別に悪くなかったと思う。だけど、他の大学から届いたのは全部不合格通知だったわけで、つまり僕はどこにも受かれなかったわけだ。

 久しぶりに登校すると、大学名でハッタリかまし合ってた文系友達は全員少々ハイな状態だった。顔を合わせて「どうだった?」と元気よく質問すると「全滅だよぉ~~~~~ん!!!」みたいな若干無理とも言えるテンションでお互いに自嘲し合った。そのあと担任がやって来て、今年の入試は進学クラス創設以来と言えるぐらいの厳しい結果だったことを報告した。

 なぜだかわからないが、僕には高校の卒業式の記憶がほとんど残ってない。はっきり覚えているのは、山本くんが、みんなが入試に悲鳴を上げている間にゆうゆうと教習所に通って免許を取得してて、学校には内緒だったが卒業式には車で通学していたことだ。学校の近くのコインパーキングに車を入れて、体育館で行われた学年全員での卒業式のあとにクラスに戻った際、免許を見せてくれた。そして帰りには、みんなでそのパーキングまで行って車を見せてもらった。ファーストカーとしては贅沢なぐらいの黒いスポーツカーだ。カッコつけるためにスポーツカーを持つのなら赤、という僕の勝手なイメージがあったが、黒にしたところに山本くんらしさを感じた。その車に乗り込み、颯爽と去って行った、この下りだけはいまでも鮮明に思い描ける。というか、むしろだんだんハッキリしてきている気すらするぐらいだ。

「ええなあ……」

 去って行く車を見ながら、誰ともなしにつぶやいた。そのあとはしばらく誰も何も言わなかったような気がする。誰か何か言ったが聞こえなかったのかも知れない。何が「ええ」のか、早々と進路を決めたことか、スポーツカーという贅沢品のオーナーに早くもなったことか、誰も何も言わなかった。誰もそれを説明しなかったが、多分全員同じことを考えていたと思う。

 山本くんの黒いスポーツカーにいつまでも魅了されて呆けているわけにはいかない。僕ら文系グループは予備校への入学手続きを取った。僕ら文系ズのほとんどは、なんだかんだでターミナル駅近くにある同じ予備校に通うことになった。最大手だからクラスのほとんどがそこの主催する模擬試験の受験は経験していたし、場所的にもベストと言える場所にあった。他には個人でやっている大学受験塾みたいなものなどもあったりしたが、僕にはもうそういうものはトラウマでしかない。二度と関わるまいと心に決めていた。

 予備校にも二種類あることをご存じだろうか。ひとつは法律上もちゃんと「学校」である予備校。もうひとつは、法的な根拠はなく位置づけとしては「私的勉強会」でしかない予備校。

 法律上の学校であるためには自前の土地と建物を持ち、その他法律に則って運営する必要がある。入試競争の熾烈化で巨大産業となった予備校という商売は、学校法人格を取得したところによって牽引されていた。利点は、通学定期や学割も使えたこと。法律上も教育機関だから、税金も安くなって受講料を抑えられたこと。欠点は、自前の校舎を持たなければ開校できない制約で、大都市の真ん中に校舎を構えるという形でしか全国展開できなかったことだと思う。

 僕らの時代がまさに転換期だったと思うんだけど、このころ「名物講師」を次々に輩出して急成長を遂げていた予備校があった。この予備校が、大手では初めて「学校じゃない予備校」として成功したと思う。半ばタレント的存在として講師をプロデュースしてその講師と予備校名をとにかく売る。そして全国の支部校にその講師の授業を衛星中継を使って流す。この衛星中継というのがポイントだ。このころ既に、こういう情報通信技術を使えば、講師と受講生を物理的に同じ部屋に入れる必要はなくなっていた。だから、校舎を自前で用意しなければいけないというのは予備校という産業にあっては逆に経営上の制約になりかけてたわけだ。

 もっとも、この業界なんていつでも変革の波に呑まれているんじゃないか。僕らが予備校生になるまでに起こっていた大きな変化は、こういう6・3・3・4外の教育機関で、勉強を教えること、受講生の勉強の進捗状況を把握すること、質問に答えることの分業だったと思う。

