菜桜戦・睡余
51、菜桜戦・睡余
峠本菜桜は、加貫総合研究所の戦術研究部において、唯一の青手帳だった。
攻略組のほとんどの面々は、赤手帳以上である。白手帳も珍しくない。緑手帳でも稀なのに、初心者の証である青手帳から卒業できていない菜桜は、異質の存在だった。
超深層での実績は全隊員の中でもトップクラスだが、超深層での戦果は実績値に加算されない。早い段階で才能を見出され、攻略組に抜擢されたがゆえに生まれた歪み、それが青手帳の所持という形で現れていた。
当人は青手帳であることをあまり気にしていない。超深層が主戦場となっている彼女にとって、精霊からの評価など何の参考にもならない。菜桜は精霊たちでさえも手を引いた危険な地帯で勝負している。しかし仮に超深層も精霊たちの評価の対象になっていたとしても、攻略上の不便さえなければ、やはり青手帳でも気にしなかっただろう。
「模擬戦なんて半年ぶりだよ」
菜桜は言った。菜桜が模擬戦に応じることはあまりない。楓からの評価など気にしない。仮に異動となっても構わない。菜桜は戦いに執着するわけでも、ダンジョンの活動を気に入っているわけでも、カネや地位に興味があるわけでもない。
ただ菜桜は流されているだけ。当人は漫然と生きているが、その生まれ持った才能ゆえに特異な人生を歩まされている、そんな主体性のない人間。
演習室で向かい合った菜桜と綾は、軽く一礼した。
「フィールドはどうする? 私としては草原とか沙漠がいいなあ。障害物のないところ」
菜桜が言うと綾は頷いた。
「お任せします。よろしくお願いします」
「はーい」
菜桜は欠伸を噛み殺しながら機器を操作した。間もなく演習室が沙漠へと変わった。
障害物など何もなく、砂塵が風に舞い、視界を遮る。とはいえ、二人は至近距離に立っており、互いの姿を見失うことはなさそうだった。
「瀬山さん……、だったよね。専用の武器は持ってるの」
「いえ」
「そうだよねー、新人さんだもん。でも、私は専用武器使わせてもらうよ」
菜桜は懐から二丁の斧を引き出した。菜桜の専用武器は双竜鉞と呼ばれる。やや小ぶりだが、火力重視の強力な武器である。威力の割に燃費も良く、霊力のキャパシティがそれほど大きくない菜桜にとっては扱い易い武器だった。
菜桜は青手帳である為、専用武器を除けば、強力な武具を装備できない。火力特化は菜桜の性格からするとあまり馴染まない戦法だったが、装備できる武具を組み合わせた結果、このようなスタイルに落ち着いた。
池添のような、敢えて防御を棄てて火力の集中に専念するというのではなく、そもそも菜桜はまともな防御がやりたくてもできなかった。結果的に池添や嵐子よりバランスの取れた戦い方になっているが、菜桜には火力に対するこだわりがないのだから、それも当然の話だった。
「じゃ、始めよっかー」
「は、はい」
菜桜が双竜鉞を構えると、綾も竜剣を構えた。菜桜は首を傾げる。
「あれ。正面からぶつかる感じで?」
「そうなりますかね……」
「あー、なるほど。じゃ、私の勝ちかな……」
菜桜は機動を開始した。瞬間的に綾に接近する。綾は竜剣を構えたが、右手の斧が強力な熱風を噴き出しながら迫った。
綾は驚いた様子で、後ずさった。この時点で勝負ありだった。菜桜の左手の斧が地面に擦れる。すると地割れが発生し、綾の足がすっぽりと亀裂に収まった。
バランスを完全に崩した綾の腹部に斧の尖端を突き刺す。綾は血を吐き――恐らく苦痛は長く続かなかっただろう、瞬間的に休憩室に送られた。
菜桜は嘆息した。あっけない勝負だった。しかし菜桜が勝つとしたらあっけない勝負に限る。長期戦になれば霊力が尽きてまともに戦えなくなるし、探索系の能力は全くないので入り組んだ地形では不利となる。
開戦から十秒。それが菜桜にとって重要だった。それ以上長引けば負ける。それに、あんまり頑張り過ぎると眠りたくなる。眠れないことが菜桜にとっては巨大なストレスであり、ストレスが蓄積するとすぐにきびが出来るので菜桜はうんざりしていた。
「そろそろ寝ないと……。休憩室に枕が待ってるもんね」
