鹿取戦・絶望
45、鹿取戦・絶望
綾は大演習室の中央に立っていた。洞窟のダンジョンが出現し、周囲が土壁と岩に変わる。視界は限定され、道も制限される。湿り気のある空気がたちこめ、それでいて風はない。開放的な沼地のフィールドとはかなり違う。
ダンジョンの深層では、この洞窟のフィールドで長時間過ごした。そういう意味では慣れているはずだが、視界が確保されないというのは精神的にかなりくる。琴歌と合流してからは照明系、レーダー系で不自由を感じたことがなかった。だから初めてダンジョンに放り込まれたときの感覚と似ている。
ここは演習室の中であり、薄暗いが視界が完全に闇に没しているわけではない。動けないことはない。しかし、鹿取の持っている武器があの短剣だけだとすれば、間違いなく近距離戦を仕掛けてくるはずであり、不用意に動くのは得策ではない。
綾は壁に背をつけて、じりじりと進んだ。曲がり角では慎重に身をずり動かして、不意打ちを喰らわないように注意した。手には竜剣を握っている。咄嗟に近距離戦を仕掛けられたとき、すぐに対応できるようにしていた。
相手の武器は一種しかない。この事実は綾を元気づけた。相手は明らかに自分より格上だが、最初の一撃さえ凌ぐことができれば、攻略法を見つけたも同然だ。三城戦よりもシンプルな攻防となることは予想できた。
しかし気になるのは、鹿取と模擬戦を行うこととなったときの、周囲の人間の反応だ。彼らは意地の悪い笑みを浮かべていた。やはり鹿取の短剣は特別な効果を持っているのか。よほど凶悪な力なのだろうか。
綾は油断など絶対にしていなかった。常に周囲に気を配っていた。移動するにしても、隙が出ないように慎重にゆっくりと躰を動かしていた。
それなのに。突如、目の前に鹿取の巨体が現れた。短剣が降り下ろされる。綾は短く息を吐き、盾を掲げた。
透明化していたのか? 琴歌が過去に武具を透明にしていたり、爆弾を仕掛けたりしていた。あるいはコウキが自身を透明にして魔物から逃げていたこともある。それを使われたのか。
盾に衝撃。点防御はできなかったが盾の性能は問題なく引き出せた。
ダメージはほとんどない。綾は竜剣を振りかぶった。鹿取は短剣を構えたまま至近距離にまだいる。
当ててやる。これで終わりだ。鹿取の動きは鈍い。
竜剣の刃が鹿取の脇腹に入った。しかし手応えが全くなかった。よくよく見ると竜剣の刃が炎を纏っていない。霊力の傾注に失敗した。綾は驚愕した。初めて竜剣を使ったときでさえ、こんな失敗はしなかったのに。
鹿取は全くのノーダメージだった。口の端を持ち上げて綾を見据える。
「どうした、瀬山綾。お前、武器もろくに使えねえのかよ? それじゃあ南條にも勝てないだろうな」
「そんなことっ!」
何かがおかしい。鹿取が再び短剣を振り上げる。緩慢な動き。大丈夫、機動靴を使えばすぐに回避できる。
霊力を足元に集める。
機動靴がすぐに綾の躰を運んでくれるはずだった。
それなのに綾は動けない。自らの筋肉で後ろに小さくステップしただけだった。
「うっ……!?」
「喰らえ」
鹿取の短剣が眼前に迫る。急所に当たって終わり。防具に霊力を回そうとしたが、機動靴が発動しなかったように、防具にも霊力が行き届かない。
やられる。
終わりだ。
短剣が綾の肉を切り裂く。
短剣が襲ったのは、綾の腕だった。急所ではない。血が流れ、痛みが走る。綾はよろけ、尻餅をついた。
鹿取はそんな綾を見下ろしていた。
「知っているか、瀬山綾。この演習室は、本物のダンジョンと同じく、精霊の加護を受けている」
「えっ……?」
「だからこの中で死亡しても帰還石を使ったときのように無事に帰還できるし、痛みも緩和してもらえる。そして、睡眠を取らなくとも平気だし、食事も必要ない」
綾は腕の傷を押さえながら後退した。尻餅をついたままなので無様な格好になる。
「……それがなんだって言うんです」
「お前、随分焦ってる様子だったが……。佐久間部長からの通告も併せて考えると、ノルマか何か課せられてるのか?」