 僕らの通う予備校もそう、というより先陣を切っていた予備校だと言ってもいいかもしれない。授業を受け持つのは、予備校の正規従業員ではない。講義を行うためだけに、年俸制みたいな形で予備校と契約している。いわばその予備校の生徒にならないとライブ会場には入れないタレントみたいなものだと言ってもいい。人気の高い講師は、多くの受講生の間で「あの講師はいいぞ」みたいに評判になって、大教室が押すな押すなのすし詰めになる。1校舎につき週1講義では他の講義とのバッティングになって受講できない生徒も出るから、週2回とか3回とか同じ講義をしたりもする。そしてそのすべてに出ている生徒が実際にいる。

 こんな具合だから人気講師は全国を飛び回って大金を荒稼ぎしていた。その一方で、人気のない講師は契約を打ち切られてあっという間に予備校から去って行くものだった。いずれにせよ講師の仕事は教壇で一方的にしゃべるだけ。質問は、紙に書いて提出すれば「教壇に上がらない教員」が解答用紙に書いて数日後に質問者に届けられる。日々の勉強で困ったことはないかとか、ひとりひとりの「顔」を見るのはチューターという立場の役割だった。

 僕はあとで知ることになるんだが、こういう予備校の講師って、教えるのが上手い人が人気出るんじゃないんだな。受講生を鼓舞して受験というものに対する闘争本能を掻き立て、何よりも大事なのが「この人について行けば合格できるに違いない」と受講生に「確信させる」こと。このとき、本当にこの講師が教え上手でその人について行けば合格できるのかどうかというのは問題ではない。要は受講生が「心酔するか否か」が問題だ。

 予備校だって商売だ。受講生が合格して、予備校を去って行くことは裏返せば予備校にとって「顧客の喪失」なわけだ。だから、実際には口がうまいだけで教えることに関してはからっきしの講師の「信者」が大量にできて落ちても落ちてもその講師の講義を受講しに来るという事態が予備校にとって一番オイシイ。もちろん、そこの予備校の講義を受ければ大学に受かると思ってもらわなければ生徒は集まらないし、嘘を広告するわけにはいかないから実際にある程度の合格実績は作らなければならない。だけどこういう商売のいいところは、合格者は「予備校さんありがとう」と言ってくれるが、不合格者は「自分が悪かったんだ」と考えるところ。どうしようもない不良品だ返品するカネ返せという事件が起きにくい産業だと言える。

 だから、予備校の講義というのは無駄に体育会的だ。僕が受けていた英語の授業でも、堂々と「俺はヤクザ」と公言していた講師がいた。この講師の講義では、はじめに講師が「オウス!」と言うと受講生が一斉に「オウス!」と答えるという儀式がある。講師いわく、これは空手家が言う「()()!」とは関係ない。「認証」という意味で「オーセンティフィケイション」という言葉があり、しばしばAUTHと略されるのを知ってる人は多いと思うけど、語源としてはこれと同じで、ラグビーの強いオーストラリアやニュージーランドのラガーたちが勝ちを「誓う」全力を出すことを「誓う」というような意味で、試合前に全員で何回も唱和して士気を高めるんだそうだ。同じことを俺はやってる、らしい。併せて、AUという綴りは基本的には「オウ」と発音することを頭に叩き込むためでもあるそうだ。何て体育会的なんだろう。

 他の講義では、たとえば教材を今日10ページまで勉強したとしたら、今日の夜には最初から10ページまで復習する。ここまではいい。そして次の授業で20ページまで勉強が進んだとしたら、その夜は最初から20ページまでを復習する。次の授業で30ページまで進んだらその日の復習はもちろん最初から30ページまでだ。これを1年間続ければ間違いなく合格する。当たり前だろそんなの。ごく簡単に考えてこれは「時間が無限にある」を前提しているとしか言えないと思う。僕は思わず剣道部に入っていたころの「ウサギ跳びで校庭10周」を思い出してしまったが、こういう無茶振りはいかにも体育会臭い。「俺はヤクザ」講師が本当に自覚していたのかどうかは知らないが、ヤクザな商売だと思う。

 そういう臭さを、僕が好きか嫌いか、今さら話すまでもないだろう。僕は次第に予備校から足が遠のいた。有限の時間をマネジメントして最大の効果を上げる方法を教えるのでない限り、勉強を教えるプロとは言えないと僕は思う。

