波打つ壁
81、波打つ壁
揺り籠の中で一生を終えられるのならそれに越したことはない。そんな無気力で無痛こそが至上の喜びと考えられるような人間は、そもそもダンジョンに潜ろうとしない。
ダンジョンの超深層に挑もうという人間は、心のどこかに欠陥がある。生存本能という強力な要求に対し、撓み歪みながらも反発し危険とリスクを黙殺する好奇心という針金が心の中心に一本通っている。勇敢と呼ぶか、蛮勇と呼ぶかは人によってまちまちだろうが、敵を見ただけで逃げ惑うような人間はいない。人として正しいかどうかは別として、危険を正視し死の覚悟を速やかに完了することができる人間。深層に挑む冒険者の資質と言える。
だが、そういった人間の個々の性質など無関係なほど巨大なうねりが、超深層で起こっている。小さな波でも流されてしまう小舟があれば、大波を砕きながら突き進む大艦もある。しかし全てを薙ぐような大津波の前には、その船が小さいか大きいか、あるいは船であるかどうかも関係なく、飲み込まれてしまう。個々の性質はどうでもいい、ただそこにいたというだけで、そのものの死は決定づけられてしまう。
超深層とはまさにそういう場所だった。その者の死にざまは、恐怖に狂い闇の中で没するか、恐怖に打ち克ち自らを死に至らしめるものを直視しながら息絶えるか、その違いしかない。人間の個々の性質は、死にざまに僅かな違いを生むことはあっても、死という結末を変えるほどの影響を及ぼすことがない。
冒険をデザインし、サポートする精霊の存在はなく、そこにあるのはこれ以上奥には行かせないという星の意思。無限のリソースを駆使して築き上げられたその壁は、死を招く者の集合として、静かに波打っている。
深層199階。もはや甲型だの乙型だのと抗体を区別することはできない。密集した星の抗体が冒険者の行く手に立ち塞がる。そこでダンジョンは終わっていた――少なくとも人の通る道はなかった。まさかその奥に何かがあるなんて思えない、星の中心までこの抗体の群れが詰まっているとしたなら、人類の取る道は一つしかなかった……、撤退だ。
並外れた実力と運で199層に行きついた冒険者が、世界各地に存在した。下層に行くたびに収斂され、入口のダンジョンは違えど、星の中心部で異国の冒険者が共通の道を辿った。共闘を図ることもあれば、競争するように互いを意識することもあった。
だが無意味だった。199層に到達した人間は死んだ。ごく限られた一流の冒険者がその場からの退避に成功した。そうやって超深層の壁と呼ばれる難所の情報が、徐々に冒険者の間に広がって行った。最初はネット上に散布されるありがちな噂として……、しかし徐々に信憑性を伴って……、最初から無謀な挑戦だったと人々が悟ったときには、各国の専門機関擁する特殊部隊の活躍を祈るほかなかった。超深層の危険性を熟知し、日頃からその打破を目的として開発研究を続けてきた政府の精鋭たち。普段注目されることのなかった金喰い虫たちが人類の期待を背負って立った。
日本における攻略組が、まさにそういう立ち位置だった。制圧部隊はダンジョン管理局が運用する強力な予備軍であり、待機が主な職務という集団だった。制圧部隊が超深層でどれだけやれるかは未知数だった。
日本政府が超深層の攻略に望みをかけたのは、制圧部隊だった。なぜ攻略組に主導権を握ることを許さなかったのか。様々な推測が流れたが、現場レベルでその真実を知っているのは、当の攻略組こと戦術研究部の部長、佐久間楓ただ一人だった。
加貫総合研究所の所長、加貫は楓に言った。今のきみでは超深層の最奥には辿り着けないと。
「きみは世界でも屈指の実力者だ。冒険者としても統率者としても一流。だが今のきみでは超深層を攻略することはできない」
