三
午前中、武司は電話帳を広げて近所の開業医を調べていた。市内の内科で、往診可能な医者。しかし『訪問・在宅医療』と明記してあるものはほとんどなかった。直接問い合わせるしかないだろう。
眼鏡を老眼鏡にかけかえて、電話帳の細かい字を必死で追いながら、めぼしい診療所を幾つか紙に書き上げていく。字数が増えていくにつれ、だんだん心は重くなっていく。
どうしても医者に見せなければならないだろうか。このまま家で出来る事をして、少しずつ弱っていって、そして最期を迎えるというのは許されない事なのだろうか。このまま蝋燭の火が燃え尽きるのを見守っては駄目なのだろうか。人として、それは、許されない事なのだろうか。
元気になればまた動き出す。妄想に操られ、夜中に歩き回る。混乱して暴れる。そんな生活が無期限で復活するのだ。こんな風に生き続ける事が、命を大切にするということなのか? ただひたすらに生きていることが幸福だ、などと信じるほど自分はもう若くはない。自分も、ユキノも充分に人生を生きてきた。この先何かをしたいという欲求ももう枯れている。今の自分達にとって、一日でも長く生きるという事になんの意義があるのか。
ユキノの面倒は夫である自分が看る。そう、最期の瞬間まで。その覚悟は充分にしているつもりだ。そのためにはなんとしてもユキノより一日でも長く生きなければならない。だが、よくよく考えてみれば、男の方が寿命は短いのだ。自分がユキノより長生きするという保証はどこにもない。だから、何がなんでもユキノには自分より早く逝ってもらわなくてはならないのだ。こんなことを口にすれば、薄情だと、人非人だと世間から罵られるのだろうか。
台所で皿を洗っている「昌平」を見る。もし、昌平が生きていたら、恐らくこんな風には考えないだろう。息子夫婦に自分たちの余生を預けて、のんびりと生きられただろう。しかし現実は違う。大樹にこの先の事を望むことは不可能だ。彼は「昌平」であって昌平ではない。
「やめだ……」
武司は鉛筆をテーブルの上に置き、老眼鏡を外した。電話帳を静かに閉じる。深い溜息をつきながら、目頭を軽くつまんだ。
武司は立ち上がると風呂場に向かった。バケツに熱い湯を溜め、タオルを何本か浸す。湯気が立ち上り武司の顔をほんわりと包み込んだ。湯を止め、重いバケツを提げてユキノの部屋に向かう。
熱いタオルでユキノの身体を拭いてやろう。もつれた髪を梳いてやろう。せめて自分が出来る限りの事を全てしてやろう。思いつく限りの事を。そのための体力と労力は惜しむまい。それが長年自分に尽くしてくれた妻へのお返しだ。
武司が丁寧にユキノの身体を拭いてやった後、ユキノはすっきりとした表情で天井を見上げた。
「いい気持ち。さっぱりしたわ」
「そうか。良かったな」
武司は頬を緩めながら、後片付けを始めた。汚れたオムツをゴミ袋に突っ込み、山のような洗濯物を廊下に出す。廊下につながる扉を開け放ち、玄関の扉を少し開けた。冷たい空気がすうっと忍び込み、微かな空気の流れが生まれた事を教えてくれる。しばらく換気も出来なかったのだ。風邪のバイキンがうようよしている空気をおいだしてやりたかった。
「空気が入れ替わったらすぐに閉める。ちゃんと布団かぶって」
武司はユキノに布団をしっかりかぶせると、洗濯物を抱えて脱衣所に運んだ。
部屋に戻るとユキノは静かに目を閉じている。眠ってしまったのかと足音を忍ばせ、部屋の片づけをしているとユキノは小さな声でつぶやいた。
「お花見に行きましょうね」
「?」
夢を見ているような楽しそうな表情を浮かべている。
「お弁当持って、三人で」
夢でも見ているのだろうか。武司も小さく笑った。
「そうだな。春になったら行こうな」
公園の桜を三人で見上げる様子を頭に思い描く。青い空に白く咲き乱れる桜の花。可憐な花をびっしりと身にまとい重たそうにしなる枝が、幾重にも幾重にも空に向かって積み重なっていく。雪のように静かに降り注ぐ花びらに包まれて……。
「昌平と、三人で」
珍しく穏やかな明るい表情で居間に戻ってきた武司をみて大樹は声をかける。
「なんかあった?」
「なにが?」
「なんか、こう、楽しそうだから」
「そうか?」
武司は急須に湯を注ぎながら苦笑いした。よほどいつもは渋い顔をしているのだろう。湯飲みを二つ出し、急須を傾ける。
「今日は随分ばあさんが冴えてるよ。熱でちょっと賢くなったかな」
大樹は湯呑みに伸ばした手をふと止めた。
「……そう」
豆球の灯りの下で急に素に戻ったユキノの顔を思いだす。アナタ、ドナタ?
武司は大樹の表情が曇った事には気がつかないようだった。
「花見に三人で行こうってさ」
「花見?」
大樹は怪訝な顔で武司を見た。武司は楽しそうに笑いながら湯飲みを持ち、居間のソファーへと向かう。
「前の公園。ばあさんはあそこの花が好きだからね」
大樹は少しほっとして、ふぅんと鼻を鳴らしながら茶をすすった。そう言えば、夜の公園の散歩をしている時、ユキノは裸の木を見上げながら目を細める。彼女の目にはいつも満開の桜の花が見えているのかもしれない。
「そう言えば、夕べ桜の話をここでもしてたからな。寝てるふりして、実は、ばあさん、こっそり聴いてたのかもしれないぞ」
武司は自分の冗談がおかしかったのか、声を上げて笑った。
その様子を見ながら、大樹は自分に問いかけていた。自分は一体何者なんだろう。
<続く>




