菜桜戦・隠鬼
52、菜桜戦・隠鬼
体力の回復は早かった。霊力をほとんど消費することなく敗北したのが良かったらしい。目が覚めてすぐ、菜桜に電話したが、電源を切っているようだった。その後、黒柳に電話すると、池添に連絡を取るようにアドバイスを受けた。言われた通り池添に電話し、菜桜が逃げ出そうとしていることを知った。
黒柳が戦えと言った以上、勝算はあるということだ。今は彼女を信じるしかない。綾は走り出した。エレベーターは使えない。休憩室の近くに非常階段があったのが幸いだった。
階段を駆け下り、一階に到着してエントランスに出ると、ちょうどエレベーターが一階に着いたところだった。扉が開き、菜桜が現れる。
ぎょっとした様子の菜桜はすぐさまエレベーターに乗り込んだ。綾は中に滑り込もうとしたが間に合わなかった。
「菜桜さん、私と模擬戦――」
言い終わる前に扉が閉まった。綾は息を落ちつけながら、階数表示を見ていた。
五階、十階、十五階……。エレベーターは十八階の上、Rで止まった。屋上である。
本当に屋上で降りたのだろうか。途中で降りた可能性もある。綾は舌打ちした。どうすれば菜桜に模擬戦を申し込めるだろうか。
嫌がる人に無理矢理付き合ってもらうのは気が引けた。しかしもはやなりふり構っていられない。南條とは戦えず、もはや攻略組内ではまともに戦っても相手にすらならない強敵ばかりとなっては、もう黒柳の言葉を信じるしかなかった。
「何が何でも相手してもらいますからね、菜桜さん」
綾は電話を取り出した。黒柳にかける。
『――あ、もしもし、綾ちゃん。菜桜ちゃんとは会えた?』
「ニアミスです。それより、黒柳さん、この建物って出入りできるのは何か所くらいあるんですか」
『一階に正面玄関と裏口があるから、二か所ね』
「一階で構えていれば、菜桜さんは外に出れないんですね?」
『そういうこと。菜桜ちゃんと何が何でも戦うつもりなのね』
「はい。ちょっと強引ですかね」
黒柳は電話越しに笑った。彼女の意地の悪そうな笑みが見えてきそうだった。
『それでいいの。一階は私が塞いでおくから、綾ちゃんは菜桜ちゃんを追いかけなさい』
「お願いできますか」
『とことん協力するわよ。でも、それより、綾ちゃんは勝算があるのかな?』
「黒柳さんには勝算が見えているんでしょ。だから私をけしかけてる」
『まあね……、それで、勝算は見えたの?』
「分かりません」
綾は正直に言った。
「何かを考える前にやられました。接近して戦うのは上策ではない感じですかね」
『分かってるじゃない。菜桜ちゃんは近接戦闘では攻略組でも随一。まともにやり合えるのは、弌朗ちゃん、それと楓ちゃんくらいかしらね』
綾はふと気になった。
「嵐子さんは?」
『嵐子ちゃん? あの子は菜桜ちゃんには勝てないわよ。二人の能力を数値化したら、二人は似た感じになるでしょうけど、嵐子ちゃんの武器は抗体向け、菜桜ちゃんの武器は汎用、だからね』
「なるほど……」
けしてくみ易い相手ではない。菜桜を追っている間にも、どうすれば勝てるのか考えなければならないだろう。
「菜桜さんのほうが強いなら、嵐子さんと戦ったほうが、勝率は高いんじゃないですか」
綾は尋ねた。すると黒柳はより高い声で笑った。
『残念だけど、綾ちゃんは嵐子ちゃんには勝てないわ。嵐子ちゃんの性格からして、綾ちゃんに付け入る隙はないって感じね』
「なるほど。ということは、私が菜桜さんに勝てるとしたら、その辺にあるということですか」
黒柳の笑い声がぴたりと止んだ。
『ま、そういうことかな。菜桜ちゃん自身、手加減しているつもりはなくても、やる気がなくてつい隙を作っちゃうことがあるし……』
「ありがとうございます。参考にしますね」
『はいはーい。頑張って』
通話を切った。綾はエレベーターには乗らず、非常階段で二階に向かった。下から順に見て行けばいつか会えるだろう。それに、二階は最も人通りの多いフロアであり、紛れるならそこが一番妥当な場所に思えた。
