慈悲深きペインキラー
43、慈悲深きペインキラー
加貫総合研究所には宿舎が併設されており、綾にも一部屋あてがわれていた。
手ぶらでここに来た綾は、部屋に最低限の日用品や什器があるのを見て安堵した。ふかふかのベッドに、冷蔵庫、キッチンにはガスコンロが三つある。新品のまな板と包丁を見て、料理する暇がないのを少し残念に思った。
ベッドに腰掛け、テレビを付ける。音量は最低にした。携帯電話を懐から取り出し、自宅にかける。
数回のコール。電話から出たのは綜太だった。
『はい、瀬山です』
「あ……、綜太? 綾だけど」
『姉ちゃん!?』
すぐに綜太の声が聞こえなくなった。代わりに飛んできたのは母の叫び声だった。
『綾! 無事なの!? 今どこにいるの!?』
「無事だよ。心配しないで。都内の研究所にいるよ」
「変なことされてない? 嫌なことは? すぐに帰ってきなさい。皆待ってるわよ」
綾は辟易した。帰るわけにはいかない。まだ模擬戦で一勝もできていない。すぐに誰かと戦おうとしたのに、黒柳が部屋に戻ってもう少し休憩したほうがいいと指示した。綾はいまや黒柳の弟子みたいになっていた。その言葉には抗うことができない。
「大丈夫だよ。心配しないで」
『いつ帰ってくるの? 私、政府に苦情を入れまくってやったのよ。ダンジョン管理局とか、市役所とか、学校とか! どこに言っても管轄外とか言われて、頭に来ちゃった』
そりゃあ、そうだ。綾がいるのは政府直轄のシンクタンク。ダンジョン管理局等とは全く別の組織で、そこからではどうにもできないだろう。
「近い内に帰るよ。五体満足でね。また電話するから」
『ちょっと待って! そっちはどんなところなの? 本当に変なことされてないでしょうね? 危険なことはちゃんと断るのよ! 分かってるの?』
「……じゃあね」
綾は電話を切った。長話をする気はなかった。向こうからまたかかってくるかと思ったが、携帯電話は沈黙したままだった。
綾はほっとした。そして電話を放り投げ、ベッドに寝そべった。
勝ち目のない戦い。ひょっとしたら、という瞬間もあった。だが三勝という目標があまりに遠い。
模擬戦を何度でも挑めるのなら気が楽だが、実際は霊力の回復を待たなければならない。ギフトの霊力回復薬は連続して使用すると効果が鈍化し、やがて全く効かなくなるので、隔離ダンジョンへの探索を控えている今は、あまり頼ることができなかった。どんなにうまくスケジュールを管理したとしても、一日に一〇戦が限界。現実的には七,八戦くらいが目安となるだろう。もう一日目は終わり、残るは二日。実際には、綾にはそれほど多くの機会が与えられているわけではない。
負けてもいい、そんな覚悟で戦っていたらあっという間に時間が尽きる。どうすれば勝利できるのか、それを突き詰めて考えなければ、隔離されたダンジョンに挑むことはできない。
「もしもし」
ドアにノックがあった。女性の声。綾は跳び起き、扉を見据えた。
「……どうぞ。鍵はかかっていません」
綾が言うと、扉が開き、長身の女性が入り込んできた。透き通るような銀髪とぞっとするような白皙、北欧の妖精のような純白のドレスを身に纏い、とても日本人には見えなかった。
綾は緊張した。いったい何者だろうか。この人も攻略組の一人? 綾は立ち上がり、部屋の真ん中で謎の女性と向き合った。
「ど、どなたですか」
「突然失礼いたします。ブラックモアの指示で参上しましたの」
女性は涼やかに笑む。ブラックモアって何だ。綾は困惑し、はあ、と頷くことしかできなかった。
「ブラックモア……、さんの、指示……?」
「わたくしの名前は上橋無畏。ムイとお呼び捨てくださいませ。さあ、こうしてはいられませんっ」
無畏と名乗った女性は綾の肩を掴んだ。そして方向転換させ、ベッドに押し倒す。
「えっ!? あの……」
「本日だけで休憩室に二度も運ばれたそうですね。霊力を過度に出し入れすることは躰に良くありませんの。美容にも障ります。ですから触ります」
「は?」
無畏は綾を仰向けにし、太腿のあたりをさすった。綾はびくりとした。
「ま、マッサージ師の方ですか? もしかして黒柳さんの指示で?」
「そういうことです。ご安心なさってください」
ブラックモアというのは、もしかして黒柳のことだろうか。確か黒柳の下の名前はモアといったはずだ。綽名みたいなものだろう。
「わ、私、マッサージとかいいです」
「三日以内に三勝。事情はブラックモアから聞きました」
無畏は慈母のような笑顔を見せながら言う。
「あなた様が異邦人であるということも。正直言いますと、わたくしは戦闘の初心者である瀬山様が、戦術研究部の面々に三勝できるとは到底思えません。しかしあのブラックモアがわたくしに力を貸せとわざわざ頼ってきたことを考えると、可能性がないこともないのでしょう」
