四
武司の清拭が効いたのか、ユキノの熱は少し下がり始めた。昼食の時は、上半身を起こしても倒れていくことなくなんとか座っている事が出来たし、ポータブルトイレに移動する時もなんとか自分の足で身体を支えることが出来た。
「やれやれ、この調子だと明日くらいには完全復活か?」
武司は顔をしかめてみせたが、内心はほっとしていた。矛盾しているとは思うのだが、それでも病気で苦しむユキノを見るのはつらい。
居間に室内干しを広げ、ユキノの寝巻きやタオルを干していく。居間を占拠していく大量の洗濯物を見て、大樹は口をとがらせる。
「僕の寝る場所が、ない」
「こんな時間から外に干しても乾かないだろ。この部屋ならストーブがあるからすぐ乾く。それに乾燥予防にもなるしな。大丈夫だよ、布団を敷く頃には乾くって」
テレビを見ている大樹に声をかける。大樹は薄い笑みを浮かべた。
「だと良いけど」
武司はにやっと笑った。
「寝る所がなかったら、ばあさんの部屋で一緒に寝るか?」
「……遠慮しておきます」
大樹の困ったような顔に武司は声を上げて笑った。
廊下の方でがたんという音がした。
「え? まじ?」
慌てて大樹は居間を出て、ユキノの部屋に向かう。
ユキノはベッドから降りようとベッド柵を引っこ抜いて床に倒していた。さっきの音はベッド柵が落下した音だったようだ。
「ちょっと元気になったらさっそくですか。ちょっと待って」
大樹は手でユキノを軽く押しとどめながら、高く上がっていたベッドを少し低くした。
「どうするの?」
ユキノは大樹の手にすがりながら、ふらふらと立ち上がった。
「お父さんが帰ってくるからご飯作らなきゃ。」
そう言いながらフラフラと歩き出そうとする。
「お父さんはもう帰ってるよ。ご飯なら僕とお父さんとで作るから、もう少し寝てた方がいいって」
「もう平気だから」
「大丈夫? 無理しちゃ駄目だって」
大樹はユキノの身体を抱きかかえるように支えながら、仕方なくその動きに従った。
ふうふうと息をしながら歩くユキノの身体はまだ普段よりもだいぶ熱い。
「無茶するとまた熱が上がるよ」
大樹はユキノの顔を覗き込んだが、ユキノは必死で歩こうともがいており、耳に届いていないようだ。
「仕方ないなぁ、もう。無理しちゃ駄目だってば」
大樹はもう一度繰り返すと溜息をついた。
ヨレヨレになりながらようやく居間に辿り着くと、武司が目を丸くしていた。
「おいおい、奥さん、もう復活か?」
大樹は苦しそうに肩で息をしているユキノをソファーに座らせると、骨ばった背中を撫でてやる。
「氷枕、持ってくるよ」
大樹は部屋に戻り、毛布と氷枕を取ってきた。ユキノはまだ喘いでいる。
「しばらくここで寝ていたらいいよ」
氷枕を端に置くと、ゆっくりとユキノの身体をそちらに押しやった。今度は抵抗せず、ユキノはソファーに埋もれるように横になった。毛布を上からかけてやる。
ユキノは目だけ覗かせながら、室内に干されている洗濯物を見つめていた。
「こんなにたくさん、干すのも大変ね」
他人事のような口調に、武司は思わず吹き出した。
「その通りだよ。よくわかってるな、お前」
「誰の洗濯物? 昌平?」
「僕、こんなの着ないし」
ハンガーにかかったベージュのババシャツを指さし、大樹は思わず笑い出した。
大移動をしたせいですっかり疲れてしまったユキノはすぐに寝息を立て始めた。
「ノンキなもんだな」
武司は肩をそびやかす。大樹はテレビの音を少し小さくし、畳の上に座るとソファーにもたれた。背中にユキノの呼吸を感じた。
武司が夕食の準備にかかり始めたので、大樹も腰をあげようとした。
毛布に包まっていたユキノが低いうめき声を上げた。
「起きたの?」