菜桜は欠伸をしながら演習室を出た。すると黒柳が待っていた。
「黒柳先輩。言われた通り戦いましたけど? 満足かな」
「まあね。菜桜ちゃんの感想を聞こうかな」
「うーん、分かりません」
菜桜は正直に言った。
「瀬山さんの実力について聞いているんですよね? 私、そういうの測るのに向いてないと思いますよ? 圧勝するか、燃料切れて墜落するか、どっちかですから」
「そうだよね。でも、だからこそ分かることがあるのよね。むしろ、そういう相手と綾ちゃんがどれだけできるのか、私は知りたい」
「へえ? 黒柳先輩の研究対象というわけですね、瀬山さんは」
菜桜は少し綾に興味が湧いた。
「私のときも、黒柳先輩は色々と世話してくれましたよね。ゲームで資産譲ってくれたり、代わりにイベント走ってくれたり、ギルド紹介してくれたり……」
そうやって菜桜は黒柳に買収され、すっかり懐柔されてしまったのだった。他にも黒柳に手懐けられている隊員はいるが、大抵はカネか、弱みを握られているかのどちらかだった。
「あっはっはっは、菜桜ちゃんって扱い易いから助かるわ。立派に成長してくれたわね。一緒にダンジョンに潜れないのが残念だけど」
「黒柳先輩が言ってくれれば応じますよ。眠くないときに限りますけど」
ふわあ、と菜桜はまた欠伸をした。
「そろそろ本格的にまずいので、寝ますね」
「それは困るわね」
黒柳が言った。へえ? と菜桜はきょとんとした。
「えっ?」
「まだ模擬戦が終わっていない。綾ちゃんとまた戦ってもらう」
「いや、ついさっき終わって」
ここで菜桜はぞっとする想像に思い当たった。
「まさか、瀬山さんが私に勝つまでやらせる気ですか!? 拷問ですよ、それ!」
「必勝法の一つね。どうしたって霊力の消費が多いのは菜桜ちゃんのほうだし、それがなくともあなたは集中力が続かなくって、何回も戦っている内に初歩的なミスを連発するようになるし」
「そんな! 私、超深層から帰ってきたばかりなんですよ! 寝させてくださいよぉ」
「ご愁傷様です」
黒柳は笑み、立ち去ろうとした。菜桜は黒柳の腕を掴んだ。
「こらこら、離しなさい」
「いやですっ! 私から睡眠を奪ったら何が残ると思います?」
「うーん、寝不足の菜桜ちゃん?」
「骨と皮です! それとニキビぃ!」
「うっわ、菜桜ちゃんらしくないわよ。そのハイテンション」
「そうさせてるのは先輩なんですけど! 怒りますよ!」
菜桜は既に怒りながら言った。さしもの黒柳も可哀想に思ったか、何度も頷きながら菜桜に向き直った。
「分かった、分かった。でもさ、綾ちゃんがあなたと戦いたいって言ったら、絶対に受けないと駄目なんだよ? 楓ちゃんがそう決めたんだから」
「それは知ってますけど……」
「私は綾ちゃんに、『何度も菜桜ちゃんに挑みなさい。勝つまでやりなさい』なんて指示を出していないわ」
「え?」
黒柳は微笑む。
「菜桜ちゃんと戦いなさい。としか言っていない。彼女は一度戦っただけで満足するかも。でも、あるいは自主的にあなたの弱点に気付くかもしれない」
「……どういうことなんですか」
「素直にあなたの枕になってくれるかもね。ま、オススメはしない。むしろ綾ちゃんから逃げたほうがいいと思うけどなあ。少なくとも今日一日はさ……」
菜桜はぞっとした。今日一日、ずっとあの綾に追いかけ回されることを。寝るどころではない。
いっそのこと模擬戦の申し出を断ろうか。そうすれば楓から目をつけられることは確実だが、こんな激務が続くなら攻略組から外されたとしても……。
ただ、菜桜は知っていた。攻略組以上に菜桜の希望を容れてくれる機関は存在しないことを。忙しいときはとことん忙しいが、普段はいくら昼寝をしていても怒られない。実力さえ伴っていればいいのだ。これでしっかり高給が出るのだから、こんなに美味しい話はない。
「はあ……、一応、ここが踏ん張りどころなのかなあ。ダンジョンで戦うより緊張してきた」
「おっ。菜桜ちゃん、やる気になった?」
「目の下に隈出来てません? あーあ、もうやだ……」