食堂や散髪屋、衣料店などの店内を一つ一つ見て回ったが、菜桜の姿はなかった。まだこの加貫総合研究所の構造に慣れているわけではないので、一通り見て回るだけでもかなり時間がかかった。
少し焦り始めた。これではあっという間に一日が終わってしまう。
知り合いもいないので、行き会う人に菜桜を見なかったか尋ねることもできなかった。一度、見知らぬ人に尋ねてみたが、その人は攻略組ではなかったので、そもそも菜桜の特徴を知らなかった。
「凄く眠そうにしている女の子です!」
「それだけじゃ分からないよ……」
綾は嘆息した。三階に移動したが、そこは二階とはうって変わって静寂に包まれたオフィスだった。部屋の仕切りがなく、大量の書類と格闘している男性がいたり、低い声で会議をしている集団だったり、パソコンを操作しながら誰かと電話している女性がいたり、綾は場違いな自分を自覚してそそくさと退散しようとした。
そこで綾のケータイが鳴ったものだから慌てた。非常階段に避難する。
「も、もしもし!」
『峠本菜桜を見つけた。八階だ』
男性の声。綾は液晶画面を見た。登録していない番号だった。
「すみません、誰ですか」
『おっと、すまない。小田木だよ。ははは』
一瞬頭の中が真っ白になったが思い出した。ダンジョン管理局で出会った、白衣のあの男。失礼な言動が印象的だった。
「どうして小田木さんが? 私に協力して、菜桜さんを探してくれているんですか」
『いや、偶然だよ。幽鬼のように研究室を彷徨っている彼女を見つけて、怪しいと思ったわけだな』
「……それで、どうして私に電話をする気に?」
『なに、簡単な推理だ。きみが攻略組の面々と戦い、三勝を挙げることをノルマに課せられていることは知っている。あの鹿取くんに勝ったことも漏れ聞いているよ。それで次の標的が峠本菜桜というわけだろ。なるほど、隙の多い戦士だからね……、特に今は』
綾はエレベーターに乗り込み、八階のボタンを押しながら小田木にお願いした。
「すみません、菜桜さんを足止めしてくれませんか。すぐにそちらに行くので!」
『異邦人のお願いとあれば聞かないわけにはいかないなあ……、しかし菜桜くんはもうここにはいないよ』
「えっ?」
『私が電話しているのを聞いて慌てて逃げて行った。上階に行ったようだが』
「そんな!」
『しかし協力はしようと思う。菜桜くんに茶を勧めるフリをして、彼女に発信器を着けておいた。今からきみのケータイにメールを送る。それに添付されているアプリを起動したまえ。菜桜くんが発する信号を追跡することができるはずだ』
綾はあまりのことに一瞬意味が分からなかった。
「は、発信機ですか?」
『そうだ。我々開発組にとっては必須のアイテムでね、なにせ攻略組の中には、我々との接触を拒む輩がいる。そういう人とも円滑な情報交換は必要だ。こっそり発信機を付けて、地の果てまで追いかけるということだよ』
「それって……」
『非常に優れた追跡システムだから安心していい。対象者が何階のどの辺にいるのか、分かり易いインターフェイスで表示してくれる。結構使いやすさというものを追求したんだよ?』
そういうことを聞きたいのではない。しかし利用できるものは利用したい。
「ありがとうございます、ありがたく使わせていただきます」
『アプリ名は追跡君だ。そのままだね。かくれんぼにはうってつけのアプリだから、悪用はしないように』
悪用って。綾は苦笑しつつも通話を切った。既にメールが来ていた。そこには思ったよりも小さな容量のデータが添付されていて、それを開くと自動的にアプリがインストールされた。
早速アプリを起動する。菜桜は八階と九階のちょうど中間で止まっていた。どうやら非常階段で身を潜ませているようだ。
綾は八階までエレベーターに向かった。そして非常階段へ向かう。
果たして、菜桜はそこにいた。階段の踊り場で蹲り、じっと息を潜めている。綾がコツンコツンという足音を立てて近付くと、絶望に染まった顔をした。
