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 容子の実家の事を時々慎吾は「八墓村みたいだな」とからかう。そんな言われ方は面白くなかったが、言い得て妙だとも思うのだ。そのくらい封建的で古めかしい実家だった。

 容子の父は「風呂、メシ、寝る」くらいしか言葉を発しない男で、田舎の町役場で働きながら、休みの日には畑の仕事をしていた。田舎にありがちな兼業農家だ。

 父の事が容子は大嫌いだった。母にも子供にもすぐに手を上げた。仕事ぶりは真面目で勤勉だったが、二言目には「誰が養っていると思っている」と言い放つ。そのくせ、役場や寄り合いでは地元の有力者に頭が上がらず、良いように使われるだけ。容子がピアノを習いたいと言った時も「そんな事は金持ちのお嬢様のすることだ」と一蹴された。小心者の暴君。その二面性をひたすら軽蔑していた。

 母はそんな父に対して一言も言いかえすことなく、ただひたすら黙って耐えていた。父とは幼馴染だったらしいが、恋愛結婚などというような甘い話ではなく、年頃になり、周囲が勝手に盛り上がり、あれよあれよという間に話が決まってしまったのだと、時々苦笑まじりにこぼしていた。

 戦争も終わり、折しも高度成長期の真っただ中。街では考えられない話だが、田舎の、農村ではよくある話だった。

 五つ年上の姉は婿養子を取って家を継いだ。それをきっかけに、容子は親の反対を押し切る形で都会の短大に進学した。卒業したら帰ってこいと言われていたが、故郷に帰るなんて考えられなかった。卒業後はそのままその街で就職。そして慎吾と出会ったのだ。

 高学歴のスポーツマン。ハンサムで垢抜けていて、裕福な家庭に育った品のいい、笑顔の優しいサラリーマン。慎吾は容子の理想そのものだった。ライバルも少なくなかったが、幸運にも慎吾が選んでくれたのは容子だった。

 そして華燭の典。

 華やかな披露宴の席で、あんなにもえらそうだった父がひどくみすぼらしい老人に見えた瞬間、「勝った」と思った。

 それからすぐに父は亡くなったが、葬式の場で容子は涙が出なかった。むしろ開放感を感じていたのだ。重苦しい鎖が音を立てて足元に落ち、ようやく翼を広げた。そんな新生活だった。

 まもなく友樹が生まれた。友樹は慎吾によく似ていて、利発で活発で愛らしかった。赤ちゃんモデルにでも応募したいくらいの可愛らしさだった。文字通り溺愛して育てた。そして四年後に大樹が生まれた。

 大樹は自分によく似ていた。そして大きくなるにつれ、中身も外見も自分に似てくる大樹を見ているのが時々苦しくなった。

 自分は大嫌いな父親によく似ている。年々その思いが強くなってきていた。そして、その自分によく似ている大樹は次第に父親にも似てくるような気がした。時折、忘れかけていた父の重圧が苦々しい思いと共に甦ってくるようになった。

 もちろん大樹のことが可愛くない訳ではない。笑顔を見れば嬉しいし、寝顔を見れば幸せにもなる。誕生日に小遣を貯めて、ハンカチをプレゼントしてくれた時には涙が溢れた。充分に愛していたが、同時に自分のコンプレックスを大樹の中にも見出し、苛立ちを覚えていた。

自分の中で混ざり合う相反する気持ちをどう扱えばいいのかわからなかった。


 夕方になり慎吾が帰ってきた。リビングの電気は消えていて真っ暗だった。寝室で眠っているのだろうと思いながら壁のスイッチを入れると、容子はソファーで横になっていた。虚ろに目を開けている。

「なんだ、眠っているのかと思えば」

 容子はゆっくりと生気のない目を慎吾に向けると、だるそうに身体を起こした。

「いいよ、横になってろ」

 ネクタイを緩めながら、寝室に向かった。姿見に映る自分の姿はひどく疲れていた。小さく頭を振りながら、カバンを置き、スーツを脱ぐ。ラフな格好に着替えリビングに戻った。