菜桜はケータイを取り出し、電源を切った。おっ、と黒柳が目を丸くする。
「どういうつもり?」
「もし瀬山さんが私の連絡先を知って、電話で模擬戦を申し込んで来たら、もう断れないじゃないですか」
「……つまり」
「逃げますよ。当然でしょ。瀬山さんから申し出を受けない限り、彼女から逃げまくっても模擬戦を断ったことにはならない」
「あははは。そんなに戦うの、嫌なんだ」
菜桜は黒柳を睨みつけた。
「黒柳さんは知らないんだ。霊力切れを起こした後の睡眠は最悪! 悪夢付きの場合だってあるんですよ」
「へえ、どんな悪夢見るの」
「もちろん、睡眠不足の夢ですよ!」
黒柳は虚を突かれた顔になり、あはははと笑った。
「筋金入りね。やっぱり好きだわ、菜桜ちゃん。ま、頑張って。一つアドバイスしておくと、綾ちゃんの覚悟は本物よ。あなたも相応の覚悟が必要よ。逃げるにしても、戦うにしても」
「はい。まあ、戦わないですけどね」
菜桜は走り出した。エレベーターを目指す。この施設から抜け出してしまえばもう綾と遭遇することはないだろう。近くの公園にでも行って寝るか。あるいはいっそのことホテルで部屋を取って籠城するか。それがいいかもしれない。どうせカネは余っている。安眠グッズを通販でしこたま買ってもまだ貯金はたんまり残っていた。
「ホテルか……。本当だったらケータイで予約すればいいけど、下手に電源を入れると瀬山さんからかかってくる危険もある。それを無視したらどうなるんだろう……、模擬戦を断ったことになるのかな」
菜桜には判断がつかない。結局ケータイには頼らないことにした。
エレベーターに辿り着く。周りには人の気配がない。菜桜はにやりと笑んだ。どうやら簡単に逃げられそうだ。綾には悪いが、このまま姿を消させてもらう。既に一回戦ったんだからいいよね。いいはずだ。
エレベーターの扉が開いた。中には池添が入っていた。菜桜の姿を認めて驚く。
「あれ。綾さんと模擬戦をしてたんじゃないのか。もう終わったのか」
「圧勝。下に降りたいんですけど」
「そうか。……お前、大丈夫か」
「何がですか」
「いや。……目の下に隈が」
「えっ」
菜桜は手鏡を取り出して、自分の顔をまじまじと見た。本当だった。隈が出てきている。
「うっ、寝不足が祟って……」
「寝不足って、お前さんざん寝てたじゃないか。……ていうか誤解してたよ、お前って単に怠惰な奴だと思ってた。凄まじいほどのロングスリーパーだったんだな」
今すぐ寝ないとにきびが発生して気色の悪い液体がそこから噴き出すだろう。菜桜は眩暈がした。眠い、眠い! もう綾にわざと負けてあげようか? そうすればもうこんな思いからは逃れられる。
いや、本気を出さないのはまずい。楓が見逃すとは思えない。菜桜は首をぶんぶんと振った。
「一緒にホテル行きましょう」
「えっ?」
「眠いんです! もう限界が近いので、ホテルの部屋の予約を取ってください! 私は池添さんの背中で寝ますので!」
「おいおい、女の子を背負ってホテルの部屋を取るなんて、まるで俺が誘拐者みたいじゃないか。嫌だよ」
そのとき池添の電話が鳴った。菜桜は嫌な予感がした。
「出ないで!」
「え? いや、そんなわけにはいかんだろ。……あ、瀬山さんからだ」
「いつの間に連絡先交換したんですか、手が早いなあもう!」
「おいおい、そんなんじゃねえって。ていうかテンション高いな、お前。……はい、もしもし。え? 菜桜なら今、一緒にいるけど」
「池添さんの馬鹿!」
菜桜は叫び、エレベーターから池添を蹴り出した。そして下の階へのボタンをプッシュする。
扉が閉まる直前、池添が暢気な顔をして通話をしている。
「ああ、今、下の階に行くみたいだ。たぶん一階に行って、外に出るつもりじゃないかな……」
どうしてそこまで話してしまうのか。菜桜は気が狂いそうだった。眠い、眠い、眠い! エレベーターの壁に寄りかかって大きく息を吐いた菜桜は、くっきりと浮かび上がった目の下の隈を指でなぞりながら、どこへ逃げるべきか考えていた。




