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 泣きつかれた大樹は放心しながら、動かなくなったユキノの前に座り込んだままだった。

 ユキノの体温はみるみるうちに下がっていった。あれほど高熱で苦しんでいたのに下がる時にはあっという間だ。人間ってこうやって死ぬんだな、とぼんやりと考える。なんてあっけなく逝ってしまうのだろう。

 大樹はユキノの頭の下から氷枕を引きずり出した。冷たい身体に氷枕はかわいそうだ。

「もういらないよね」

 声を掛けるとユキノが目を開けるのではないかと思う。しかしユキノは眠ったままだ。

 どれくらい時間が経ったのか。大樹はふと縁側を見た。庭に続くガラスの扉には横たわるユキノと座り込んでいる大樹の姿が鏡のように映っている。

「夜だよ。おかあさん」

 大樹は弾かれたように立ち上がると玄関に走った。裸足でたたきに飛び降りると畳んでなおしてあった車椅子を担いだ。そのまま居間へと持ち込む。

 座卓を押しのけソファーの横で車椅子を開けた。

 ぐにゃりとしたユキノの頭と膝の下に手を差し込み、力任せに持ち上げる。

 小さい細い枯れ木のような身体なのに、信じられないくらい重い。完全に力の抜けた人間の身体には芯がないので支えどころがない。以前、車の中で眠りこけている幼稚園児の従姉妹を抱きかかえたことがあったが、危うく落としそうになった。大樹は歯を食いしばり唸り声をあげながら、必死でユキノを車椅子に座らせた。ずるずるとずり落ちそうになる身体を慌てて後ろから引き上げる。

 ソファーの上の毛布をユキノの身体にかけ、巻きつけるように車椅子と身体の間に詰め込んでいく。これでなんとか身体は支えられるだろう。

 大樹は車椅子を押しながら居間を出た。狭い居間のあちこちにぶつかって派手な音がした。

 上がりかまちから車椅子を下ろそうとして四苦八苦していると、武司が部屋から出てきた。

「何を……やってる」

 大樹とユキノを見て言葉を失う。

「手、貸して」

 大樹は大汗をかきながら必死の形相で叫ぶ。

「手、貸して!」

 武司はおろおろとしながら言われるままに車椅子に手をかけた。二人掛かりでようやく車椅子を下ろすと、大樹は靴を履き、いつものようにコートを羽織った。

 これが最後の散歩だ。

 

 外は全てが凍り付いていた。初めて散歩に出た時のように無数の星が瞬いている。そして月が輝いていた。満月ではないが月の光は思った以上に明るい。全てが静寂の中だ。まるで時間が止まっているような、そんな気がする。

 大樹はゆっくりと車椅子を押した。

「歌、歌ってよ」

 うなだれているユキノを覗き込んだ。月の光の下でユキノの口元には微笑が浮かんでいるように見えた。

 大樹は鼻歌でユキノがよく口ずさんでいた歌を歌い始めた。歌詞は覚えていないし、メロディーもうろ覚えだ。

 いつもの散歩コースを回り、公園に入った。桜の木の下に車椅子を止めると寒い冬空を仰ぐ。

 桜の木に花はない。その代わりにたくさんの星が枝の間を飾っていた。きらめく星の光が次第ににじみ、ぼやけてくる。にじんで広がった星の光が大樹には白い桜の花に見えた。

「ありがとう」

 武司が家の中から出てきて、いつの間にか桜の木の間に立っていた。

「本当にありがとう」

 武司はゆっくりと車椅子に寄り添い、傾き始めたユキノの身体をまっすぐに戻してやる。

 大樹は上を向いたままだった。喉元がひくひくと震えているのが見えた。

「幸せだったと思う。最期に君が来てくれて、良かった。桜が咲くたび、いつも息子の姿を探していた。君が来てくれて、本当に良かった。待ち人にようやく会えたんだよな」

 静寂の中、大樹の鼻をすする音だけが響いている。どれくらい時間が経っただろうか。武司は大樹の肩に手を置いた。

「部屋を片付けたよ。そろそろ戻ろうか」


 車椅子を寝室のベッドの横まで上げ、二人掛かりでユキノの身体をベッドに横たえた。

 両手を胸の前で組ませ、布団を胸までかぶせる。

「いい顔だ」

 武司がつぶやいた。こんな安らかな顔を見るのは久しぶりだった。

 若い頃のユキノは穏やかで上品な娘だった。地味だったが凛としたものを感じさせた。戦争で父親を亡くし、戦後すぐに母親も病気で亡くなった。弟を高校に通わせるために、一生懸命働いた。弟が卒業して就職した時には二十五歳になっていた。武司と見合いをした時にはお世辞にも若い娘さんという感じではなかったが、武司は一目でユキノが気に入った。大人しくて控え目で、しかしどこかに芯の強さを感じる瞳が印象的だった。

 結婚してからは、よく自分を支えてくれた。「私は早くに親を亡くしたから……」と言って、舅と姑の面倒もよく見てくれた。息子を送った後も自分を押し殺して日常を切り盛りしてくれた。

