二
その日の夕方、浅川家のインターホンがなった。ベッドで横になっていた容子は弾かれるように起き上がった。
「大樹! 大樹!」
玄関の扉を勢いよく開けると、そこには地味なスーツに身を包んだ大樹の担任の平田が立っていた。
「お、お母さん?」
あまりの勢いに面食らった平田は小さな目を大きく見開いて容子を見た。容子はまじまじと平田の顔を見つめていたが、空気の抜けたような溜息と共にその場にしゃがみこんだ。
「大丈夫ですか?」
平田が慌てて容子を支える。容子は返事も出来ずに声を上げて泣き始めた。平田は何が起こったのかわからず、おろおろしながら容子の背中をさするしか出来なかった。
しばらく泣いていた容子だったが、少し落ち着きを取り戻すと、力なく平田を見上げた。
「すみません。見苦しいところを……」
消え入るようなか細い声だ。
「いえ、大丈夫ですか?」
「はい。……どうぞ、おあがり下さい。」
容子は洟をすすりながら壁につかまるようにして立ち上がった。平田は一瞬躊躇したが、意を決したように靴を脱いで中に入った。
リビングに通された平田と容子は小さなガラスのテーブルを挟んで向かい合って座った。
「連絡無くお邪魔して申し訳ありません。大樹君の様子についてお伺いしたかったんです」
平田は小さく息を継ぐ。
「先日から何度かお電話を差し上げたのですが、ご主人の携帯に転送されていて。ご主人、お忙しいようでなかなかお話しを伺えなくて……」
容子の様子を気にして自宅にかからないようにしているのだろう。そう言われれば、電話がまったくならない事に容子はようやく気がついた。
「大樹くん、欠席が続いていますが、どうですか。体調、崩されました?」
平田の目の前にいる容子は十日前とは別人のようなやつれようだ。相当激しい親子喧嘩があったに違いない。当の本人は引きこもっているのだろうか。
「わかりません」
容子は力なくうなだれる。
「わからない?」
言葉の意味が理解できない。
「わからないんです。大樹、帰ってこないんです」
容子は膝の上で両手をきつく握り締めながらうつむいた。
「帰ってこないって……。家出って事ですか?」
平田は驚いて、目を瞬かせる。容子はうつむいたまま肩を震わせている。
平田は言葉を失った。
本命の高校の願書提出が目前だった。それを促しにやってきたのだ。まだ迷っているようなら一か八かで志望校を推し、同時に二次募集を募っている高校のリストを見せるつもりだった。
「友達の家とか、ご親戚の家とか」
容子は無言で首を横に振った。
「いつからです?」
「……懇談があった日の夜に」
もう十日以上経っている。
平田は予想外の話の展開に戸惑っていた。教師生活も三十年以上経つと生徒の家出などという話にも何度か遭遇してはいたが、入試の直前というのは初めてだった。
「警察には?」
「主人が届けました。でも、まだ、何の連絡もなくて。」
容子は顔を覆った。
「ひどい喧嘩を……してしまったんです。なんでこうなったのか、わからないんです。でも、きっと私が悪いんです。どうしたらいいんでしょう。取り返しのつかない……。」
くぐもった泣き声が静まり返ったリビングに響いた。平田はなすすべもなく、目の前の容子を見つめるしかなかった。
結局、詳しい話も聞けないまま平田は浅川家を後にした。泣きじゃくり続ける容子を前に、気の利いた言葉の一つも思いつかなかったことが情けない。暗くなったマンションの廊下に響く自分の足音を聞きながら、校長にどう報告しようとぼんやりと考えた。
それから二日後、再び平田が浅川家を訪れた。容子は相変わらずやつれた生気のない顔で平田を迎え入れた。
「あれから何か連絡はありましたか?」
平田はそう聞いてから、くだらない事を聞いたと少し後悔する。容子の様子を見れば、なんの進展もないのは明らかだった。取り繕うように言葉をつなげた。
「実は校長にだけは報告させていただきました。私達としてもできる限り力になりたいと思っています。これから出願や試験は勿論ですが、なにより卒業式を控えていますし」
容子は青白い顔で頷いた。
「何か協力できることがありましたら遠慮なく言ってください。それと、これを……」
平田はカバンの中からプリントを一枚出した。広げて容子の方に向けて差し出す。
「うちの学校に定期的に来ているカウンセラーのスケジュールです。予約が必要ですけど、一度お会いになってみてはいかがですか」
容子はプリントに視線を落とした。
「カウンセラー……ですか」
あまり興味がなさそうな声だった。
「臨床心理士が担当しています」
容子は上目遣いで平田を見た。その表情は大樹によく似ていた。
「そんな、他人に相談してどうにかなるものですか……」
「私も直接カウンセリングを受けた事はないのでなんとも言えませんが……。」
平田はまっすぐに容子を見た。
「経験的な話ですが、悩みを抱えている子供達は誰かにその想いを伝えたくてしかたないんです。ただ誰にその想いを訴えればいいのかわからない。親や教師というのは必ずしもその想いをそのまま受け止められる訳ではありませんからね。どうしても客観的になれないし、冷静にもなれない部分があります。でも、カウンセラーは彼らの言い分をしっかり聞いてそのまま受け止めてくれるみたいですよ。それがとても大切なことなのだと、教わりました」
容子は考え込むような表情を見せた。
「そしてそれは子供だけではなく、親御さんも同様です」
容子はまた目を伏せ、プリントを丁寧に折りたたんだ。
「息子が帰ってきてから……その時考えます」
当の息子がいないのに、こんな話を受け入れられるはずがない。それはわかっていた。平田は小さく頷いた。
「帰ってきますよ」
そう信じる事が大切なのだ。まずはそこを信じてやらないと始まらない。長年、思春期の子供と接しているベテラン教師としての直感がそう囁いている。
「大樹君が帰って来た時に、しっかりと受け止めてあげてください。お母さん」
平田は出来るだけ優しく聞こえるように言った。
容子がまた少し小さくなったような気がした。
「自信、ないです。どうやってあの子と接していけばいいのか。どうやってあの子を受け入れたらいいのか」
容子はそう呟くと、両手で顔を覆った。今は何を言っても響かないだろう。そして、また泣かせてしまったことを平田は悔やんだ。
平田が帰った後、容子はプリントを広げてみた。臨床心理士の名前と今月と来月の来校日、連絡先が書かれてあった。そう言えば少し前にこんなプリントを大樹が持って帰ってきたような気もする。その時はちらっと目を通しただけで、ゴミ箱に放り込んでしまった。
自分の家のトラブルを他人に公表するなど、容子にとっては考えられない事だ。身内の恥を表に晒すなど、とんでもない。
エリートでスマートな夫とよく出来た息子達。新しい綺麗なマンション。モデルルームみたいに洗練された部屋の中で、家族のためにお菓子を作る。つまみぐいする子供達を優しくたしなめるママ。まるで住宅会社のCMのワンシーンだ。
でも、それが自分にとっての理想の家族の姿だった。そして、浅川家はそんな家族なのだと、世間にも思って欲しかった。浅川さんのお宅って素敵よね。そんな囁きが周囲のママ友から聞こえた時の満足感と優越感。田舎の、窮屈な、息の詰まるような封建的な家で育った自分にとって、こういう生活こそが目指すべきものだった。
せっかくその理想がかなったのに、内側から崩壊していく事実が信じられなかった。
なんでこうなったのだろう。何が悪かったのだろう。誰が悪かったのだろう……。容子の思考はいつもの迷路の中へと埋没していった。
<続く>




