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 年寄りは朝が早いというが、確かにその通りのようだった。今まで祖父母と一緒に暮らしたことのない大樹には年寄りの生態が、ある意味新鮮だった。

 朝四時ごろから武司は起きだして、ごそごそと家事を始める。四時なんて時間はこの時期、まだ真夜中みたいなものだ。その上、寒い。今時の気密性の高いマンションしか知らない大樹にとって、朝方のこの家の寒さはほとんど外と同じではないかと思えたが、起きる時間に合わせてエアコンのタイマーをつけるなどという技を武司は知らないようだった。何枚も服を重ね着して、その上に丹前を着こんで、まるでダルマみたいになりながら台所の石油ストーブに火を入れる。そしてヤカンをストーブの上に乗せる。居間で眠っている大樹に気を遣いながら、それでも時々積み上げた鍋を落っことしてみたり、ずるずると音を立てて茶をすすってみたり、部屋の隅に置いてある年代物のラジオのボリュームを上げて辛気臭い番組を聴いたりしている。

 朝刊が届くとそれを一通り読む。サラリーマン時代の名残か、株価や社会面などにも丹念に目を通しているようだった。それからおもむろに朝食を作り始める。その頃、大樹は起きる事にしていた。

 朝食が出来るとユキノの世話が始まる。朝っぱらから怒鳴りながらの日もあれば、穏やかにさっさと済む日もあるが、とにかくユキノを着替えさせて朝食を摂る。

 大樹が台所の後片付けをする間に、ユキノの洗顔や排泄など、武司は甲斐甲斐しく老妻の世話を焼く。時々買い物に出かけたりもするが、三十分もすると帰ってきて、またユキノの傍であれこれ口うるさく構う。

「ボケても女は女だ。汚い格好で一日過ごさせるなんて亭主として耐えられない」

 武司は時々そうこぼした。几帳面な武司には手抜きは到底許されない事のようだ。ユキノの昼夜が逆転しないように、きちんと一日のタイムスケジュールを考えて食事を作り、掃除をし、洗濯をする。完璧すぎる主夫ぶりだ。大樹の父親の慎吾などは、休みともなれば好きな時間に起き、好きな時間に遊びにでて、きまぐれに過ごしている。歳をとってもきっとこんな風にはならないだろう。

 午前中はなにかと忙しいが、昼食が終わって、その片付けが終わると、時間の流れは急にまったりとなる。ユキノは武司に連れられてトイレに行ったり、風呂に入れられたりする以外は居間のソファーに埋まるように座っている。うとうとしたり、大樹にトンチンカンな事を話しかけたり、テレビを見たりして過ごすのだった。

 大樹はユキノに付き合って居間で過ごしていた。武司の本棚から古い文庫本を出してみたり、テレビをぼんやり見たりする。テレビで流れているのはもっぱら二時間ドラマの再放送か、料理番組だ。大樹は意図的にニュース番組やバラエティー番組を避けていた。そういう番組がかかるととっさにチャンネルを変えてしまう。時々ユキノに、

「どうして変えるの?」

 と怒られたが、大樹は構わずにぱちぱちとチャンネルを変え続けた。一度武司にも、

「ニュースも見ないのか? そんなんでは後々困るぞ」

 と、たしなめられたが、その時も大樹は固い表情で無視をした。その様子から何かを察したのか、それから武司は何も言わなくなった。

 夕方になり表の公園に子供の姿がなくなると、大樹は車椅子にユキノを乗せて屋外の散歩へと出かける。その間に武司は部屋を片付け、夕食の用意をするのだ。

 暗くなった街を特に会話を交わすでもなく、ゆっくりと歩く。時々、ユキノは「昌平、寒くない?」とか「重いでしょう?」と、大樹を気遣ってくれる。それが大樹には妙に嬉しかった。

