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 トイレにでも行ったのだろうか。

 慌てて長椅子に駆け寄り辺りを見回すと、女性用手洗いの表示はすぐに武司の視界に飛び込んできた。急ぎ足でトイレの前まで行き、大声でユキノの名前を呼んでみる。が、返事はない。

「ユキノ! いるのか?」

 もう一度呼んでみる。

 中から手を拭きながら出てきた若い女性が、

「中、私だけでしたよ」

 と教えてくれた。

 武司は頭を下げるとその場を逃げるように離れた。

 恥ずかしさと苛立ちがこみ上げる。思わず舌打ちをしてしまった。必死で周囲を見渡すが、見慣れた白髪の老婦人の姿はない。

 仕方なく総合案内のカウンターに向かった。カウンターには中年の男性職員が座っており、百貨店の店員のような笑顔で武司を見た。

「すみません。妻がいなくなりました。さっきまでここに座ってたんですが」

「はい?」

「……その、ちょっと、ボケてまして……。自分で何処にいるのかいまいちわかっていないと思うのですが」

 言葉が喉の途中で引っかかる。大の大人が迷子だなんて恥ずかしいという思いと、ボケた妻をほったらかして何をしていたのかと非難されるのではないかという後ろめたさが心の中でくるくると回っていた。

 武司の葛藤を知ってか知らずか、職員は極めて事務的に名前や服装について、てきぱきと質問を重ねメモを取っていく。そして、手元の受話器を取り上げた。

「総合案内の須藤です。お疲れ様です。病院内で迷われたそうで、捜索お願い致します。坂本ユキノ様、白髪で白いセーターにベージュのズボンです。会計の前からです。……いえ、そんなに長い時間じゃないそうです。会計を済ませる、ほんの数分で……。ええ、遠くにはいないと思います……」

 しばらくのやりとりの後、職員は電話を切ると武司に向き直った。

「警備の者が手分けして院内を探します。ご主人は警備室の方でお待ち下さい。大丈夫。すぐ見つかりますよ」

「……すみません、お手数おかけします」

 武司は唇を噛み締めながら頭を下げるしかなかった。

 職員に案内され、警備室に通された。部屋の奥には警備員の休憩室があり、石油ストーブが赤々と燃えていた。

 その前でパイプ椅子に座り、じっと待ち続ける。制服姿の若い娘がお茶を持ってきてくれたが、手をつける気にもならなかった。やはり誰かに預けてくれば良かった。連れてきたのは間違いだった。武司は自分の爪の先を見つめながら、そんな事ばかりを考えていた。

 三十分ほどして先ほどの男性職員が足早に部屋に入ってきた。

「坂本さま、奥様が見つかりました。……今、整形外科にいらっしゃいます」


 武司が整形外科に駆けつけるとユキノはレントゲン室に入っているとの事だった。

 武司が会計に向かった後、どうやら手洗いを探してユキノは席を立ったらしい。だが、武司にはすぐに見つけられた手洗いの表示にユキノは気付かず、玄関から表に出てしまったのだ。ターミナルになっている玄関から隣の別館に入り込み、たまたま目に入った階段を上がろうとした。途中まで上がって足を踏み外し、転落したらしい。たまたま居合わせた看護師がすぐにユキノを整形外科の診察室に担ぎ込んでくれた。

 整形外科の待合室でじりじりしながら武司は待った。ようやく看護師が呼びに来た時には二時間が過ぎていた。

 武司は診察室に通された。医者の横にある白い診察台は空だ。武司はユキノの姿を探したが診察室にはいないようだった。

「まあ、座って」

 突き出た腹の中年の医者が手招きをした。武司は医者の前の椅子に座った。医者の前に座るのが今日二回目である。

「ええっと、坂本武司さんですね? 内科受診されてたって? 間違いないですか?」

「は、はい」

 医者の面倒くさそうな口調に、武司は小さくなって答えた。

「奥さんね、階段から足踏み外したそうで。折れてました。これね」

 レントゲン写真をぺこぺこと鳴らしながら、白い光の溢れているボードに差し込む。薄い影の骨盤と大腿骨が浮かび上がった。

「ここね、右大腿骨の根元、頚部骨折。ほら、骨が薄いでしょう。骨粗しょう症というヤツでだいぶ脆いからね、こけるとすぐ折れるんですよ。ご主人も気をつけてね」

 学生に講義でもするような説明を聞きながら、武司はあっけにとられてレントゲンを見つめた。素人目にはどこが骨折しているのかさっぱりわからない。だまされているのではないかとさえ思えてくる。

「手術をしなくちゃいけません。ほっといてくっつくような場所ではないのでね。手続きしますから、もうちょっと待っていてもらえますか?」

 手術という言葉で武司は我に返った。

「手術……ですか」

「ええ」

 パソコンに向かって入力し始めた医者は頷いた。

「妻は、家内は何処に?」

「奥さんはもう病棟に行かれました」

 医者の後ろに立っていた看護師が振り向いて答えた。

「すぐに会わせてください!」

 武司は弾かれたように立ち上がった。


 手術は三日後に実施された。術後の容態が落ち着くとすぐにリハビリが開始される。ユキノは車椅子に乗せられてリハビリテーション科へと毎日連れて行かれた。武司は朝早くに病院に来て消灯まで付き添った。当然リハビリにもついて行った。訓練として何をしているのかを確かめなければならない。家に帰っても必要になるかもしれないと、あの面倒くさそうに喋る整形外科の医者に言われたのだ。今のユキノが自分のするべき事を管理できるはずがない。自分がしっかりしなくては……。そんな思いが鎖のように武司の心に絡みついていた。

