黒柳戦・水泡
62、黒柳戦・水泡
海中のフィールド。それを指定したとき、黒柳は難色を示した。
「ええー……。綾ちゃん、ちょっとズルくない?」
「すみません。どうしても勝ちたいので」
酸素を供給するマスク、ドライスーツ、フィン等を完全装備した綾は言った。黒柳はなかなか機器を操作しようとしなかった。綾は頑として譲らなかったし、黒柳も、見損なっただの、可愛くないだの、綾ちゃんが負けたら今日の下着の色教えてねだの、さんざん綾を揺さぶろうとした。綾はその黒柳の文句を全て跳ね除け、海中のフィールド以外では戦わないと言った。
「ああ、もう! 綾ちゃんの頑固! いつからそんな子になっちゃったの!」
「ええと、出会って三日ですよね?」
「そうだけど! 出会った頃はもっと純朴だった! もっと目がキラキラしてた! 鼻水垂らしてエヘヘって笑ってた!」
「どこの田舎の少年像ですか! いいから戦いましょうよ!」
黒柳は嘆息した。そして観念したかのように機器を操作する。
「覚悟しなさい、綾ちゃん。私は海中用の装備なんて一つも持ってないけど、それならそれで幾らでも戦い方はあるのよ」
「そうですか」
綾は後ずさった。そしてゆっくりとフィールドが変化する。
足元から水が湧いてくる。綾は霊力で駆動する酸素マスクを着用し、海中での動きを円滑にする専用の機動靴ならぬ機動フィンを装備している。綾は全く問題ないが、黒柳は舌打ちする。
「ちぇっ、準備万端じゃない。そんなんで勝ってうれしいのー? ねえ、良心が痛まないー?」
「幾らでも戦い方はあるんですよね」
「そうだけどー!」
やがて演習室が海水で満たされた。躰が浮かび上がり、フィンをゆっくりと動かして姿勢を安定させる。視界はゴーグルのおかげで良好。いつのまにか本物の海のように海草や細かな砂が下方に見える。綾は距離を取ろうと後方へ、後方へと移動したが、黒柳は岩陰に隠れたかと思うと、完全に姿を消した。
死角に回り込もうとしている。綾はそれが分かっていた。分かっていたのに、一瞬で黒柳に至近距離まで近づけさせていた。振り向いたときには既に黒柳が拳を振り上げていた。
全力で防御。防御のことしか考えない。綾は持参していた盾で黒柳の拳を受け流した。本気の一撃だったらしく、綾が全力で霊力を注ぎ込んだその高位の盾は、呆気なく砕け散った。盾を持っていた腕にも多少のダメージがあった。
綾は機動フィンを動かし、黒柳から離れようとした。しかし、海中での移動には向いていないはずの機動靴を使って、黒柳は距離を詰めてくる。黒柳は拳を振り上げ、綾を一挙に仕留めようと躍起になっている。
黒柳はどれだけの間、息が続くだろうか? 常人なら、激しく動きながらだと一分程度しか続かないだろう。だが肉体を強化している黒柳ならもっと長時間水中で動き続けることができても不思議ではない。
相手の息が切れて動きが鈍くなったところを叩く――戦法としてはそれもアリだろう。しかし最初からそれを狙っていたのでは勝てない。綾はそれに気付いていた。
一秒二秒を惜しんで不用意に突っ込んできたところを叩く。綾は最初からそれが狙いだった。黒柳が正面から魚雷か何かのように凄まじい勢いで接近してくる。綾は最初盾を構えていたが、すぐに竜剣二つに持ち替えた。黒柳がにやりと笑う。
「そうこなくちゃね」
水中なので黒柳は発声できない。しかしそう言ったように口が動いた。水泡が彼女の口から漏れる。