綾は頭を掻いた。別に隠しているわけではないが、勝手に話されてしまうのはまずい気がする。あの人、いかにも口が軽そうだからなあ……。
「協力してくれるんですね……。マッサージで」
「マッサージを甘く見てはいけませんよ。わたくしは霊力の源泉たる供給能を活性化させ、肉体の疲労を取り除くことができます。霊力の回復を早めることも可能ですの」
綾ははっとした。そう、それこそが最も重要だ。黒柳ことブラックモアは、綾がより多く模擬戦をこなせるように配慮してくれたのか。
「瀬山様。ブラックモアから伝言を預かっております。『しばらくは特訓でちゅよ』と」
綾は首を傾げた。
「特訓……、でちゅよ?」
「はい。一言一句そのままお伝えしました。わたくしの意見を述べさせていただきますと……、しばらく模擬戦は中止して、トレーニングに徹するということではないでしょうか」
そんな。確かにトレーニングは必要かもしれないが、時間がない。せっかく霊力が全快しつつあるのに、模擬戦をしないというのはもったいない気がする。
綾はそう思いつつも、無畏に促されるまま、マッサージを受けた。太腿をさすられる。衣服越しだったが、無畏の柔らかな指先を感じた。まるで荒廃した畑を耕しふかふかの土を取り戻したかのような心地良さがある。太腿の肉に食い込む彼女の指は適度な熱を帯び、じわりじわりと快さが広がっていく。
「あっ……。すごくいいですね、この感じ。眠くなります」
「どうぞ眠ってくださいませ。……と普段なら申し上げるところですが、この後瀬山様はブラックモアとのトレーニングが入っているとのことです。すぐにマッサージは終わりますからそのままにしてお待ちくださいませ」
「はい」
綾は無畏のマッサージを受けながら考えていた。トレーニング。たかだか数日のトレーニングでどれだけ強くなれるのか。実戦で勘を掴んでいくほうが可能性は高いように思う。もちろん、黒柳の配慮には感謝している。しかしこれは結局は綾の問題であり、必要とあらば黒柳の申し出を断ることも視野に入れておかなければならない。
「瀬山様。ブラックモアは信頼に足る女ですの」
「えっと、黒柳さんのことですよね」
「俗世では彼女はそう名乗っているそうですね」
「ぞ、俗世……!?」
只ならぬ単語だった。綾が困惑していると無畏は笑んだ。
「彼女とわたくしは古くからの付き合いで、ブラックモアは愛称ですの。気にしないでくださいまし」
「は、はあ……?」
綾はマッサージを受けながら、なるほど、霊力が回復するのが早まりそうな気がした。躰がほかほかして、汗が出てきた。しかしさらさらとした良い汗で、べたつかない。躰の老廃物を排出して代謝が良くなったような気がした。
気持ち良くマッサージを受けていると、部屋の扉が突然開いた。
鼻をひくつかせた黒柳がそこに立っていた。
「こら、ペインキラー! マッサージはほどほどにって言ったでしょ。綾ちゃんも、そこでとろけてないで、小演習室に行くよ!」
「は、はい!」
綾は慌ててベッドから起き上がった。無畏は残念そうだった。
「つい、完璧に治癒させるまでマッサージを続けてしまう癖が出てしまいました。瀬山様、わたくしはしばらくリラクゼーション室におります。トレーニングに疲れましたらそこにお越しください。優先して施術いたしますので」
「ありがとうございます、無畏さん」
にこり、と無畏は笑んだ。綾はその笑顔をにっこりとして受け止めた。そんな綾を黒柳は引き摺り始める。廊下に出た。
「駄目よ、綾ちゃん。ペインキラーにゾッコンになるのは」
「ペインキラーって、無畏さんのことですか?」
黒柳と無畏は、お互い愛称で呼び合うのだな。綾はそれが何だか微笑ましく感じた。
「ペインキラー……、つまり鎮痛剤ね。彼女のマッサージは、我が攻略組の生命線と言ってもいいものよ。ただし、彼女は劇薬でもある」
「どういうことです」
綾は黒柳の腕から逃れ、自分の足で歩きながら尋ねた。
黒柳は真面目な顔になりつつも、
「彼女のマッサージには中毒性があるの。攻略組の面々が断固として内勤に飛ばされないようにする理由は、彼女の存在にあるとの説も」
「そんなに大袈裟なことなんですか」
「あと、彼女に惚れた男性職員が、彼女にマッサージしてもらう為に厳しいトレーニングをして自分を苛め抜くことで、結果的に部隊全体に能力を大幅に引き上げているという説もあるわね」
もしその話が本当なら、確かに生命線となるだろう。綾は完全に納得できないまでも、彼女が貴重な存在であるということは理解した。
「ところで黒柳さん、トレーニングって何をするんです……?」
「んー? 攻撃のレッスンかな」
「攻撃、ですか……」
黒柳は頷く。
「そう。防御とか回避は、ぶっちゃけ本人の勘とセンスに頼るところが大きいし、実際戦闘となれば、絶対の正解なんてないの。でも攻撃に関しては、こちらの攻撃手段が限られる分、最適解が存在する」
ま、私個人の見解に過ぎないけど。黒柳は肩を竦める。
