四
武司は今まで通りユキノの身の回りの世話をする。風呂掃除や台所の片づけを大樹が手伝う事になった。家事を手伝ってもらえるというのは武司にとってはありがたい話だった。今まではトイレにさえゆっくり座っていられなかったのだ。大樹のおかげで、ほんの少し心にゆとりが生まれるような気がした。
こんな状況を民生委員のさえ子が知ったらきっと怒り出すだろう。訪問ヘルパーを入れれば済む話ではないか。確かに、その通りだ。
しかし家事ヘルパーは身内ではなく、仕事としてやってくる。自分の生活のために他人の家で家事をするのだ。もちろん、ボランティア精神に富んだ、本当に心優しい人もいるのだろう。だが、自分達が他人の生活の糧になるために利用されたり、他人の薄っぺらな同情の対象になるのはまっぴらだ。
その点、大樹は違う。歳老いて世間から忘れられた自分達の事を、大樹は必要としてくれている。自分達はまだ役に立っている。その事実が武司の冷たく固まりかけた心をほぐしてくれた。
一方の大樹はというと、この古ぼけた家の中で、不慣れながらも一生懸命雑用をこなした。それが『浅川大樹』ではなく、『坂本昌平』としての役割なのだ。
小学生の頃はよく母の手伝いをしていて、家の事をするのは実は結構好きだった。母と一緒に餃子を包んだり、米を研いだり、窓ガラスを拭いたり、友樹はいつも嫌々やっていたが、大樹はなんだか楽しかった。母の笑顔が嬉しかったのかもしれない。
それが中学生になってからはほとんどしなくなった。手伝いという言葉はいつの間にか勉強という血の通わない単語に変身してしまったのだ。母の口からは「手伝いはいいから、勉強しなさい」というセリフが毎日こぼれるようになった。その頃からだ。母の視線がどことなく冷ややかになってきたのは。大樹にとっての安らぎはいつの間にか家の中から消え去っていた。
世間から置いて行かれた老夫婦と居場所を失った少年。そんな彼らが突然家族として一緒に生活する。養子縁組などではなく、たまたま出会っただけの、互いになんの予備知識もなく、自然の流れでそうなったのだ。よくよく考えれば随分と奇妙な話である。
しかし、武司も大樹も自然にお互いの存在を受け入れる事が出来た。二人の間に不可思議な吸引力が存在しているのを互いに感じていた。その力をなんと名づけたらよいのか、それはわからない。強いて言うなら、必然……なのだろうか。
不思議なくらい穏やかに時間が過ぎた。大樹が居るおかげで、ユキノは自室に閉じ込められる時間が減った。居間で大樹と一緒に過ごしている時のユキノは穏やかで落ち着いていた。
大樹の姿を目にしては母親の優しい笑顔になり、
「戸棚におやつが入っているわよ」
などと声をかける。勿論そんなものは実際には無いのだが……。
大樹はユキノに「ウン」とか「ハイ」といった短い返事しか返せなかったが、それだけでユキノは満足なようだった。
冬の陽だまりのような暖かい時間がゆっくりと流れ、いつの間にか夜になる。
武司の作った食事を三人で食べ、大樹が食器を洗い、ユキノは武司に連れられて自室へと向かう。大樹は台所を片付け終わると、居間のソファーに腰を下ろした。
外は風が少し出てきたようで、時々雨戸がカタカタと鳴っていた。石油ストーブの上にかかっているヤカンがしゅうしゅうと音を立てている。大樹には、その音の中にかすかだったが人のうめき声が混じっているように聞こえた。心の中がざわめきそうになり、大樹はテレビのスイッチを入れた。無意味に賑やかなバラエティーの音声にヤカンの中のうめき声はかき消された。
しばらくすると、寝室の方でユキノの大声が聞こえてきた。
「またか……」
ユキノは部屋に一人でいるのが嫌いらしい。夜になると毎日のようにひと騒ぎするらしい。しかし、今は武司が傍にいる。わざわざ自分が様子を見に行くこともあるまいと思い、大樹はそのままテレビを見ていた。
やがて寝室の騒ぎは玄関に移動した。玄関の引き戸を激しくがたつかせる音と武司の苛立った声が響いてきた。その声は何回か聞いた中でも一番きついように聞こえた。
大樹はソファーから立ち上がって台所の扉から顔を覗かせた。
ユキノは薄いパジャマ姿で玄関のたたきに裸足で下りて扉をこじ開けようとしていた。武司はそのユキノの腕をつかみ、玄関の上に引きずり上げようとしている。
「誰かが来たのよ!」
「だから、誰も来ないと言ってるだろう。こんな夜遅くに一体誰が来るんだ」
「来てるじゃありませんか、声がしたでしょう!」
「いい加減にせんか!」
「痛い、痛い!」