大樹はユキノを覗きこんだ。ユキノは顔をしかめて身体を丸めている。
「どうしたの?」
ユキノは薄く目を開け、上目遣いに大樹を見た。何か言いたげに唇を震わせるが声にならない。
「どうしたの! 大丈夫? おかあさん?」
大樹は慌ててユキノの背中に手を回し、大きくさすった。ユキノの顔からみるみるうちに血の気が引き、唇が紫色に変わってくる。
「どうした?」
大樹の緊迫した声に、台所から武司が飛んできた。ユキノの顔を覗き込み、思わず息を呑む。只事ではない。
「……心臓かも知れない。だいぶ前にも同じような発作を起こした。狭心症だと言われた」
押し殺した声に大樹は弾かれるように立ち上がる。
「救急車を」
台所の片隅に置かれている電話に大樹は駆け寄った。受話器を上げた途端に武司の鋭い声が飛ぶ。
「呼ばないでくれ!」
「なんで!」
大樹は怒鳴った。
「何言ってるんだよ! ほっといたら死んでしまうよ!」
大樹の頭の中には床に倒れこんでいく母親の姿が甦っていた。
「駄目だ! 頼む!」
武司は大樹の傍に風のような素早さで近づくと、受話器を奪い取り叩きつけるように置いた。その上から両手で押さえ込む。
「頼む……。もういいんだ」
肩を震わせながら声を絞り出した。
「いつまで苦しんだらいいんだ。もういいじゃないか」
自分に言い聞かせるような言葉だった。大樹は武司の肩をつかんだ。
「駄目だよ! 駄目だよ!」
そんな言葉しか出てこない。武司は硬く目を閉じ、受話器を離そうとしなかった。
大樹はおろおろしながらソファーに埋もれているユキノに駆け寄った。
ユキノの顔はぞっとするほど白い。苦しそうに顔を歪め、固く目を閉じたまま、不規則な呼吸を繰り返している。
「おかあさん! おかあさん!」
大樹は叫びながらユキノの背中をさすりながら、寝巻きの胸元を握り締めている手首をつかんだ。脈を確認しようとそれらしき場所を探すのだが、探り当てる事が出来ない。
「しっかりして! ねぇ!」
大樹は叫びながら混乱していく。
目の前のユキノの姿がいつのまにか容子に変わっていた。
「お母さん! お母さん! お願いだから目を開けて!」
必死で容子の身体をさすり、ゆさぶり、呼び続ける。自分は何という事をしてしまったのか。母親を手にかけるなんて。こんなにも大好きな母親に何というヒドイ事をしたのか。
「お母さん!」
大樹と武司はソファーの前に座り込み、ユキノを見つめていた。
ユキノの意識は既になく、呼吸は次第に細くなっていく。
力なく開いた口から細く震えるような息が絶え絶えに漏れていた。呼吸の合間に顎がかくかくと痙攣している。呼吸の間隔はだんだん長くなっていくようだった。
吸って……
吐いて………
吸って…………
吐いて……………
……吸って………………
………吐いて…………………
その次の吸気は、もう、なかった。線香が燃え尽きて、ふっと煙が立ち上り、そのまま空気にまぎれてしまうように、ユキノの呼吸は消えた。
「お、か、あ、さん……?」
大樹は震える手でユキノの手を握り締めた。さっきまで必死で胸元を握っていた手にはなんの抵抗も感じられない。ユキノの表情からゆっくりと苦しみが消え、穏やかな寝顔に変わっていく。
大樹は天を仰いだ。全力疾走の後のような、抑えがたい息苦しさが胸を襲う。大きく喘ぎながら、大樹の呼吸は次第に嗚咽に、そして慟哭へと変わっていった。
武司はそっとユキノの髪を撫でた。額に手を押し当てる。
「なんだ、お前。物忘れにも程がある。……息する事も忘れたのか?」
わずかに開いている唇をそっと押さえ、口を閉じさせた。
「よく……頑張ったな」
掠れた声でようやくそれだけ言うと立ち上がった。そのまま居間を出て、ユキノの部屋へと入り扉を閉めた。
<続く>