 だけど、僕の親はそういうとても体育会系臭いことを言ってくれる人こそを「熱心な教育者」と思ってしまうという悪い癖があるのはこれももうわかってもらえるんじゃないかと思う。すべては「やる気」で解決できると考えるという考え方だ。父は大卒だが親が金持ちだというだけで自動的に大学に行けたようなものだから入試の実態なんて知らない。そして母はそういう無茶振りに食らいつくことによって人間が成長するという考え方の持ち主だ。それでとっても嫌な目に遭ってるというのに、本当に成長しない。

 それにしても、世の中に予備校ほど非生産的な産業(?)はまずないのではないだろうか。集まっている消費者は、全員が「敗者」であり「失敗者」だ。だから顔見知りが集まって談笑しているようでもどこか自嘲的で暗い話題だし、そこにいない人間は間違いなくこき下ろされてる。顔見知りでも脱落してくれれば自分の立場が良くなるという存在でしかないんだから。互いにそういう認識の人間が集まって、次の機会で成功しても失敗して諦めてもその時点で投げ捨てていい知識を必死に追いかけている。僕は、産業としての教育が好きになれない。

 だけど、予備校というのが「本人が学びたいから行くところ」なのか「学校に入れたい親が子供を行かせるところ」かという基準でどっちかに分類するなら、間違いなく後者だ。だって、入学するときには親の連絡先を知らせる必要があるし、校舎で働いている職員の顔と名前なんて全然一致してなくても、入学するときにもらった磁気カードを1日1回カードリーダーに通したか否かで通学しているかいないかチェックされていて休みがちだと親に連絡が行く。大学受験のなんたるかを知らない親に、意味のない、あるいは絶対に実行不可能な、講師の「指導内容」にも食らいつくのが受験勉強だろうと尻を叩かれるほど不愉快な状態はない。

 だから、本当に申し訳ないと思いながらも僕は並木くんにカードを預けてしまい、真面目に通学している彼に僕の「代返」をお願いしてしまった。それからは、僕は自分のやりたいようにやるという生活に入っていく。生活リズムもいい加減になりがちで、親から見たらいつ見ても寝てるように見えたようで不安だったらしいが、予備校には欠かさず出席していることになっていたから別に気にもしなかった。


   42

 僕の住む街が様変わりをしている話はこれまでもポロポロしているけど、道路がズバッと通ったところまでは話したんだっけ。じゃあ、次は鉄道にしよう。

 朝日さん事件(この鄙びた田舎町にとっては、事件と言っていいインパクトがあったと僕は思う)以来、鉄道が本気になり始めた。特に本気になったのはJRだろう。2両編成各駅コトコト電車を走らせていたけど、それが全部最低4両編成になった。これだけでも大進歩だと僕は思うんだけどな。僕が高校生だった間は、まだ2両編成だった。朝の時間帯なんか、毎日超満員だった。それが増やされて最低4両ということは、時間帯によってはそれ以上のものもある。だからこのJR路線も4両編成の上は6両だった。全駅、6両編成までの対応にした。

 基本的に普通電車に使われるのは、鉄道ファンの間でもチープであることで有名で「走ルンです」とすら揶揄される車両だったけど、快速電車に使われるのは日本有数の高規格路線である大幹線を引退した車両が第2の人生としてやって来た。最高速度は120キロ出るぞ! ただ、この路線では110キロ以上必要ないけどな。でもまぁ本気度は伝わってきたよ。

 これまでは、南の終着駅であるターミナルから本当のローカル線に乗り入れていた便もあって、そのせいで見慣れない設備を備えた列車に乗ることもあったんだが、この一連の改良によってこの路線は車両運用的には完全に独立して、他の路線からの直通便というのはなくなった。そのせいか車両のやりくりにはちょっと苦しさもあって「走ルンです」が快速をやらされてるようなこともあるが、全体的にはかなり良くなった。快速が緩急接続を行うのは、僕が使っている最寄り駅だけだ。だからターミナル駅から1本逃しても次の快速に乗れば追い越せる、とはならなかった。だけど10分以上遅れてもほとんど快速で取り返せるとなれば大進歩だよな。

 JRと近い方に駅がある私鉄は、前にも言ったけど支線なのでできることは限られていた。複線だけど追い抜き施設もないので支線内では速達便も設定できない。だからとにかく支線内は増発に次ぐ増発、そして本線で接続できる列車をとにかく増やした。この私鉄は大昔に建設されたときからの制約で、県庁所在地に出るには若干迂回する必要がある。だから僕たちが越してきた当時は、私鉄の方が便数はたくさんあるけど時間がかかるという理由で30分に1本のコトコト電車の方を使ったわけだが、どこに行くかによって使い分けることのできるライバル関係がようやくできたと言っていい。

