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 実花が帰ってしばらくして、主治医が顔を出した。

「お? ちょっと顔色いいね。彼女の見舞いが効いたかな?」

 主治医は佐藤という気さくな青年医師だった。少しでも大樹を元気付けようと色々な話題で攻めてくる。今までは上の空で聞き流していたが、今日はちゃんと受け止められた。

「違いますっ。そんな事言ったら、殴られますよ」

 大樹は頬を染めながら慌てて否定した。

「いいじゃないですか。今が一番いい時期だって」

 佐藤はうんうんと頷いて見せた。大樹は唇をとがらせた。

「だから、違うんですって。……で、なんですか。わざわざ冷やかしに来た訳じゃないでしょ?」

「言いますねぇ。絶好調だねぇ」

 佐藤は軽快に笑った。

「さっきお母さんとも相談したんだけど、来週、退院しようか」

「え?」

 大樹は不安そうに佐藤を見上げた。佐藤はベッドの横にある窓際に立ち、カーテンを開けた。眩しい光に大樹は顔をしかめる。

 佐藤は窓の外を見ながら言った。

「身体の方はもう大丈夫。あとは気持ちの問題だ。病院にいるよりも家の方が落ち着くと思うよ。家族とも一緒に過ごせるし」

 大樹は目を伏せた。容子とはまだじっくり話せていない。一緒に過ごす時間は長いのだが、お互いに何をどう話せばいいのかわからなかった。慎吾と友樹に至っては、一日に一時間も会えばいい方だ。顔を合わせても、大した会話にはならない。何を話せばいいのか、お互いの心を探りながら、話題を探しているうちに時間だけが過ぎて行き、結局そのまま二人は帰っていく。家族と過ごす時間が手放しで心地よいとは言い難かった。

「外野はまだゴチャゴチャとうるさそうだけど、なに、世間の噂なんて七十五日っていうんだから。三ヶ月もすればすっかり忘れ去られてる。毎日色んな事件が起こってね、そのうち君の事なんて誰も追いかけなくなる。世間なんてそんなもんさ」

 そして大樹に優しい視線を投げかけた。

「君と君の家族にとっては大きな転機だったはずだ。今はまだお互いに腫れものに触るってやつだろうけど、あせる事はない。ゆっくりと見つめ直せばいい。一緒の時間を過ごして、じっくり、ゆっくり、まっすぐ向き合う。壊れてしまったモノがあるなら、今から新しいモノを作り出せばいいし、失くしたモノがあるなら、ゆっくり探せばいい。空っぽになったと思うなら、新たに詰め込めばいい。そんなもんじゃないかな」

 大樹は佐藤を見つめた。

「いくらでも時間をかければいいんだ。平均寿命が八十年越えてるんだぜ? 長い人生のうちの一年や二年、どんな使い方したってなんてことぁないって」

 若い医者の力強い瞳が自分の背中を押している。そんな気がした。

「……はい」

 大樹は小さく頷いた。


 翌日には平田がやって来た。言いにくそうに、今から学校に戻ったとしても最終の願書提出には間に合わないと告げた。それはすなわち春から通う学校が無いという宣告でもあった。

 容子は心配そうに大樹の顔を見つめていたが、大樹は自分でも意外なほど冷静に受け止める事が出来た。

「色々心配かけて、すみませんでした」

 卑屈な気持ちではなく素直に言葉が出た。身構えていた平田は拍子抜けしたようだったが、ほっとしたように表情を崩すと大樹の両肩をポンと軽く叩いた。

「卒業はちゃんと出来るんだし。君なら大丈夫。……困った事があったら、いつでも相談においで」

「はい」

 平田は少し目を細めた。目の前の少年の中で何かが変わったことを感じ取ったのだろう。そう、この子は少し強くなった。


 退院の前日、佐藤が回診に来た。検温と胸の音を聴いた後、さりげなく大樹に持ちかけた。

「坂本さんが君に会いたがってる」

「え?」

 最初に集中治療室に入っていると聞いたが、それ以降は誰も武司の容態を教えてくれなかった。それとなく看護師に聞いてみたこともあるが、上手くかわされて結局わからなかったのだ。

「ICUは出たんですか?」

「うん。でも、具合がいいって訳ではないな。会わなきゃならない身内はいないようだし……」

 含みのある言葉だった。大樹は唇を噛みしめる。もう長くはないという事だろうか。

「君の事をずっと気にかけていてね。……でも、君が嫌ならいいんだ」

 大樹は思わず叫んだ。

「会います! 会わせて下さい!」


     

 武司は別病棟の、ナースステーションと隣り合った観察室にいた。酸素マスクをかけられた顔と頭にはべったりとガーゼが貼られている。点滴につながれている腕は倍ほども膨れ上がり、ぐるぐると包帯が巻かれてあった。全身包帯まみれの、出ている所を探すのが難しい程の、痛々しい姿だった。