黒柳の移動速度が上がった。水中だというのに機動の切れ味の鋭さは全く衰えていない。空気より水中のほうが移動する際に摩擦が大きくなるから、急な方向転換等はむしろこの海中のフィールドのほうが都合が良いはずだが、それにしても目で追えないほどの速度。自分も修行を積めばあれくらい動けるようになるのだろうか、そう悩んでしまうほどの圧倒的な力量差を綾は痛感した。
しかし今は勝たなければならない。その為の海中フィールド、そして完全装備だ。綾は深呼吸した。嵐子との水中訓練で基本的な動きは掴んでいる。切羽詰まった人間が手っ取り早く相手を仕留めようとするときに選択しがちな動きも、嵐子から仕込まれていた。
綾は竜剣に霊力を注ぎ込んだ。刃が炎を纏う。周辺の海水が一瞬で蒸発、気泡となって頭上へ運ばれていく。綾の周囲で水流が生まれ、水中では不適としか言い様がない機動靴を装備した黒柳にとっては、その水流が難敵だった。
綾に接近しておきながら、水流の僅かな乱れによって自らの姿勢を大きく崩し、黒柳はその場でくるりと意味もなく一回転した。凄まじい速度で移動するには、それだけ繊細な霊力のコントロールと水の抵抗の計算が必要だということだが、綾にとってはチャンスだった。
二振りの竜剣を振りかぶり思い切り叩きつける。黒柳はガードしたが、機動に霊力を割いていたのか、それとも綾がここまで積極的に攻撃してくるとは思っていなかったのか、左腕に裂傷を負った。
黒柳が苦痛に顔を歪めて大きく息を吐き出す。大きな泡が浮かび上がり、姿勢が崩れた。綾は更に竜剣に霊力を注ぎ込んだ。周辺の水流が乱れ、黒柳はダメージを負ってなお前進することも後退することもできない。
黒柳は覚悟を決めたようだった。機動靴への霊力を遮断する。そして彼女の両腕が光り輝いた。そして雷光のような凄まじい音と勢いで綾に襲いかかった。
綾は事前に防御の準備をしていた――が間に合わなかった。黒柳の拳はまるでそれ自体が伸縮するかのように綾の意想外の方向へ飛び、防具の性能を十分に引き出すことができなかった。それでも、黒柳も息が続かずに苦しんでいるのか、その一撃も致命傷にはならなかった。
「ここだ」
綾は歯を食い縛った。ここで逃げれば勝てるかもしれない。だが真っ先に黒柳はその選択肢を潰そうとするに違いない。綾にはそれが分かっていた。切羽詰まっているのは黒柳のほう。行動を強いられているのは黒柳のほうだ。
自信を持って戦え。綾は竜剣を棄てた。黒柳が更に接近しようと前のめりになるのと同時だった。
黒柳が意外そうな顔になる。綾が取り出したのが銃だったからだ。
銃では黒柳の防御を突破できない。それは綾も分かっていたし、黒柳も自信があるのだろう。黒柳は攻勢を解除しようとはしなかった。
綾は銃を撃ちまくった。既に至近距離だった。連射しても着弾したのはほんの数発に過ぎなかった。黒柳はそれらを難なくガードし、綾に拳を叩き込もうと体勢を変えた。
しかし。
綾は銃撃の反動で僅かばかり後方に移動していた。それでも黒柳は問題なく拳を届かせることができるはずだったのだが。
機動、防御、そして攻撃。目まぐるしく霊力を操作し、しかも酸欠状態にあった黒柳は、咄嗟に移動した綾を捕捉することができなかった。霊力を練った拳が空振りする。綾は鼻先で黒柳の攻撃を躱し、ふっと笑った。
「すみません、黒柳さん。もう息が切れかかっているみたいですね」
黒柳は笑みを返した。そして攻撃も防御もかなぐり捨てて機動に力を注ぎ込んでくる。