「私ができないとすれば、誰になら可能なのですか」
楓は尋ねた。加貫は皺だらけの顔を歪めて笑んだ。
「誰にも。不可能だ。きみも気付いているはずだ。超深層の壁を突破するには、人類は脆弱過ぎる。唯一可能性があるとすれば、異邦人……」
「それならば、なぜあなたは、私を超深層に挑ませたのです」
楓は尋ねた。加貫老人は笑っている。壊れた玩具か何かのように。
「今は不可能でも、挑む価値はあると思った。その過程で何らかのブレイクスルーが生まれる。本来の目的は果たせずとも……」
「私をスカウトしたのは、あなたの道楽だったとでも」
「違う。道楽ではない。きみに可能性を感じたのは事実だ」
「さっきと言っていることが矛盾しています」
「どうかな。矛盾は人間の宿命だと思うが」
戯言を。楓は思ったが口には出さなかった。
「きみが超深層の攻略に最も向いている人材だということは変わりない。だが、政府はそんなことを評価しない。要は『できるかできないか』だ。きみは『できない』。神隊長は『できるかもしれない』。なにせ万年待機しているし、彼らはその能力の全てを発揮したことが一度もない」
「……なるほど。そういう理屈ですか。私たちが最も超深層の攻略に向いているからこそ、普段からその攻略可能性を検討する為の物差しとして使われていた。そして長期間に渡る検証の結果、それが不可能であることがほぼ確実になってしまった。政府は制圧部隊に頼ったのではない。勝ち目のない博打に出て、現実から逃避しているだけ……」
「身も蓋もない言い草だが、大体当たっているね」
加貫は言い、手を叩いた。
「で……、どうするね。きみは超深層に挑むか?」
「部下を率いて挑みます。瀬山綾に頼らずとも、攻略してみせます」
「間違いなく死ぬぞ。それでもかね」
「改めて言いますが、挑ませたのはあなたです。せいぜい自責の念を抱きながら私の帰還を待っていてください」
「言うね。素直で可愛い頃のきみだったなら、そんな憎まれ口は叩かなかっただろう」
「私はあの頃と何も変わっていませんよ」
加貫は溜め息をついた。楓の顔を真っ直ぐ見据える。
「唯一可能性があるとすれば、異邦人だ。異邦人ならば超深層を突破できるかもしれない」
「気に食わない」
楓は正直に言った。
「異世界から来た、ダンジョンについてろくに知らない人間が、人類最後の希望? 世迷言だったと証明してみせますよ」
「嫉妬かね? きみが誰かに嫉妬するのは初めてじゃないかな」
「どうでしょう。少なくとも私はあの女の境遇に憧れは抱きませんが」
楓の冷めた言葉に、加貫は俯く。
「……きみは私の研究に多大な貢献をしてくれた。もし私があと10歳若ければ同道するところだが、最近は足腰がめっきり弱くなってね。足手纏いだろう。だからきみの成功をここで祈っている」
「私は確実に死ぬのでしょう。さっきあなたはそう言った。矛盾しています」
「理屈ではそうだ。しかしきみには不可能を可能にするような類まれな才能がある。きみほど超深層の探索に向いている人間はいない」
加貫の断言に、楓は少しだけ気分が良くなった。
事前の調査で、超深層の入口には、抗体密集地帯が存在する。その壁を突破する案は過去に無数に出されたが、いずれの方法も試すことができなかった。その作戦の失敗は、作戦に参加した人間の死を意味する。そして作戦失敗の可能性があまりに高かった。優秀な人員を使い捨てることはできない。
しかし今、このとき、命を使い捨てたとしても誰からも非難されない状況が完成した。楓自身、作戦の成功の為なら、誰かにこの命を利用されたとしても、文句は全くなかった。
攻略組の有能さを証明する。政府の判断が間違っていたことを示してみせる。