 毎日出て行くうちに、他所者の大樹にも少しずつ近所の様子がわかってきた。

 公園の前の道には寂れた時計屋があり、小さな薬局がある。もう少し先に行くと、古い理髪店がある。どの店も散歩の時間には閉まっているので繁盛しているのかどうかはわからない。しかしシャッターの錆の浮き方や、色褪せたテントから儲かってしょうがないという訳ではないというのは想像できた。

 かつては人通りも多くて、活気もあった事だろう。それこそ昌平が生きていた頃は……。人気のない暗い通りを歩きながら、大樹は古いフィルムのような幻を重ねてみる。

 そんな大樹の前で車椅子に座っているユキノは古い歌をくちずさむ。大樹の知っている唱歌の時もあれば、聞いたこともないような物悲しい節回しの歌の時もあった。

 ユキノの少ししゃがれた不安定な音程の歌を聴きながら、二人は夜の街を延々と散歩する。二人を照らしているのは蒼い月の光だけだ。太陽の光は今の自分達には眩しすぎた。

 散歩から帰ると三人で夕食を取る。ぽつりぽつりと大樹と武司が会話を交わし、武司がユキノに声をかける。静かな食卓だった。それでも不思議に暖かい空気がそこには満ち溢れていた。そして、まるで昔から今まで、途切れる事のなく当たり前のように流れ続けている時間のような気がした。


 いつもより遠くの大型スーパーへ買出しに行った翌日、武司は熱を出した。

「人混みに行ったから、どこかで風邪をもらったんだろう」

 熱で赤い顔をしながら武司は台所に立とうとしたので、大樹は慌ててそれを止めた。

「僕がするから、寝てて」

 武司は一瞬泣き笑いのような表情を浮かべ、大樹に背中を押されるようにして寝床に戻った。

 大樹は悪戦苦闘しながら朝食を作り上げた。目玉焼きは焦げていたし、味噌汁は相当辛かったが、武司は黙って平らげてくれた。ユキノはもともと味には頓着がなく、甘かろうが辛かろうが、食べ物であろうがそうでなかろうが関係ないようで、いつも通りの様子だった。

 熱があるにも関わらず、武司はいつもの通りユキノの世話をしていた。大樹も手伝えるところは頑張ってみたが、やはり下の世話や着替えとなるとどうしようもなかった。

 食後に飲んだ風邪薬が功を奏したのか、武司の熱は思ったよりも早く下がった。高齢だが、普段からよく身体を動かしている事で体力はあったのだろう。

「私に何かあったら、ばあさんが大変だからな。せめて一日でも私の方が長生きしなくては」

 武司はそう言って笑ったが、その言葉には切実な響きがあった。確かに二人とも八十を越えた年寄りだ。二人の命綱は相当使い古して、いつ切れても不思議ではないくらいに頼りない綱だ。どちらが先に切れるか。それを思うと気が気でないに違いない。歳を取るのも楽じゃないと、大樹は思った。

 それから二日ほどして今度はユキノが熱を出した。いつもならうろうろし始める時間になっても、妙に大人しく布団に入っていると思ったら熱があったのだ。

 食欲もないらしく、ベッドまで運んだ食事にもほとんど手をつけず、すぐに布団に潜り込んでしまう。

「食べなきゃ薬も飲めないよ。ね、おかあさん」

 大樹は布団を覗きこむが、ユキノは頭まで布団をかぶってしまった。何度声をかけても返事もしてくれない。

「クマの冬眠じゃないんだから……」

 大樹は困り果てて布団の上からポンポンと軽く叩いた。布団の下でユキノが小さく動いたが、出てくる気配はなかった。

 大樹はほとんど減っていない膳を下げて台所に戻った。

「仕方ないな。よっぽどつらいんだろう。……ナンとかは風邪ひかんと言うけどな」

 武司は溜息まじりにそんな皮肉を言いながら氷枕を作り始めた。

 大樹は居間のソファーに身体を沈めた。今夜は夜の散歩も中止だ。なんだか少しつまらなかった。

 

<続く>


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