慟哭
容子は心配された後遺症も見られなかったので三日で退院した。容子がいなかった三日の間に、台所やリビングは新聞やコンビニの袋などが無造作にあちこちに転がり、雑然としていた。
「やっぱ、お母さんがいないと駄目だわ」
戸口で立ちつくしている容子の前で、友樹は慌てて散らかっていたゴミを拾いながら、へへへっと笑って見せた。
一家の主婦が不在だったせいもあるが、友樹と慎吾は二人して血眼になって大樹の行きそうな場所を訪ねて回っていたのである。自炊をする元気も、部屋を片付ける暇もなかった。
いつもなら散らかった部屋を見ると見るからに不機嫌になる容子だが、今日は無反応といっても良かった。白い、無気力な表情のままリビングのソファーに身体を沈めるとそのままぼんやりと宙を見つめて固まっている。テーブルの上の散らかりようも、テレビの上にうっすら溜まった埃も目に入らないようだ。友樹は片付けながら、ちらちらと容子の様子を窺がっていたが、ふと手を止めて溜息をついた。
「バイト、来週から行こうと思うんだけど……」
この三日間、家庭教師のバイトは休ませてもらっていた。
友樹の言葉も容子には聞こえないらしい。身じろぎもせず座ったままだ。
慎吾が病院から引き揚げてきた荷物を両手に提げて部屋に入って来た。
「もうバイト行くのか?」
「うん……。春から六年生っていうのが二人いるんだよ。中学受験する予定だから、そろそろ準備にかかってやらないと。親が必死でさ」
「そうか」
友樹は荷物を床に置くと、ちらりと容子を見た。容子はやはり無反応だ。一人で放っておけるような状態ではない。
慎吾はカバンの中の荷物を出しながら、渋い表情を浮かべていた。仕事を休んでいるのは友樹だけではない。容子が病院に担ぎ込まれてからずっと慎吾も会社を休んでいるのだ。大体の理由は部長には打ち明けたが、部下には自分の体調不良という事にしてもらっていた。
「……とりあえず、今週一杯は俺が家にいるから。お父さん、仕事に戻ったら?」
友樹はゴミを手に立ちあがると、台所に行き、大きなゴミ箱にそれを突っ込んだ。
「気になってんだろ? 年度末に休んでいる事」
「……」
慎吾は痛いところを突かれてますます渋い顔になった。
仕事よりも家族が大切。そんな事は常識だ。しかし、年度末の忙しい時期に、戦線離脱して迷惑をかけている。ふとそんな思いが胸をよぎると、不安で満ち溢れていた心の奥底から、ぷくぷくとあぶくのようにいら立ちが湧きあがってくるのだ。
「それに仕事してる方が気も紛れる。……ちょっと買い物行ってくるわ。冷蔵庫、空っぽだし」
友樹は二人には目もくれずに台所からすっと出て行った。
慎吾はのろのろと立ち上がると、洗濯物を抱えて居間を出た。脱衣場の洗濯機に服を突っ込む。
廊下に出ると目の前が大樹の部屋の扉だ。ゆっくりと扉を開ける。慎吾は大樹の部屋を眺めた。
ハンガーにかけてつるしてある制服、その下に置かれてあるトランペットのケース。机の上には参考書や教科書がきちんと積まれてある。
意外なくらいきちんと片付けられていた。自分や友樹は散らかすのが専門だが、大樹は案外几帳面なようだ。その辺は容子に似ているのだろう。
ベッドの上に腰をかけ、壁に貼り付けてある写真を見た。トランペットを手にした大樹と数人の学生が弾けるような笑顔でこちらを見ている。大樹も大きな口を開けて笑っていた。
「あいつ、こんな顔して笑うのか……」
こんな屈託のない笑顔を家で見た事がない。そう思った途端に胸が痛んだ。
大樹がどんな生活を送っていたのか、何を考えていたのか、どんな友人と過ごしていたのか、全く知らなかった。いや、知ろうとしなかった。
「何をやってたんだろうな、俺は」
慎吾は長い溜息をつきながらうなだれた。
それぞれの思いとはお構いなしに、時間は残酷なまでに規則正しく流れて行く。容子が退院して一週間が経ち、慎吾は会社に戻る事にした。
友樹もまた元の生活のパターンを取り戻そうとしていた。家に残される容子が心配なので、バイト先にかけあって、何軒かは担当を外してもらってはいたが、心は外に向いていた。いや、外に向いているというよりは、容子から逃げようとしていた。壊れたマネキンのような容子と同じ空間でずっと過ごす時間は、想像以上に自分にはきつい時間だった。薄情なようだが、今の容子を丸ごと包み込むだけの容量は自分にはない。友樹は自分の器の小ささを目の前に突きつけられたような気がしていた。
容子は日がな一日何をするでもなく、ぼんやりと台所の椅子に腰掛け、誰もいないリビングを見つめていた。掃除も洗濯も、食事の仕度もする気にならない。パートもしばらく休むと夫に連絡してもらっていた。
寒々しいリビングを見ていると、誰もいないはずの空間に大樹の姿が見えるような気がした。追い詰められた目をして振り絞るように叫ぶ大樹。
容子は震えながら頭を抱え込んだ。締め上げられた時の苦しみが喉元に甦り、荒い息を繰り返す。
あんな子ではなかった。あんな頑なな表情で自分を拒絶し、睨みつけるような子ではなかった。まして親に手をかけるなど、考えられない。大人しいけれど、素直で優しくて、いつも覗き込むように容子を見る、そんな男の子だったのだ。それがどこでどうなってしまったのだろう。
自分への問いかけだけが、壊れたレコードのように繰り返し頭の中に巡っていた。
勤務中の慎吾の携帯電話に、警察から連絡が入ったのは容子が家に帰ってから十日経ってからだった。自宅から百キロ近く離れた、県境を越えた町で大樹の自転車が見つかったという内容だった。路上に一週間以上放置されていたところをたまたま警邏の警察官が見つけ、登録番号を調べたところ持ち主が判明したのだ。
「その町に親戚とか友人とか、心当たりはないですか?」
「いえ……。まったく」
慎吾は首をかしげた。
電話の向こうの声は、
「向こうの警察署にも協力してもらって大樹君の行方を引き続き捜索します」
と、事務的に報告すると何の躊躇もなく切れた。
慎吾は舌打ちしながら携帯をポケットにねじこんだ。
「所詮他人事ってか。畜生」
吐き捨てるように呟くと、斜め前に座っていた女子社員が驚いたような顔で慎吾を見た。慎吾は慌てて笑顔を作ってみせた。
それにしても何故、そんな縁もゆかりもない町で自転車が見つかったのか。今まで一度も足を運んだ事もない、聞いたこともない町の名前だった。一体どんな気持ちでそんなところまで自転車を走らせたのか。そして今どこで何をしているのか……。
喉元に何か大きな塊がせりあがってくるようだった。耐えかねて思わず席を外し、休憩室の大きな窓から外を眺めた。
三階から見えるオフィス街は、色の少ない灰色の街並だった。枯れ木のような銀杏並木の下を、寒そうに首をすくめたコート姿のサラリーマンが足早に歩いていく。
視線を上げると、ビルの隙間から青い空が見えた。腹が立つくらいに澄んだ青が目に沁みて、ふいに涙がこぼれた。
<続く>