 佐藤に案内されてベッドの横に立つと、武司は弱々しく目を開けた。目尻がわずかに下がり、笑みを浮かべたというのがわかった。マスクの下からくぐもった声が漏れてきた。

「昌平……じゃなかったな。大樹くん」

「……知ってたんだ?」

 武司は笑って小さく頷いた。

「退院、決まったのか?」

「うん。明日」

「そうか。良かった」

 武司は軽く目を閉じた。

「悪かったなぁ。えらい事に君を巻き込んで。夢の中でばあさんにさんざん叱られた」

 優しかったユキノの手の感触がふいに甦る。大樹はたまらず啜り上げた。

「君には謝らなくちゃならん。昌平の身代わりなんかをさせてしまって」

「違う、違うよ!」

 大樹はしゃくり上げながら思わず叫んだ。

「身代わりなんかじゃなかった」

 気持ちが動揺するのを必死でこらえる。大きな深呼吸を一つすると、涙を拭った。出来るだけ抑えた声になるように祈りながらゆっくりと話す。

「身代わりじゃなくて、おかあさんは本当に僕を息子だと思っていた。本当に息子として受け入れてくれて、そのおかげで僕は……」

 死なずにすんだ。

 その言葉は喉の奥に詰まって出てこなかった。その代わりに震えるような息をゆっくりと吐き出した。

「おかあさん、最期に僕に言ったんだ。『アナタドナタ?』って」

 武司は目を開けて大樹を見た。

「死ぬ前の晩だよ。なんかショックで。なんで急にあんな事言ったんだろうって。僕は浅川大樹を捨てたかったんだ。母を手にかけるような、そんな僕を捨てて、坂本昌平になりたかった。本当に昌平になりたいと思っていた。このまま昌平でいいって思ってた。でもそれは違うんだって、おかあさんに言われたのかなって。」

 ベッドの中でずっと考えていた。なぜあの時ユキノは正気に戻ったのかと。その答えをずっと今まで考えていたのだ。

「上手く言えないけど……。よくわからないけど、でも、おかあさんは自分がもうじき死ぬってわかっていたような気がする。だから僕に『もう帰りなさい』って言ったのかなって」

 大樹は目を閉じて、暗闇の中で真っ直ぐに自分を見ていたユキノの冴えた瞳を思い出していた。

「そんな事言ったのか、ユキノは」

 武司は感慨深げに溜息をつき、小さく笑った。

「どこまでも人のために生きるばあさんだな。とても敵いそうにない」

 沈黙が訪れた。酸素マスクの下の武司の呼吸が妙に大きく病室に響いていた。

 しばらくして武司が口を開く。

「ばあさんが逝って、気がついた。僕は、僕のためにしか生きてこなかった。……そう思うとなんだか無性に申し訳なくてね。最期くらい、ばあさんのために死のうと思ったんだが……。それも失敗した」

 小さく笑う。乾いた笑いだった。

 大樹は武司に触れたかった。触れて撫でてあげたかった。ユキノが大樹をなでてくれたように。しかし、どこも包帯だらけで触れる場所がない。行き場所のない手が小さく上がったり下がったりする。

「おかあさんはそんな事きっと望んでいなかったよ。最期まで自分の人生を生きて欲しいと、きっと……」

 大樹はようやく武司の指の下にそっと指を滑り込ませた。武司の腫れ上がった指が微かに曲がって大樹の指を握った。

「そうかな」

 武司は目を閉じた。静かに涙が流れ、ガーゼに吸い込まれていく。

「そうだよ」

 大樹も目を閉じた。瞼の裏にユキノの優しい笑顔が浮かぶ。

 そうだよね、おかあさん。


 大樹が帰宅した日の夜、浅川家ではささやかな快気祝いの宴が開かれた。大樹の好物、餃子やから揚げ、ちらし寿司がテーブルに溢れる程並べられた。

「盆と正月と誕生日か?」

 慎吾が嬉しそうに冗談を言った。ご馳走を前にまずは四人で乾杯をする。

「そうそう、もう少ししたら誕生日なんだよな」

 友樹はビールをぐいっと飲み干すと明るく笑う。

「今日は誕生会も兼ねて、盛大にやろうぜ」

 大樹の肩にぐっと腕を回し、肩を組む。

「なんだよ、オッサンみたいだな、もう! 大学で宴会ばっかりしてるからこんなんになるんだ」

 大樹はうっとおしそうにその手を払いのける。

「それに誕生日は誕生日で別に祝ってもらうからね」

「厚かましいヤツだな」

「家庭教師で稼いでるんだろ。けちるなよ」

 友樹は笑いながら大樹にジュースを注ぐ。

「ま、じゃんじゃん飲め。今日は無礼講だ」

「本当にオッサンだなぁ。兄貴、大学で勉強してんの? こんなんばっかだから、日本の大学生はバカだって言われるんだろうな」

「それがどーした! バカでもなんでも、なったモン勝ち~」

 友樹は高笑いをして見せた。既に酔っ払っているようだ。妙にテンションの高い、バカバカしい会話だったが、それが無性に楽しかった。アルコールも入っていないのに、大樹も酔っていた。

「ビール、もっと出してきましょうか」

 容子は慎吾のグラスにビールを注ぎながら言った。

「この分じゃ、友樹に呑み尽くされてしまいそうね」

 苦笑いを浮かべていた。友樹のバカ騒ぎに呆れているようだ。

「いい、自分で行くよ」

 慎吾は二人の息子が子犬のようにじゃれあうのを見て笑いながら席を立ち、冷蔵庫の前に立った。

「?」

 いつかのスクールカウンセラーのプリントが冷蔵庫の前にマグネットで貼り付けてあった。そこには赤い字で日にちと時間が書いてある。

 容子を見た。容子は笑っている。屈託の無い笑顔を二人の息子に向けていた。こんな笑顔は何年と見た事がないような気がする。容子は今も時々「自信がない。どうしたらいいのかわからない」と慎吾にこぼしている。それでも少しずつ大樹と向き合おうとしている様子は見て取れた。彼女もまた一歩踏み出そうとしている。

 カウンセリングには俺も一緒に行くかな……と、思いながら冷蔵庫の扉を開けた。


<続く>



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