綾は再び竜剣を手に取り、水流を乱しながら振り回したが、今度は黒柳の動きを止めることはできなかった。綾の挙動を見ながら落ち着いて機動靴を操作しているようだった。そして最接近する。綾は防御に専念した。
黒柳は綾の顔面を鷲掴みにした。そして酸素を供給しているマスクを引き剥がす。黒柳は自らに装着し、大きく深呼吸した。
「あーーーーー!」
黒柳は大袈裟に叫び、綾に拳を叩きつけた。まさに息を吹き返した黒柳は、にやりと笑いながら、マスク越しに声を発する。綾は防御に成功し、吹き飛ばされたもののほぼ無傷だった。
「油断したわね、綾ちゃん。呼吸さえできれば、焦って綾ちゃんの懐に潜り込むことはない。じっくり料理できるわ。おまけに綾ちゃんは酸素マスクなしで……」
綾は予備のマスクを取り出して装備した。黒柳は舌打ちする。
「ちぇっ、でもこれで、仕切り直しね……。綾ちゃん、霊力の残量はどうなの。私はまだ余裕だけど」
「私は、霊力を結構使ってしまいましたね。でも、仕切り直しというのは違うかな……」
「はあ?」
綾はくすりと笑った。
「ごめんなさい、その酸素マスク……、毒が仕込んであります」
「え」
黒柳は唖然とした。綾はその隙を見逃さなかった。機動フィンで思い切り水を蹴り接近する。呼吸が止まり、姿勢が乱れた黒柳は反応が遅れた。
二振りの竜剣を叩きつける。黒柳は完璧にガードしたが、すぐに攻撃に転ずることができなかった。酸素マスクに毒が仕込んであるというのは嘘だが、敢えて酸素残量を少なめにした状態でこの戦いに挑んだ。
黒柳にマスクを奪われた時点で、ほとんど酸素は残っていなかった。しかも毒だと言われて一瞬戸惑った黒柳は酸素を吸えなくなったことで更に大きな隙を生み出していた。息が吸えなくなった理由を、毒にあるかもしれないと少しでも疑った時点で、もはやその動揺は修正し切れるものではなくなった。
綾はガードされてもなお竜剣に霊力を注ぎ込み続けた。周辺の海水が蒸発して水流が乱れる。黒柳は姿勢を維持するのに霊力を消費したが、綾は流れに身を任せたまま、更に攻撃を続けた。
「姑息な手段を……っ! 綾ちゃん!」
黒柳の拳が竜剣の刃の腹の部分に当たった。呆気なく刃が砕け、綾はバランスを崩した。
「結局、私の防御を崩さなければ勝利はない! それが綾ちゃんには分からないのかな!?」
「そうですね。確かに姑息な手段でした。けど、勝つためにやってるんです」
綾は言った。
「黒柳さんは、普段自ら攻撃することはない。支援に徹することが多い。そして私と模擬戦を行うときはダンジョンを探索するときと同じような装備で挑んでくれている――つまり攻撃手段はその拳だけ」
綾の言葉に黒柳は頷く。
「そうね……、でもそれが?」
「不思議だったんです。どうして黒柳さんは私の攻撃を避けもせずに全て受けてくれたのか。全て防御してくれたのか。手加減するなって言われているのに、完全に手を抜いているようにしか見えなかった。気紛れかな、優しさかな。けれど、そうじゃなかった。そうせざるを得なかったんだって、気付いたんです」
綾の断言に黒柳は首を傾げた。少し面白がっているようにも見える。
「ふうん?」
「私に圧倒的な力を見せつけたのは、それを隠す為。無畏さんは言っていましたよ、黒柳さんがハッタリかましてるって。もし、ダンジョン探索時と同じ装備を黒柳さんがしているのなら、支援用の装備も、黒柳さんは今も持ってきていることになる。もしかしたらそれが、重荷になっているんじゃないか……」
綾は残っていた竜剣を思いきり叩きつけた。黒柳はそれを完全に見切り、ガードしたが、衝撃で水中を揺蕩った。