任務の苛酷さは元より承知している。何度夢想したことか。この波打つ壁に挑む瞬間のことを。
「もし、事前に用意した作戦が全て失敗に終わったら。私が突破口を開く。後はお前らで何とかしろ」
楓は言う。同道していた隊員たちが信じられないとばかりに楓を見た。
「佐久間部長、何を……?」
楓にそう問いかけたのは南條将基だった。まだ年若いこの支援型の戦士は、年長の仲間たちを信頼し過ぎている節がある。自分で判断することを知らない。統率者がいなくなれば真っ先に死ぬタイプだった。
しかし周りの仲間がそうはさせない。南條の支援がなくなれば自分たちの生存確率がぐんと下がるからだ。
楓は同道していたチーム全員に告げた。
「私が超深層の壁に単身挑む。壁に突破口が開けば、捨て身の覚悟で突撃しろ。もし壁に風穴が開かなかったら、そのまま退避しろ。お前たちでは手に負えない」
楓の指示に部下たちは驚愕した。誰かが反論しようと口を開きかけたが楓の睨みを受けて止まった。
「有無は言わせない。私に無理ならお前たちにも無理だ。ただし私より有能だという自信のある者は、自由にすればいい」
楓はそれきり黙り込んだ。そしてさっさと進む。
199層に辿り着いたら一瞬で勝負は決着するだろう。そして十中八九、楓は死ぬ。それが分かっているのに恐怖心はなかった。
この瞬間の為に生きてきた。人類未踏の地。そこに楓は挑む。それで死んだとしても本望だった。
波打つ壁が楓を待ち構えている。散発的に現れる抗体を霓の変則攻撃で一蹴しつつも、見据えているのは超深層の壁、それだけだった。
「いったい何の為に、これまで隊員間の連携を深めてきたんですか。部長だけに行かせてたまるものか」
誰かが言った。全く嬉しくなかった。どうせ皆分かっている。まだ人類が超深層に挑むには時期尚早だと。もしかすると誰かは突破できるかもしれない。だがダンジョンはそこでは終わらない。超深層の壁を突破してからが本番だと言ってもいい。そこからは未知の世界が広がっている。
「作戦が失敗しても。そのときは勝手にサポートさせていただきます」
南條が楓の後ろについていた。他の隊員たちも南條に続いている。
少年の眼差しが思いのほか強い。楓は少し意外だった。
「指示に背くか、南條」
「かもしれません。でも、佐久間部長なら、超深層の壁を突破できると思います。ですから、結果的に指示に逆らうことにはなりませんよ」
南條の言葉に、楓は頷いた。
「そうか。随分楽観的だな」
「佐久間部長は、自信がないのですか」
「自信?」
楓はかぶりを振った。
「成功の見込みは薄いな」
「でも、自信ありげに見えます」
「やるべきことがクリアに見えている」
楓はそう返した。
「それで駄目なら誰でも無理だ。つまり私の働き次第で人類が生きるか死ぬかが決まるようなもの。括目していろ」
「やっぱり、自信たっぷりじゃないですか。そんなことをこの状況で言える人は他にいませんよ」
「南條、一応言っておく。仮に作戦が失敗し、その上でこの中の誰かが超深層の壁を突破するとしても、それはお前ではない。単体でろくな戦闘力を持たないお前では、壁を突破することはできない。お前以外の全員が無事だったとしてもお前だけは死ぬだろう」
楓の言葉に南條は真摯に頷くだけだった。
「分かっています」
「お前の死は決定しているようなものだ。作戦が失敗したら素直に引き返せ」
「幻滅させないでください。佐久間部長は、他人の命を自分のもののように投げ棄てるのが魅力の、非情の人でしょう」
そんな風に見られていたのか。しかし意外ではなかった。楓は微かに笑み、長髪を翻しながら先へと進む。
深層199階はすぐそこにある。楓は自分の目で超深層の壁を見るのは初めてだった。それが楽しみであった。狂っている、と我ながら思った。