 思えば自分のための人生ではなく、誰かのために生きた女だった。

 武司はポツポツとユキノの話を大樹に語った。せめて、彼女の人生を「昌平」には知っておいてほしかった。

 大樹は黙ってその話を聞いていた。何を感じ取っているのか、武司にはわからなかったが、時々頷きながら、涙ぐみながら耳を傾けてくれていた。

 長い長い想い出話が途切れ、武司はふうっと長い息をついた。そして、ゆっくりと大樹を見る。

「一つ、頼んでいいかな」

「はい」

「民生委員の岸田さんに、ユキノの事を知らせてくれないか」

 武司は立ちあがると廊下へ出た。大樹もつられるように一緒に部屋から出る。

「これからの事を相談したいから。僕はこれから親戚とか、連絡しなくちゃならない」

 大樹は頷いた。

「地図を描くよ」

 武司は台所のテーブルで簡単な地図を描いた。その紙切れを持って大樹は玄関に立った。

「悪いな。気をつけて」

 武司が見送る。大樹は「うん」と頷くと靴を履いて外に出た。

 扉が閉まり、すりガラスの向こうに大樹の背中が見える。武司は小さな声でつぶやいた。

「ありがとう」


 大樹は外灯の頼りない光の下で時々地図を確認しながら、寒い道をとぼとぼ歩いた。頭の中は真っ白で、何も考えられなかった。寒さの中で指がかじかむように、心も麻痺しているようだった。

 太い道から住宅街への小道に入り、しばらく行ったところにまだ新しい外観の二階建ての家があった。外回りの柵にそってパンジーの植わったプランターがいくつも並べられている。表札には「岸田」と書いてあった。

 大樹は少しためらった後、インターホンを押した。小さくピンポーンという音が家の中から聞こえた。しばらく間があり、くぐもった女性の声が飛び出してくる。

「はい」

「あの、坂本です。坂本武司の……」

「はい!」

 声のトーンが跳ね上がり、しばらくしてスウェット姿のころころした初老の女性が飛び出してきた。この人が岸田さえ子だろう。

 さえ子は大樹の顔を見て思わず立ち止まった。

「……坂本さん?」

「はい」

「ごめんなさいね? 坂本さんの……お孫さん?」

 見知らぬ少年が坂本の名を名乗っているので混乱しているようだ。

「えっと……親戚、です」

 そうとしか言いようがない。それでも大樹の苦し紛れの言い訳をさえ子はあっさりと信じてくれたようだ。

「御親戚! そう、そうよね。坂本さんのところには確かお子さんはいないって伺ったはずだもの。びっくりした~。あ、ごめんなさいね、騒々しくて」

 おしゃべりなオバサンはすっかり警戒心を解いた様子で、門扉を開けた。

「で、どうしたの?」

「あの、夕方おかあ……、いえ、あのオバアチャンが亡くなりました」

「え?」

 唐突なセリフにさえ子が言葉を失った。

「で、この後、どうしたらいいか、相談したいって。オジイチャンが言うので」

 大樹の言葉に、さえ子はうろたえ始めた。

「亡くなったって、入院していらしたの? 全然知らなくて」

「いえ、家で。心臓発作みたいで……。ついさっき」

「大変! お医者様は? 救急車は?」

「ま、間に合わなくて」

 矢継ぎ早の質問に大樹はようやくそれだけ答えた。

「どうしましょう。どうしましょう。じゃ、奥さんはまだおうちにいらっしゃるのね? まぁ、どうしましょう。ちょっと待ってね。まずは、坂本さんのところに伺うわ。ちょっと、待っててね、すぐ用意しますから」

 さえ子は門扉を大きく開けた。

「玄関に入って待ってて頂戴。すぐ、すぐだから!」

 大樹は強引に玄関に連れて行かれた。さえ子は「ちょっと待ってね!」を連呼しながら中に入り、奥へと入っていった。家人と声高に二言三言会話をし、バタバタと走り回っている。

 十分ほどしてさえ子が戻ってきた。どうやらスウェットから普段着に着替えていたらしい。コートのボタンを留めながら靴を履く。

「お待たせしました。行きましょう」

 二人は足早に歩き始めた。道々、さえ子はユキノの状況をせわしく聞いてきた。大樹はあまり気が進まなかったが、ポツポツと状況を語った。

「そう。ご自宅でねぇ。ご主人ショックでしょうね。よくお世話してらしたから」

 さえ子は涙声になりながら、ポケットからハンカチを出し洟を拭いた。

 公園が見えてきた。

 どこからか風に乗ってきな臭い匂いが漂ってきた。角を曲がって家に近づくごとに、その匂いは強くなる。

 ふいに嫌な予感がした。

 大樹はさえ子を置いて走り出した。胸騒ぎはどんどん強くなる。家の前に辿り着いて、玄関に駆け込もうとした。が、鍵が下ろしてある。

 大樹はガンガンと激しく扉を叩いた。

「おとうさん! おとうさん!」

 匂いは思わず顔をしかめるほどの強さだった。ようやく辿り着いたさえ子が血相を変えた。

「裏は?」

 大樹は裏へ走った。庭のガラス戸越しに中を窺い、凍りつく。部屋の中は黒い煙が立ち込めていた。

 大樹は慌てて周りを見回す。庭の隅に苔むしたブロックが転がっていた。それを抱えてガラスの扉に叩きつける。

 黒い煙が破れたガラスから流れ出す。大樹はむせながら手を突っ込み鍵を開けた。

 思い切り扉を開けると、どっと煙が噴出してきた。思わず顔を背け激しく咳き込む。

「消防車を!」

 裏に回ってきたさえ子は悲鳴を上げながら携帯電話をコートのポケットから取り出した。

「おとうさん!」

 大樹は腕で口を覆うと、煙の中へと飛び込んでいった。

「ちょっと、アナタ!」

 さえ子が金切り声を上げた。

 遠くの方でサイレンが聞こえだし、そろそろ野次馬が集まり始めていた……。


<続く>




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