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抱えた衣服を洗うために人魚達の居住区を出て、居住区を守るための塀を越える。
すぐに披露会のホールが見えるが、ルファが歌い手として入ることは一度も許されたことがない。最近は外のホールでも歌っておらず、毎晩バセット夫人の部屋に呼ばれて歌うだけ。
窮屈な生活に嫌気がさすが、抜け出す方法がない。
じわりと浮かんだ涙を拭うはずの手は、好きでもない女性達の衣服を抱えているせいでふさがれている。
心を少しでも軽くしようと目を閉じた。思い浮かべるのは、昔、母が聞かせえてくれた心地良い子守唄。ふかふかとは言いがたいベッドの上、親子二人で寄り添って、母の声が耳をくすぐる。
全身を包まれる安心感と、幸福感。それを思い出しながらゆっくり息を吸う。
まぶたを上げて、少し軽やかになった足取りで洗濯場へと歩きながら思い出の音を口に乗せる。
小声で歌う、自分の大好きな子守唄。頭の中では母の声がそれを歌い、一緒に声を合わせて歌っている。
そよ風がふいて、頬を撫で、髪がそよぐ。寒いとは思わなかった。勇気付けられた気がして、もう少し声を大きくする。溜まったストレスが風と一緒に流されていく。
一つ一つの音を大切に刻み、顔がほころぶ。──と、いきなり腕を強引に引かれた。
どさりと抱えていた衣服が自分の腕から落ちた。しかし気にしている暇も与えられず引かれるまま振り向かされる。
目に飛び込んだのは、端正な顔立ちの青年。全身黒に包まれた衣装と、同じ色のステッキとハット。上から下まで見事に黒一色だが、不思議と地味には思わなかった。 それぞれの黒は微妙に色味が違う。
しかし、何より目を惹くのはその見事な白髪。先程見てきた人魚達よりもさらに白い。
前髪を後ろへ撫で付けハットを被っているため、わずかしか見えないのが酷く惜しいと思った。
一体何者だろうか。そう考えて、すぐに披露会を見に来た貴族だと理解する。
「えっと、ホールは向こうですよ……?」
手を取られたままおずおずと言葉を発するが、彼は目を見開いてこちらを見つめている。
「あの……?」
そこでようやく我に返ったのか、青年はぱっと手を離し、ゆっくりと微笑む。
「すまない。ここは広くて迷ったようだ。……君も、ホールで歌うのかな?」
「いいえ、私は人魚と言ってもこんな髪色ですし、あまり歌わせてもらえなくて……」
そこまで話して、初対面の人に何を言っているのかとルファは羞恥で赤くなる。俯きそうになって慌てて顔を上げ──はたと気づく。
黒一色の衣装。見事な白髪。この人は、まさか先程人魚達が噂していた侯爵ではないだろうか。
「あああの、もうすぐ始まりますから、急がれた方が良いかと思います! じゃ、じゃあ私はこれでっ!」
素早く地面に落ちた衣服を拾い、ぺこりと頭を下げて、駆けた。後ろでなにやら声がしたが、気にしている余裕はない。
腕から落ちないように馴染みの洗濯場まで走りきると地面に置かれた桶に衣服を放り、荒く呼吸を繰り返した。壁に手をつき、目を閉じる。呼吸を整え、ようやく落ちついてくるとまぶたを上げて大きなため息を吐いた。
「あの人がハーキントン侯爵……」
少しくらい不自然でも、逃げれて良かった。あのまま侯爵と一緒にいては後々人魚達になにをされるか、想像もしたくない。
ふう、ともう一度息を吐いて、ルファは日課の洗濯を開始した。
***
あの日から数日。特に人魚達から制裁を受けていない。侯爵と会って話していたのを気付かれずにすんだようだ。共同の食堂で朝食を食べながらルファは平穏を噛み締める。
他の人魚達も続々と食堂に集まり、エリーチェ以外の人魚全員が揃った頃。バセット夫人がゆっくり歩いて来て、かなりの不機嫌顔をしながら、ルファの平穏を叩き壊した。
「ルファに貰い手がついたよ。お相手はハーキントン侯爵」
「え!?」
夫人の簡潔な言葉に、がたんと椅子から立ち上がって声をあげたのはルファではない。数人の人魚達だ。ルファはあまりの突然なことに理解が出来なかった。
「迎えは明後日。いいね、ルファ」
「え、あ、はい……?」
そのままバセット夫人は立ち去り、場の空気がどんどん澱んでいく。やっと重大さに気づき顔色が青くなっていくが、人魚達は舌打ちし、ルファを睨み付けた。 ──しかし、なぜか制裁は来なかった。
ルファにきっと言いたい事があるに違いないのに、人魚達は憎悪のこもった視線をよこすだけで、そのまま食堂から出ていく。
取り残されたルファはスープを匙ですくい、短かった平穏を嘆いた。