「私は攻撃のスペシャリストじゃないけど、綾ちゃんの攻撃を受けることはできるから、そっちで協力できる。サンドバッグになってあげようって言ってんのよ」
「ありがとうございます、そこまでしていただいて……」
ただし。黒柳はにやりと笑った。
「ろくに殴り方も知らない奴がサンドバッグで拳を痛めてしまうように。私を殴るのもタダでは済まないわよ」
綾は唾を飲み込んだ。そして決然と頷いてみせた。
「やらせてください、お願いします!」
「うーん、良い声だ。じゃ、頑張りましょうか!」
*
確かに綾はこれまで、攻撃に関して何らかの工夫を施したことはなかった。防御や回避で上手くやることはあっても、攻撃で相手を上回ることはなく、明らかに不足している分野だった。
黒柳を相手に、竜剣、銃、そして素手による攻撃を試した。一方的に攻撃しているはずなのに、疲弊するのは綾のほうが早かった。黒柳に傷一つつけることができなかった。
「不思議ねえ……。綾ちゃん、武器の扱いがあんまり上手くないわね。それでよく深層のダンジョンから帰還できたわね」
へばって床に突っ伏していると、黒柳が頭上から言う。綾は息を荒げながらも答えた。
「琴歌さんが助けてくれたおかげです」
「ふうん。でも、その琴歌って人が最初から最後まで一緒にいてくれたわけじゃないでしょ。現に、こうして離れ離れになっているし」
綾は頷いた。
「そうですね……、確かに窮地に立たされたこともありました。でもそのときは、うまく抗体のコアを利用して攻撃したり、都合良く助けが入ったりして、何とか」
黒柳が躰をびくりとさせた。それにつられて綾もぎょっとした。
「え? 私、変なこと言いました?」
「い、いや……。聞き間違いだと思うけど、抗体のコアを利用して攻撃した、とか言った? まさかね……」
「い、いえ。言いましたけど。抗体のコアから霊力を借りて、銃を撃ったことがあります」
「はあああああ!?」
黒柳は綾の肩を掴んで揺さぶった。
「ほ、本当に? 本当にそんなことを?」
「は、はひ……」
頭がクラクラするくらい揺さぶられ、綾は何とか答えた。黒柳はうーんと顎に手を当てて考え込む。
「……綾ちゃん、それ、誰にも言わないほうがいいね。少なくとも、隔離ダンジョンへの救出作戦が終わるまでは」
「何かまずいですか」
「まずいというか。綾ちゃんってやっぱり特別な存在なのかもしれない。異邦人である、というだけではなくてね……。うーん、攻撃のレッスン、ここまでにしておこうか」
「えっ!? どうしてですか」
「なんか、急に協力したくなくなった。ごめんね」
そう言って黒柳は本当に背を向けて小演習室を出て行った。取り残された綾は、しばらく放心した後、慌てて追いかけた。
「待ってください、黒柳さん! 指導半ばでほっぽり出すなんて! お願いです、もっと色々教えてください!」
「うーん、駄目。もし私のことをモアちゃんって呼んでくれたら考え直してもいいけど」
「モアちゃん!」
「あ、やっぱり駄目。じゃあね」
黒柳は手をひらひら振って立ち去った。綾はなおも追いかけようとしたが、肉体の疲労がたたって、何もないところで躓いてしまった。
いったい、何なんだ。綾はワケが分からなかった。
疑問を抱きつつも、リラクゼーション室に向かった。言葉通りペインキラーこと無畏が待機していた。
「あら、ブラックモアは一緒ではないのですか?」
「いきなり、協力するのはやめた、と言われました……」
「あらあら」
無畏は微笑んでいた。
「ブラックモアと秋の空。……といったところですね。まあよくあることですの。そう気にすることはありませんわ」
「そうなんですか……」
抗体のコアを利用した。それを言っただけなのに。もしかして無畏も同じような反応をするかもしれない。マッサージを受けられなくなるかも。そうすれば霊力の回復が遅れ、支障が出る。もうこの件は口外しないほうがいいのかもしれない。
「黒柳さんが、無畏さんに私を世話するよう頼んだんですよね?」
「はい。ですが『もう世話するな』とは言われてませんから、わたくしは最後までお付き合い致しますよ」
「ありがとうございます」
綾はとりあえず安堵した。攻撃のレッスンは小一時間で終わったが、掴めたものは多かった。これを実戦で生かす。しかし問題は対戦相手をどうするか、ということだが……。
「あの、無畏さん。模擬戦の相手って、どんな人がいいんでしょうね……」
「あら、わたくしにそれをお聞きに? そうですね、攻略組の中では、やはり、支援型の人間を狙うのが、最もベターでしょうね」
「支援型、ですか……」
「まあ、部内では三人しかおりませんが。ブラックモアと、わたくしと、南條将基様です」
「南條、将基さん……」
まだ見ぬ南条という人間。何が何でも勝たなければならない。まずは一勝。綾はマッサージを受けながら、戦いのイメージを膨らませていた。