綾は黙り込んだ。三日以内に三勝。この条件を話すべきか。きっと黙っているほうがいい、しかしそこを勘繰られた時点で知られたも同然である。
「私の事情に興味があるんですか」
「あるね。大いにある。南條を狙ったのも、手っ取り早く戦績が欲しかったからだろう。戦績が重要なのはお前だけじゃないんだ、悪いが諦めてもらうぜ」
綾はよろよろと立ち上がった。鹿取とはできるだけ距離を空けたかった。どういうわけだか霊力のコントロールが不能になっている。あの短剣の攻撃が原因なのだろうか。
「諦めるかどうかは分かりませんが……、どうしてそこまで南條さんを庇うんです」
「南條は俺たちの希望なんだ。苛酷なダンジョンで、奴だけが救いとなる」
大袈裟な言葉だと思った。しかし、超深層の攻略において支援タイプの人間が極めて重要なのかもしれない。綾は首を傾げた。
「本当に必要な人員なら、楓さんがクビにはしないのでは? それに、南條さん自身は私と模擬戦をやってもいいと言っていましたよね。ちょっと過保護なんじゃないですか……」
「黙れ!」
鹿取が叫んだ。
「もし、南條と模擬戦をやらないと約束するなら、即刻始末してやる。霊力を全て奪わせてもらうが、せいぜい半日で全快するだろう。だが、もし南條とあくまでやるつもりなら……」
綾は鹿取の言葉に気を取られた。霊力を奪うだって? それがあの短剣の能力なのか。
「……やるつもりなら。何です?」
「一週間は再起不能になってもらう。霊力の枯渇は、帰還石の効能でもカバーできない。俺の短剣は霊力を根こそぎ奪う。それは通常の武器を使用していて霊力切れを起こした状況とは、全く違う」
鹿取は綾に近付くどころか後退し始めた。
「油を切らして錆びついた歯車のように、人体に不調をきたす。軟弱な奴は寝込むかもな。まあ死ぬことはないだろうが、それに近い状態まで症状が悪化することもあるかもしれん」
鹿取は洞窟の闇に溶け込んだ。綾は追い掛けたくとも足が動かなかった。がくがくと震えている。
「霊力を完全に吸い尽くすまで数分ってところか。普段は無尽蔵の霊力を溜め込んでいる抗体を相手にしているからな。人間相手だと、仕事が速いぜ」
綾は気配を感じて振り返った。綾の脳天から細くて白い筋が出ている。それは小さな太陽のような光り輝く球体まで伸びている。光り輝く球体は綾の手が届かない程度の空中に浮かんでおり、徐々に大きくなっている。
綾の躰から霊力を吸い取り、蓄えているのか。綾は球体に触れようと腕を伸ばしたが、球体はスススと空中を動いて避けた。
「な、なにこれ……!? この球体……? それに私の脳天から白い筋が……」
「その筋は霊力の流れ。俺の短剣の攻撃を受けた人間は、徐々に霊力をその球体に奪われる。完全に奪い尽くされると、その球体はキューブ状になり、回収することができる……。普通は魔物や抗体に使うが、人間相手にも通用する」
鹿取の姿はもう見えない。綾は竜剣でその球体を刺そうとしたが、届かない。えいやっと投げてみたが、すれすれで躱された。
「ムダだ。何をしてもその球体に触れることはできない。さあ、事態を理解したか。南條と模擬戦をするのをやめろ。俺と約束をするんだ。言っとくが、モニター越しに大勢の人間がこの会話を漏れ聞いている。誤魔化しはできない」
綾は力が抜けていくのが分かった。もう鹿取の短剣を喰らったら逃れる術はないというのか。
このまま霊力を奪われたら、三日以内に三勝という目標は果たせなくなる。迷っている暇はなかった。元々敗北を覚悟で受けた勝負。南條と戦えないのは痛いが、そんなことを言っている場合ではない。
「わ、分かりました。もう南條さんとは模擬戦を行いません。だから……」
「本当か? 本当に約束するのか」
「はい。約束します。ですから、決着をつけてください」
「そうか。ふっ、物わかりが良いな」