 容子はノロノロと台所に立ち、ヤカンをコンロにかけていた。台所は冷え切っていて、なんの料理の匂いもなかった。どうやら今日も手料理にはありつけないようだ。

 慎吾はソファーの足元に落ちているプリントに気がついた。拾い上げて目を通す。

「カウンセリング、受けるのか?」

「ううん。今日、また平田先生が見えて置いて行ったの。カウンセリングなんて、そんな訳のわからないもの……。当たるもんですか」

 慎吾は思わず苦笑いした。容子の中ではカウンセリングも占いも大して変わらないようだ。

慎吾は「悪くないかも」と思った。最近は会社にもカウンセラーが派遣される事が少なくない。リスク管理の一環として注目されている。慎吾の会社にはまだそんな制度はなかったが、興味はあった。正直、容子だけでなく自分もカウンセリングの必要があるように思う。胸につかえているとてつもなく重い不安と危機感を軽く出来るのなら、何でも試してみたいものだ。もっとも大樹が帰ってくれば全て解決するのだろうが……。

「ごめんなさい。夕食、用意出来なくて……」

 湯呑に熱い緑茶を注ぎながら、力なく容子が呟いた。慎吾はプリントを机の上に置きなおすと立ち上がり、壁にかかっているキーボックスから車のキーを出した。

「お前もまだなんだろ。なんか買ってくるよ」

 慎吾は会社の食堂で昼食をとるのでまだましだが、容子は昼食をほとんど食べていないようだ。冷蔵庫の牛乳はとっくに賞味期限を過ぎているし、野菜室の野菜もしなびていた。何か自分が作ってやればいいのだろうが、そんな時間も気力も今の慎吾には残されていない。

「下のコンビニは飽きたな。どこか別のスーパーにでも行くか。一緒に行く?」

 慎吾はキーを軽く宙に放り投げながら、努めて何気ない口調で言った。

「行かない。……私、いらない」

 小さい声だったが尖った口調に慎吾ははっとした。

「どこのお弁当だって同じでしょ。スーパーに行って、お弁当選ぶ気にもなれない。食欲なんてわかない」

 容子は壊れた人形のようにぎくしゃくと慎吾を見た。

「あなた、よく食べられるわね。……それとも当てつけ?」

「アホか!」

 思わずかっとなり、慎吾は怒鳴った。頭の中でぶちっという音がしたような気がした。

「いい加減にしろよ! お前がつらいのはわかってる。でも俺だってつらいんだよ! だからって二人して引きこもって事態が解決するのか? 俺が働かなきゃ、食っていけないだろうが! お前みたいに引きこもれるような、結構な身分じゃないんだよ。それに、引きこもったからって、大樹が帰ってくるのか?」

 それ以上言ってはいけない! 理性が必死で慎吾をひきとめようとしていたが、堤防を破壊する濁流のように怒りがあふれ出てきた。

「お前はいいよ、家で落ち込んで、泣いていればいいんだ。俺は仕事にも行かなきゃならない。お前にも気を遣ってさ。我慢して、必死で働いて、帰って来て、コンビニ弁当だ。え? 俺はどうしたらいいんだよ! どうして欲しいんだよ! だいたいなぁ、お前が大樹とこじれなきゃ、こんな事にはならなかったんだ!」

 容子の目が飛び出すのではないかと思うほど大きく見開かれた。顔から血の気がみるみるなくなり、容子の口はのろのろと開いていく。スローモーションのような光景だった。

獣じみた咆哮のような悲鳴が台所に響き渡る。

その声で慎吾は我に返る。しまった! と思ったがもう遅かった。

 容子は持っていた急須を床にたたきつけた。無残な音と共に有田焼の急須は砕け散り、まだ熱い茶の葉と残っていた湯があたりに飛び散る。その中に崩れるように倒れこむと、泣き喚きながら両手を床にたたきつけた。

見る間に手と床が血にまみれていく。それでも容子は叫びながら激しい勢いで自分を痛めつけ続けた。

「容子! 容子!」

 慎吾は必死で容子を抱きしめると両手を強くつかんだ。泣き叫びながら獣のように暴れる容子を必死で抱きかかえ、壊れた急須の欠片でずたずたに傷ついた手を目の前のタオルかけにかかっているタオルで強くしばる。

「すまない、すまない! 容子!」

 慎吾は身をよじりながら号泣している妻を強く抱きしめた。

「悪かった。ごめん、ごめん!」

 壊れかけていた妻を完全に壊してしまったという思いで、胸がつぶれそうだった。いや、いっそこのまま、容子と二人で壊れてしまえばどれほど気が楽だろう。これは罰なのだろうか。息子を追い詰めていることに気がつかなかった駄目な父親への、息子からの罰なのだろうか。

 慎吾は泣きながら天を仰ぐ。

 大樹、大樹、どうにかしてくれ。早く帰ってきてくれ。助けてくれ。


<続く>



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