「支援特化、ですから。それを発動するのに能力の大半を費やしているのではないか。それで多くの攻撃のバリエーションを持てないのではないか。つまり、私がそれを打破するには」
綾が更に竜剣を構える。そして叩きつけた。黒柳はそれをガードする。今度も全くダメージが通らなかった。黒柳は素早く反撃体勢に入ったが、綾は更に用意していた別の竜剣を取り出した。
「何度やろうと一緒よ!」
「だったらお手上げですけど」
綾は更に一本、竜剣を引き出した。双剣。霊力を注入する量を偏らせて叩きつける。両方ガードされた。ここで黒柳はにやりと笑った。しかし綾は間髪入れずに次の一撃を喰らわせた。
「ふん、綾ちゃん、もう霊力が尽きかけているんじゃないの? 今の攻撃、両方とも全く威力がなかったわよ」
「かもしれません」
綾は言った。不敵な笑み。黒柳は舌打ちした。
「あなた、ねえ、まさか……。竜剣何本持ち込んでるの」
「五〇本です」
「はあ!? 準備室にある竜剣の在庫ってそんなにあったっけ!?」
「ありませんよ。研究所を駆けずり回って集めてきました。私が思う存分扱えるのは竜剣だけなので、ちょっと贅沢ですけど、こうしました」
綾は何度ガードされても、何本破壊されても、竜剣で攻撃し続けた。防御し続ける黒柳は段々焦りを覚えているようだった。
「また、また、また……! また軽い攻撃! まともに霊力も扱えなくなっちゃったのかな」
「だったら攻撃すればいいでしょう。ガードに割く霊力を減らして。それとも、黒柳さん、それができなかったり?」
黒柳は押し黙った。そしてふっと笑う。
「双剣を使って私に選択を迫らせる。でも今、綾ちゃんが迫っているのは、次の一撃こそ本命の攻撃かもしれない、そう思わせる波状攻撃。……正解よ、綾ちゃん」
黒柳は突如として防御をやめた。綾が放った竜剣の切っ先が彼女の肩口に入る。
綾は驚いた。
「く、黒柳さん、何を!?」
「支援タイプは敵を接近させてしまった時点で負けなの。特に私はさ……。作戦に影響を与えるほどの支援用専用武器を授かってしまった。だから模擬戦でも、常にその専用武器を発動させながら戦わないといけない。そういう訓練方針なわけ。そしてその専用武器ってさ、他のことしながらでも簡単に扱えるような単純なものじゃないんだよね」
支援と同時にできるのは、攻撃、防御、機動のいずれか。攻撃なら攻撃、と決めればかなりの高火力を引き出せるが、同時に防御をしたり機動を試みたりするのは極めて難しい。そういうことだったのだ。
「うまくハッタリ使って隠そうと思ってたんだけど。嵐子ちゃんとかペインキラーとか、おしゃべりだからね」
「一応、あの人たちは答えを言いませんでしたよ。黒柳さんを裏切ったわけじゃないです」
「あーあ。私の拳に怯えながらおそるおそる攻撃してくる綾ちゃん、可愛かったのにな。むしろそういう態度の人にしか、私は積極的に攻撃できないんだわ。幾ら慣れない海中で普段より霊力のコントロールに手間取ったとはいえ、私もまだまだねえ」
綾の竜剣が水中で燃え上がった。間もなく黒柳は致命傷に達し、休憩室へと飛ばされた。それと同時に演習室の水が引き始めた。
酸素マスクを外し、水面に出た綾は、激しく咳き込んだ。
嬉しかった。それは間違いない。しかし、それ以上に焦りがあった。
まだ何も終わっていない。これから琴歌を助けにダンジョンに行く。隔離ダンジョンへ。早く水が引いてこの部屋から飛び出したい。綾は髪を掻き上げながらきつく口を結んでいた。