 広い座敷を思わせるような治療台に上げられ、若い理学療法士の指導で筋力をつける訓練に取り組む。最初のうちは大人しく言われるままに仰向けに横たわり、足を動かしたり尻を上げたりしているのだが、疲れてくるのだろう、だんだんぼーっとしてくる。そしてしまいには「もう帰ります!」と言って、じたばた始めるのだった。それでも療法士が運動を促すと、だんだん苛立ってくる。そして最後にはヒステリックに叫び始める。

「こんなところにいたら殺されるわ! 人殺し! 酷い事ばっかりして!」

 その言葉と形相は今まで武司が聞いたことも見た事もないようなものだった。武司は呆然と豹変したユキノを見つめるしか出来なかった。

 大騒ぎし始めたユキノを若い療法士は困り果てた顔でなだめるばかりで、そこで訓練は終わってしまうのがお決まりのパターンだった。

 どれだけの時間とお金を無駄に使っているのだろう。毎日朝早くから消灯時間まで病院に詰めて、時には泊まり込みでユキノを看て、こんな事を繰り返して、本当にユキノは治るのだろうか。ユキノの骨がくっつく前に、自分の心の骨がぽっきり折れてしまいそうだった。

 いつも間にかクリスマスは終わり、暦が替わっていた。

 ユキノはベッドの傍に置いてあるポータブルトイレに武司の支えを借りながらなんとか移ることが出来る程度に動けるようになっていた。だが、その程度、だ。悔しい事に、同じような時期に訓練に入った、もっと高齢の、まるで枯れ木のような老婦人は着々と回復しており、既にリハビリ室で柵のような歩行器を持って歩く練習を始めていた。一度その老婦人に声をかけた事がある。彼女はユキノより十歳以上も年上で、九十歳を超えていた。武司がユキノの夫である事を知ると、気の毒そうな表情で武司を慰めた。しかし、その表情の中に安堵にも似た優越感が潜んでいる事を武司は見てとっていた。悔しかった。

 そのいらだちを担当の療法士にこぼした事もある。茶髪の若い青年は困ったような笑顔で「すみません」と謝った。しかしその表情の中には「僕に言われてもねぇ……」という開き直りが隠れているように見えた。

 所詮こんなものなのか。何もかもが壊れた妻と自分を疎外している。所詮、世間とはこんなものなのか……。


 小正月を迎えたその日、昼食のデザートには珍しくぜんざいがついていた。鏡割りの小さな餅が入っている。

「餅……ねぇ」

 武司は思わず苦笑いを浮かべた。病院食は喉を詰めないように配慮されていて、滅多に餅や団子は入っていない。薄いぜんざいの中に浮いている餅も、本当に小さくて今にも溶けてなくなりそうな代物だった。

 それでもユキノはにこにこしながらすすっていた。

「美味いか?」

「ええ。甘くて美味しいですよ。お父さんもどうですか」

 久しぶりに笑顔を見た。そんなユキノを見ていると少し穏やかな気分になる。いつもこんなに穏やかだと少々ボケていても問題はないのだが……。そんな事をぼんやり考えていると、主治医である例の太鼓腹の医者が入ってきた。

「おいしそうですね」

 愛想笑いを浮かべながら腹を突き出しベッドの足元に立った。

「坂本さん、そろそろ退院しましょうか。もう帰ってもいいですよ」

 ユキノはその言葉を理解したのか嬉しそうに頭を下げたが、武司は思わず立ち上がっていた。

「満足に歩く事も出来ないのに、連れて帰れと?」

「奥さん、介護保険の認定受けてるんでしょ? ケアマネさんに相談して在宅介護出来るようにして、訪問のリハビリもあるし」

「そ、そんな事言われても」

 医者のあまりにも他人事のような応対に思わず言葉を失う。

「ここでのリハビリ、あんまり進んでないみたいですし、言っちゃなんだが、これ以上入院してても多分変わらないですから。環境が変わると認知の方も進みますしね。家でのんびりして、慣れた生活に戻る方が奥さんのためでしょう。ここじゃ、歩き回る気にもなれないもんねぇ、奥さん」

「はい」

 ユキノはにっこり笑って愛想よく返事をする。武司はあんぐりと口を開けたまま医者とユキノを交互に見比べた。

「うちのソーシャルワーカーが相談に乗りますから。なるべく早く、手配お願いしますね。じゃあ」

 何を言い返していいのかもわからないまま、医者は話を一方的に打ち切ると病室を出て行った。

「帰っていいですって。お父さん、帰りましょう」

 ユキノは屈託無く笑いながら武司の袖を引っ張った。武司はその手を思わず振り払った。握ったこぶしがわなわなと震える。

「何を言ってるんだ、お前は!」

 情けなくて涙が出そうだった。のんきに喜んでいるユキノに言いようのない強い憎しみを感じた。

「誰が大変だと思ってる!」

 この世には神も仏もない……。


<続く>

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