 駅前もそれぞれにきれいに、そして便利になった。どっちの駅前にも停まるバスも多かったけど、ふたつのターミナルはそれぞれにいろんな方面への路線を新設し、バスも大幅に増便された。バス路線が増えたということは、道路が増えたということでもある。僕にとってもまさかまさかの展開だったが、あのスキージャンプ台のように見えていた、途中で途切れた道路。あれを延長して、いつだったかネリーと一緒に走った道路とつなげた。完結した大通りがひとつできたわけで、そこを走るバスも新設された。線路をオーバーパスする大規模な陸橋工事をやるはずないと思ったら本当にやったわけだ。あまり好ましくないタイプの非日常につながっているよう、と感じていたのは話したと思うが、それが日常につながってしまった。便利が良くなったことは間違いないんだろうが、何だか僕には素直に喜べる事態ではなかった。

 こうなると市が本気で考え出すのは、東西接続だ。何度も言ってるが西の方は私鉄の線路が直線的に走っている。このころ、こっちの私鉄に関してはほとんど動きがなかった。この路線の市内で一番大きな駅は、実はそれよりさらに西にある町への交通の要衝だ。この「町」つまり市じゃないところは、中に鉄道が通っていない。だけど、複数の鉄道路線が周囲を取り囲んでいるまさにその真ん中を突いたようなロケーションで、決して不便ではない。安い土地も広々とあるため企業の工場なんかがたくさん本拠を置いている。だから「町」としてはずいぶん財政状態が良くて、道路の整備状態も良好で鉄道がないことなんか屁とも思ってない。周囲の市からたびたび合併のラブコールを受けてたが、いわばこの町は「高嶺の花」だ。お金はあって、合併したらそれがよそへ流れるんだから、顔がいいだけの男はお断り、というところだ。

 だからこの町を合併で取り込むことはできないにしても、この隠れた昼間人口大都会へのアクセス確保は周囲の市にとって重大問題とも言えた。東西に分断されてしまってるに等しい僕の住むこの市は、すぐ近くにあるこの労働大市場をみすみす逃してきたと言っていい。

 というようなわけで、東西の道路を何とかしようという動きが始まった。以前ネリーの森を1日中行軍した果てに行き着いたところまで続く道路が、いわば「バス天国」でもあるこの駅に行くには一番都合がいい。だから最初はこの道路を何とかしようという苦心惨憺が見て取れた。決して幅が広いとは言えないこの道路をなんとか拡幅しようとしているんだろうが、それができたのは一部にとどまった。商店街からもまっすぐに続くこの道路は、日本に車なんかなかったころからの古い街道でもある。ということは言い換えれば沿道には古い店なんかも数多くて、拡幅するからどいて下さいでは話が通らないところも多いわけだ。

 せめて荒れまくったアスファルトだけでも何とかしようということなのだろうか、このころこの道路にはアスファルトを積んだダンプトラックとかロードローラーを積んだ車運車とかが頻繁に通った。だけど拡幅もできてないのにそういう大型車を入れたり、場合によっては片側交互通行にすることは、この狭い道路の行き来をさらに不便にした。これはもしかしたら「そこまでしても改良しなきゃいけないんですよ」をアピールするためだったかも知れないが、もっと勘ぐれば「道路改良工事費」を計上し続けるという実績を作らないとお金を調達することが難しいという面もあったのかもな。

 だから、僕の住んでいる住宅街とか、家からネリーの森に行くまでにある細い枝道を使って渋滞を避ける車がこのころ多かった。自家用車ならまだいいとして(いや、良くないが)大重量のある工事用車両がそれをやるのは勘弁して欲しかった。アスファルトは痛むし排気ガスはすごい。母もよく近所の奥様方と「外壁や門柱が煤でずず黒くなる」と言って嘆き合っていた。

 トラックドライバーみたいな仕事は、とにかく時間以内に積み荷を届けないとあとの作業が全部滞ることになるし、仕事が時間外に及ぶことも多いから体にも車にもいろいろと無理な負担をかけている。JRの駅の方に行くバス通りは割と広くて嫌なことは少なかったが、それでも朝の渋滞時間には車列をショートカットするために右折レーンに入り、交差点上で無理矢理直進レーンに割り込むようなトラックを見るのはしょっちゅうだった。整備の手を抜いたダンプトラックが満載の重さに耐えられずに車輪がひとつ脱落して傾き、重機と替えの車輪が届くまで片側交互通行なんていう人死にが出ていても不思議ではないようなこともあった。