「瀬山さん……」
「すみません、菜桜さん。模擬戦の相手をしてくださいますか」
菜桜はがっくしと肩を落とした。そして力なく笑む。
「いいけど、正直鬱陶しいよ? 嫌いになりそう」
「ごめんなさい。でも、私は何が何でもノルマをクリアしないといけないんです」
「私はカモってわけだね。……妥当だけど、ちょっとむかつくなあ。あと期限は一日なんだよね?」
「はい」
「それが過ぎたら、専用の枕になってもらうからね。覚悟してよ」
綾は頷いた。そして二人は演習室に向かった。
*
綾は休憩室で眠っていた。微睡みから醒めると、素早く起き上がった。
近くにはペインキラーこと無畏がいた。綾は事情が理解できずに、彼女の整った相貌を凝視した。
「……そんなに見つめられたら照れますわ」
「あっ。すみません。……あの、私」
「安心なさいませ。眠っていたのはほんの半時間ほどですの。菜桜さまにこっぴどくやられたようですね」
綾は思い出した。苦労して菜桜を見つけ出し、いざ開戦してみると、ものの数秒で倒された。今度は相手の間合いに入らないように注意していたのに、一気に踏み込まれて決められた。防御をしようと霊力を傾注、防具の性能を引き出したが全く効果がなかった。
「あの子、強いですね……。全く歯が立ちません」
銃撃戦で主導権を握ろうとした三城、霊力を奪取することで相手を無力化する鹿取、その二人とは全くタイプが違う。圧倒的な火力で制圧しにくる。小手先でどうにかなる相手ではない。
無畏はくすりと笑う。
「でも、ある意味、良い練習になると思いません?」
「えっ?」
「菜桜さまも、嵐子さまも、そして池添さまも、火力特化の探索者です。一般的な戦士より、むしろ抗体や凶悪な魔物に近い性能をお持ちですわ」「抗体、ですか」
綾はそう言われて初めて気付いた。確かにそうだ。ダンジョンの中を綾が彷徨っていたとき、あの銀色の抗体が一撃で多くの人間を屠っていた。菜桜と対峙したときの感覚は、あの緊迫感と酷似している。
「なるほど……、確かに、良い練習かもしれません」
「練習は何の為にするのか……、瀬山さまはどう思われますか」
「練習は何の為にするのか、ですか。そりゃあもちろん」
本番で成功する為。綾はにこりと無畏に笑みを向けた。
「黒柳さんはそこまで見越して、菜桜さんとぶつけたんでしょうか」
「さて。ブラックモアの考えることは分かりませんの。ただ、感覚を磨くのに菜桜さまはうってつけの練習相手だということは、わたくしにも分かります」
そのとき、綾のケータイが鳴った。黒柳からだった。
「すみません」
「どうぞ、お出になって」
綾はケータイを手に取った。
「もしもし、黒柳さん?」
『あー、綾ちゃん。性懲りもなく菜桜ちゃんが大脱出を図ろうとしてるんだわ。拘束しとくから、早いとこ迎えにきてくれる?』
「分かりました。ありがとうございます」
綾は通話を終えると、追跡君アプリを起動した。なるほど確かに菜桜は一階にいるようだった。
「それは、なんですの?」
「アプリです。菜桜さんの居場所が分かる代物で、小田木さんがくれました」
「まあ。それがあればブラックモアがどこでさぼっているのか一目瞭然ですわね」
「小田木さんに言えば、発信機とセットでくれると思いますよ」
「それは、どうでしょう」
無畏は穏やかに笑む。
「小田木さまは、ああ見えて合理主義者ですの。見返りのないことは進んでしないでしょう。瀬山さまの味方をすれば何らかの見返りがあると判断したので、そのような便宜を図ったのだと思いますわ」
「えっ……」
綾はそれを聞いて不安になったが、無畏は脅すような雰囲気もなく、
「異邦人とはそれだけの存在なのですわ。瀬山さま、周りの声に惑わされず、あなたの信じる道を進むことです。あなたにとってこの世界は見知らぬ異世界。他人が示す指針が正しい方向を向いているとは限らないのですから」
綾は頷いた。そしてベッドから這い出て、休憩室を飛び出して行った。