ユキノは怒りながら武司の手を振り放そうとしていたが、自分の腕を掴んでいる武司の手の甲にきつくツメを立てた。
今度は武司が悲鳴を上げた。思わずユキノの腕から手を離す。その隙にユキノはまた扉に張り付き、力任せに揺さぶった。
「いい加減にしろ!」
武司がユキノの肩を掴み、乱暴に後ろに引っ張った。ユキノはよろめきながら武司の腕にしがみつき、今度は歯を立てた。
「何するんだ、この、莫迦が!」
武司は逆上し、ユキノの頭をコブシで叩いた。ユキノが悲鳴を上げながら頭を抱え込んだ。
「やめてよ!」
大樹は思わず叫んで二人の間に飛び込んだ。二人を引き離し、まだ殴ろうと腕を振り上げる武司を壁際に押さえ込む。
「昌平、どけ!」
「駄目だよ!」
大樹は夢中で武司を押しとどめた。ユキノはその場にしゃがみこんで子供のように泣いている。
「駄目だよ、もういいじゃない! そこまでにしてよ。頼むから」
大樹は渾身の力を込めて武司を押しとどめていた。
心臓が口から出てきそうだった。頭の中には自分と母親との諍いが連続フラッシュのように渦巻いている。
武司はしばらくぜえぜえと肩で息をしていたが、やがてずるずるとその場にへたり込んだ。そして、がっくりと肩を落とす。
「……何をやっているんだ、俺は」
力ない声だった。
大樹はふらふらと玄関を上がり、居間に戻った。ソファーの上に丸めてあったひざ掛けと丹前を持つと、玄関の二人の元へと戻った。
「少し外に行こう」
囁くようにユキノの耳元で声をかけると、ユキノは小さく頷いた。震えている肩に丹前をかけ、腕を通させる。泣きじゃくるユキノをそっと立たせ、玄関のあがりかまちに座らせた。冷え切った素足に靴を履かせる。
「ちょっと待って」
大樹は玄関の鍵を開け、扉を開けた。すぐ傍に畳んで置いてある車椅子を広げ、ユキノの前に持ってきた。ユキノは素直に車椅子に腰掛けた。大樹はひざ掛けをユキノの身体に巻きつけるようにかぶせ、武司が壁にかけておいてくれた自分のコートを着た。
「ちょっと散歩に行こう。寒いけど」
大樹はちらっと武司を見た。武司は放心した表情で小さく頷いた。
大樹は車椅子を外に出した。
凍てつく寒さだった。時々吹く北風に耳が痛い。
「寒いわねぇ」
さすがのユキノも肩をすくめた。その声は無邪気な子供のようだった。さっきまで混乱して泣きじゃくっていたのに、もう忘れているようだ。
「すぐ帰るよ。風邪ひくと困るから」
大樹も寒さに身体を固くしながら車椅子を押した。
冬の夜の街は静まりかえっている。公園の裸の木々が枝を振るわせる乾いた音が幽かに聞こえるだけだ。夜空にはびっくりするほど星がたくさん見えた。ちかちかと瞬いている。こんなに綺麗な夜空を見るのは久しぶりだった。
「寒いけど、綺麗ねぇ」
ユキノが呟く。
「外はいいわねぇ」
ユキノは冬の空気のように澄んだ瞳で辺りを見回している。大樹はふとユキノが正常なのではないかと思った。それほどユキノの表情は冴えていた。
公園の周りをゆっくり一周し、二人は家に戻った。車椅子ごと玄関に入ると、ふんわりと暖かい空気が二人を包みこんだ。
「暖かい!」
二人同時に言ったので顔を見合わせ笑い出す。大樹は笑いながらユキノに向かって手を差し出した。ユキノはその手を握り達がると、素直に寝室に入った。
微かな尿臭の漂うベッドにユキノは横になった。大樹は布団をかぶせてやる。布団の陰からユキノは母親の顔で大樹を見上げた。
「昌平、早く寝なくちゃ朝寝坊するわよ。明日の用意はもう済んだの?」
大樹は苦笑した。子供になったり母親になったり、おばあちゃんになったり忙しい事だ。
「うん。……おやすみなさい」
壁の電源をぱちりと消すと、豆電球の橙色の光が辺りをぼんやりと照らした。
大樹は丹前とひざ掛けを抱え、そっと廊下に出た。静かに扉を閉めて施錠する。このまま朝まで寝てくれたらいいのだけれど……と、心の中で祈る。
居間に戻ると武司がソファーに腰をかけていた。
「ベッドに寝かせて、鍵閉めておきました」
「すまない」
「いいえ」
テーブルの上には熱い茶が入れてあった。大樹は椅子に腰かけ、その湯飲みを両手で包んだ。冷え切った手に湯呑の熱さが心地よい。
「噛み付かれて、思わず殴ってしまった。……一瞬、我を忘れた。手を上げる事だけはすまいと思ってたのに」
武司が独り言のようにつぶやく。気の毒なほど落胆していた。大樹はなんと声をかけたらいいのかわからないまま、無言で熱い茶をすすった。
仕事が一つ増えるかな……。ぼんやりとそんな事を考えていた。
<続く>