鹿取の声が背後からした。綾が振り返ると、闇から彼が現れたところだった。綾は脂汗をかいていた。試しに盾に霊力を注ごうとするが、上手くいかない。よくよく観察すると、全く霊力がいかないわけではない。しかし霊力を吸い取られている関係で、コントロールが不能になっている。外部からの干渉で体内の霊力の流れが不安定になっているというところか。
鹿取がにやにやしながら近づいてくる。
「ところで、興味本位で聞くんだが、部長からどんなノルマを課せられたんだ。一週間寝込んでたら達成できないようなノルマか」
「三日以内に、攻略組の方々のいずれかに三勝……。もう一日過ぎましたから、あと二日ですね。それがノルマです」
「ほう!」
鹿取は大笑いした。
「なるほどな! 一週間も必要なかったわけだ。お前が正直に話してくれた礼に、俺も正直に言うぜ。俺は今、この短剣しか武器を持っていない」
「は、はい。知っています。それが何か?」
「この短剣は相手の霊力を奪うことはできるが、殺傷能力は全くない。これで何度切りつけようとも、相手を殺すことはできないわけだ」
綾は頭の中が真っ白になった。
「何ですって?」
「だから俺はお前を始末することができない。お前の霊力が完全に切れて、気絶したら、帰還石が発動して休憩室まで連れて行ってくれるだろう。だが目覚めるのに、一週間はかかるだろうな」
綾は強烈な怒りを覚えた。約束と違う。
「だって……! さっき、半日くらいで全快するって……!」
「すまんな。それは嘘だ。人間なんだ。嘘くらいつくだろ」
「でも……! そんなこと……!」
「許されない、とでも? そうかもな。こんなときに嘘をつくのはフェアじゃない。道徳的には非常に問題がある。しかし、だからって何だっていうんだ?」
鹿取は開き直り、綾を見てせせら笑う。
「お前に何ができる? 一週間後に目覚めて、俺を訴えるか? 俺にペナルティでも求めてみるか? 佐久間部長は厳格で不正を嫌う、もしかしたらお前の味方をしてくれるかもな。しかし、それでお前は満足するのかな?」
「何を……!?」
「お前のような、チームの和を乱すような輩は、早い内に潰しておかねえとな。悪く思うな、俺たちと南條は、今のところ上手くやってるんだ。お前ごときに壊されるわけにはいかねえ」
鹿取は再び後退し、姿を消そうとした。
こんなことがあってたまるか。
綾は地面に転がっていた竜剣を拾い上げ、鹿取に突進した。鹿取は完全に綾を舐めていた。回避する素振りさえ見せなかった。
ぶち込んでやる。竜剣よ、応えろ。
この怒りに応えろ!
竜剣の刃が燃え上がった。鹿取がはっとする。
「馬鹿な!」
綾は竜剣を叩き込もうとした。しかし鹿取の動きは俊敏だった。目の前から消える。綾が気付いたときにはかなり遠くまで後退していた。
「……普通は霊力を吸われてる間、霊力の流れに乱れが生じ、まともに武器を扱えなくなるんだがな」
鹿取は再び闇に溶け込もうとしていた。
「しかし、噂に聞いたことがある。制圧部隊の姜とかいう男は、その乱れを逆に利用し、武器の性能を爆発的に引き上げるという。なかなか高度な技術で、変態的とも言える、半ば曲芸だが」
綾は力が抜けていくのが分かった。鹿取が離れていく。接近しなければ。この竜剣をぶち込んでやらなければ。
まずい。負ける。それはすなわち、琴歌を助けに行くという目的が果たせなくなることを意味する。
「焦る必要はねえ。俺は遠くからお前が霊力切れを起こすのを見守っているよ。実のところ、この短剣しか武器を持っていないから、そうするしかないんだがね」
綾は声のしたほうへ歩み出した。機動靴に霊力を注ごうとしたが、上手くいかない。一瞬だけだ。一瞬だけ竜剣を発動させることができただけで、やはり霊力のコントロールはできていない。
仮に竜剣を自在に扱うことができたとしても、そこまで鹿取に接近するのは極めて難しい。綾は絶望した。
あと数分で霊力を全て奪われる。焦りが綾を支配した。鹿取の声も気配も、もう全く感じなくなっていた。薄暗い洞窟の中を、綾はよろよろと歩き出した。
「姿を見せろ……! 鹿取さん、逃げないで……!」
綾は重くなり続ける足を叱咤しながら、洞窟の迷宮を彷徨い歩き続けた。




