さくら
年度が変わった。そして、大樹はあの町に再びやって来た。慎吾に頼んで連れてきてもらったのだ。
「坂本さんの家は、あそこか?」
慎吾は古びた住宅街にぽっかりと出来た空き地を指差した。
公園の前にあった坂本家の焼け跡はすでに取り壊され、更地になっていた。ここに三人の営みがあったという気配はもうどこにもなかった。もうじきここは駐車場になるそうだ。
ふと見ると、敷地の片隅に花とジュースの缶が供えてある。近所の人だろうか。心を寄せてくれる人がまだいるという事に大樹は少しほっとした。
大樹と慎吾は空き地の前に立つと、そこに自分達が持ってきた花束を置き、手を合わせた。
全てが遠い昔の出来事のようだった。
大樹は無事、卒業式に出席する事ができた。一連の騒動は学校中が知っていたはずだが、誰もその件に触れる事なく、大樹の退院を喜び、一緒に卒業できる事を喜んでくれた。
ブラスバンド部では卒業生のためのミニライブが催された。大樹もトランペットを手にし、文化祭でも演奏した『威風堂々』を一緒に吹いた。久しぶりに手にする楽器はいつもより謳わなかったが、それでも大樹は嬉しかった。雄々しいメロディーに力づけられ、胸を張って歩いて行けるような気がした。
大樹が新しい一歩を踏み出した卒業式の翌日、武司が息を引き取った。武司とユキノの葬儀は民生委員のさえ子が執り行ったそうだ。結局、親戚の所在は不明のままで、葬儀はさえ子と市の職員だけが立ち会う寂しいものだった。二人は息子の眠る寺で供養される事が決まった。もっとも、大樹の元にさえ子から連絡が来たのは全てが終ってからだった。
「私は何の役にも立たなかったわ」
電話口のさえ子は涙声でそう言った。
「坂本さんが亡くなる直前に病院から連絡が来て、お目にかかれたの。葬式を出してくれって。お墓の事もその時教えてもらってね。『本来のあんたの仕事とは違うだろうけどお願いします』なんて言われて」
民生委員という立場のさえ子にとってもショックな出来事だったのであろう。
「結局、坂本さんが本当に必要としているものはなんだったのか、わからないままだった。なんだか、宿題を出された気分ですよ。まだまだ人生修業が足りないって坂本さんから言われてるような気がする」
受話器からはずるずると鼻を啜る音だけがしばらく響いてきた。
「本当はね、坂本さんから、自分が死んでも浅川君には知らせないでくれって言われてたの。でもねぇ……。どうしても、あなたには伝えたかった。多分、あなたが一番坂本さんに近い人だから」
大樹は受話器を握りしめながら、無言で泣いた。
武司が作ってくれたお粥とゆで卵。少し埃っぽい居間。重たい布団。重々しく時を刻む柱時計。新聞を読む武司の背中。夜の公園の桜の木。ユキノの歌声。わずか半月足らずの生活。
「……夢だったんじゃないかって思う事がある」
大樹は手を合わせながら呟いた。慎吾はそれには答えずただ目を閉じて合掌していた。
しばらくして、二人は立ちあがると振り返って桜の咲き乱れる公園を見た。桜並木は白い花で埋め尽くされて、公園の中がわからない程だ。
桜の枝をかき分けるようにして公園の中に入ると、そこは大樹が知っている夜の公園とはまるで別の世界だった。
春の柔らかい日差しの下、桜が公園を取り囲むように咲き乱れ、白い花びらが雪のように降り注いでいる。あちこちで子供の声がはじけている。
命が満ち溢れていた。
大樹は空を見上げる。幾重にも折り重なった花の隙間から青い空が見え隠れしていた。眩しい太陽の光が目に入り込む。冬の空に煌々と輝いていた月の光とは全く違う力強い光。それは眩しすぎて、思わず涙が出そうになる。でも今なら目をそらさずに歩いていける。そんな気がした。
「そろそろ行こうか」
慎吾に促され、大樹は公園の入口に向かった。最後にもう一度だけ、大樹は振り返った。
桜の木の下に、中年の夫婦と中学生くらいの少年が立っていた。三人ともこちらを見て、微笑んでいる。少年は日に焼けていかにも野球少年といった感じだった。快活な笑顔を大樹に向け、小さく会釈した。母親が小さく手を振った。優しい懐かしい笑顔だった。
強い風が公園を駆け抜け、花びらが吹雪のように吹き散らされた。花びらは渦を巻いて公園の中を駆け巡り、舞い上がる。子供達の歓声がひときわ大きくなった。
風が治まり大樹がもう一度桜の木の下に目をやった時、三人の姿は消えていた。
これでお別れ、なんだね。ありがとう。
大樹は目をこすった。
「どうした?」
慎吾が覗き込む。
「……埃が」
そう言うと大樹は顔を上げ、笑って見せた。
「帰ろう」
二人はゆっくりと車に向かって歩き出した。
<了>