 ネリーの森は、そういう車たちが入ってくるところとは不法投棄天国とそこへ至る短い道路という緩衝地帯を挟んでいるとは言え、入り口近くではネリーと一緒に森でくつろいでいても騒音は聞こえてくるしどこか空気もどこか煙臭かった。あのディーゼルエンジンの音って想像以上に響くな。重量があるから音じゃなくて地響きっていう意味でもかなり遠くまで伝わる。

 このころちょっと思ったことなんだが、そういうマナーの悪い運転とか生活道路を使ったショートカットとかをしている大型車ドライバーが、自分たちのそういう行為によって周囲を行く通行者や周囲の建物の持ち主が不愉快な思いをしていることを知らないはずはないと思う。そういう人の中には「道路という戦場では大きさこそが正義!」と思ってる人もいたんだろうけど、悪いことと知りつつやっていた人ももちろんいると思う。

 一般的には「悪いこと」を、主観的には「いいこと」だと思っていてそれをやっている人と、悪いことを「悪いこと」だと認識していて、それでもなお自分の手を汚す覚悟ができていてやっている人、いざとなったらどっちが強いだろう? 僕は、悪いことだとわかってやる方がはるかに強いんじゃないかと思う。

 というのも、悪いことを自分的には「いいこと」だと思っている人は、それが世間的には「悪いこと」であり「いいこと」として通用するのは自分の周りの狭い世界だけでした、というとき、それを知って心が折れてしまうと思うのだ。特に中学生レベルぐらいの不良少年だったら、仲間内でしか通用しない自分たちの正義は周囲の大人への甘えがないと成立していない場合が多い。彼らなりに精一杯虚勢を張って反逆してきたのに、全部大人の手のひらの上で転がされていただけだという事実を知ったとき、不良少年は正気を保つことができるだろうか?

 僕が後に夢中になることになる詐欺漫画では、主人公は明らかに自分がやっていることが正義でないことはわかってた。こういう人に「それは悪事だからやめなさい」と言っても意味がない。そんなことは承知でやってるんだから。

 僕は基本的に、善良でおとなしい人間だ。進んで悪事を働きたくはない。だけど、自分の親や、その親を騙した連中、そして僕の中学時代に素敵な思い出をプレゼントしてくれた連中に対してまで善良を貫こうとは思わない。だから、僕に核爆弾投下命令の発令権が1回与えられるなら、そういう連中が全部集まる機会を周到に作って、そこに落とす。関係ない人やそれ自体は非常に美しいこの街の文化遺産、自然も犠牲になるだろうが、僕の感覚ではそれらは「犠牲にしていいもの」だ。犠牲になりたくないという人がいたら、僕に核爆弾使用権が与えられて使うまでに僕を狩りに来たらいい。ホッブズが言う「万人の万人に対する闘争」とはそういうことだろう? その闘争を止めるためにみんなの合意でリーダーというものが決められるのが社会だそうだが、僕はそのリーダーとやらの存在も能力もあまり信用してない。なぜだろうか、僕はこのころからこんな風に「善と悪」みたいな抽象的なことを考えるようになっていた。

 そういうときに現実へと引き戻してくれるのはやっぱり心優しいネリーだった。目の前で手を振ったり、肩とか腕とかを叩いたり引っ張ったりして心配そうに僕の方をじっと見ている。

「ああ、ごめんごめん。人間ヒマだと、無駄なことも考えるのかね。ちょっと、とりとめのないことを考えてた」

 正気を取り戻した僕に対して、ネリーは少し安心したような表情を見せる。まぁ、相変わらず白くて柔らかい塊で作ったいい加減な人型であることは変わりないネリーだから、そこに表情を見るなんていうことは僕の勝手な思い込みなのだろうけど。

「相変わらず騒音も排気ガスもすごいな。また奥に行こうか」

 そう言うとネリーは嬉しそうに2回頷く。

「じゃあ、行こう!」

 少し奥に入ると、まるで別世界のように静かで空気のきれいな場所がそこにあった。他に森というのを知ってるわけではなかったから、僕は森というのはそういうものだと思っていた。

 ネリーがいてこの森がある間は、核爆弾投下はナシだな。

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