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その冷たい瞳は、まったく俺のことなど見ていなかった。
きっと路上に転がる石ほども。
『どうして命令を聞けない?』
ボソリと嗄れた声でのつぶやきは、聞き取れないほどに小さく暗い。
ただ、聞き逃すことは許されない迫力もある。
『も、申し訳ありません』
明らかに小さくなって、震えた声でナイトが答える。
『まあいい。今日のわしは機嫌がいい。一度亡くしたものが返ってきたからな』
助手席をちらりと見やり、にやりと笑う。
勝者の笑み。それがさす事実は。俺の現実を、根底から覆した。
見なくてもわかる。ナイトが受けた命令とは、リコの奪還。亡くしたものとは…リコ自身のこと。
「…どうして?」
誰に聞こえるでもなく、自然に口をついて出た言葉。
もちろん答えなど返ってはこない。聞いたら全てを教えてくれるようなことは、現実にはあり得ないのだから。
小さなつぶやきは、鳴り響く心音と共に痛みに変わる。自問自答、抜け出せない忘れたはずの闇。
頭の中で何かが弾けた。
声にならない叫びと共に、飛び出した俺の体は宙を舞う。
…ナイト。走り出す足に合わせて、その軸足を払ったんだ。
冷静になどなれるはずのない俺は、受身も取れずに地面に叩きつけられ、身体を強く打つ。
反射的に咳が出る。
それでも地面を掴み、立ち上がった俺が見たものは、世界で一番見たくない映像であった。
あの凍るような目で、ベビーコルトを構えているのは。その照準の矛先は。
結局、彼女が選んだものは俺ではなかった。
それが全て。
目の前にある全てを否定した。
光景、状況、自分、他人。とにかく全てを。
沸き上がる衝動は、憎しみや怒りじゃない。まして、悲しみでも痛みでもない。
ただ黒い気持ち。
何の色にも染まらず、どんな色をも飲み込んでしまう黒。
思考回路にもやがかかる。これ以上の負荷は危険と判断している。鳴り続く警報を無視して、その先へ。
あの時の笑顔も黒く塗りつぶし、あの時の泣き顔も黒く塗りつぶす。
ものすごい速さで思い出を侵食していく黒色。
もう、まともでなんかいられない。
きっと誰が見ても、狂っていると言っただろう。
結果はわかっているのに、俺は何度も立ち上がり、そのたびにナイトに跳ね返された。
もう俺を見ていない瞳のために。
腫れ上がる顔。きしむ骨。それでも俺は、真っ直ぐに目指した。