第6話:お風呂事情
アスワドは額を押さえたまま、小さく息をついた。
「……だいぶ脱線したが」
「はい」
「これからどうするんだ」
「そうでした」
真面目な顔になったミリヤムへ、全員の視線が集まる。
「眼精疲労を治そうかと」
沈黙。
「違う、そうじゃない」
アスワドが即座に突っ込んだ。
「ぶはっ!」
ルテオが吹き出し、チェルナーも肩を震わせる。
「治癒はあとで頼む」
「はい」
素直に頷くミリヤムを見て、アスワドは咳払いをした。
「今後の話だ……教会には戻れないだろう」
「……はい」
教会の礼拝堂、ルツィエの部屋、毎朝鳴り響く鐘の音、そして、ネストリ。
一つ思い浮かべるたび、胸の奥が締めつけられていく。
もう帰れない。
そう思うと、言葉より先に心が理解してしまった。
「これから、どこで暮らす」
ウルヤナに問われても、答えられなかった。
そんなことを考える余裕などなかったのだ。
「このまま魔域で暮らし続ければ、いずれ身体は魔素なしでは生きられなくなる」
ミリヤムは黙ったまま俯く。
その重い沈黙を壊したのは、ルテオだった。
「えー、いいじゃん。魔裔になろうよー」
「軽い!」
思わずツッコミが飛ぶ。
「私は助かるけどね」
チェルナーが頬杖をついた。
「治癒術を使える人が増えるもの」
「そんなに人手不足なんですか?」
「そんなに」
即答だった。
チェルナーの瞳がすっと細くなる。
「それに……まさか魔素適性を持つ聖職者が存在するなんて」
チェルナーの瞳が、興味深そうに細められる。
「聖力と魔素術の相互作用、治癒術との関連性……適性が発現する条件も気になるわね」
ぶつぶつと呟き始めたチェルナーに、ミリヤムは嫌な予感しかしない。
「血液検査も必要ね。魔力循環も測定したいし、長期観察も――」
チェルナーがにこりと笑った。
「解剖はしないから安心して」
「安心できません!」
ミリヤムは椅子ごと後ろへ下がる。
「実験はやめておけよ」
ウルヤナが呆れたように言った。
「失礼ね、ちょっと採血するだけよ」
「えぇぇ……」
「研がれて炊かれる?」
ルテオが楽しそうに言う。
「だから米俵扱いをやめてください!」
「白米になる?」
「なりません!」
「玄米?」
「なりません!!」
とうとうミリヤムは机をばんっと叩いた。
「そろそろ米俵から離れてくれませんか!?」
「諦めろ」
ウルヤナが真顔で答える。
「あなたが言うんですか!?」
「最初に言ったのは俺だ」
「開き直りましたね!?」
アスワドは額を押さえた。
教会を追われてきた少女が、すでにこいつらと普通に口喧嘩をしている。
適応力が高いのか、それとも周りが変人ばかりなのか。
(……後者だな)
「……もういい、俺が決める」
全員の視線が集まる。
「身の振り方が決まるまで、ここにいろ」
「え……」
「数週間程度で身体が魔素に依存することはない。考える時間くらいはやる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが少しだけほどけた。
ここにいてもいい。
そう言ってもらえた気がした。
「……ありがとうございます」
自然と頭が下がる。アスワドは小さく頷いた。
「チェルナー、お前のところで面倒を見ろ」
「オッケー。観察し放題ね」
「怖いです。独居したいです」
「チェルナーの家は風呂付きだぞ」
沈黙。
ミリヤムは真剣な顔で考え込んだ。
一秒。
二秒。
三秒。
「……お世話になります」
「風呂に負けた」
ルテオが肩を震わせる。
「お風呂は大事です」
ミリヤムはどこまでも真顔だった。
アスワドは再び話を戻す。
「滞在中は、魔域の住民の治療を手伝ってくれ」
「はい」
「長患いに苦しんでいる者もいる……聖職者ゆえ、反発されるかもしれんが」
教会の人間であり、聖女見習いでもある。
そんな自分を魔域の人々が簡単に受け入れるはずがない。
そのくらいは覚悟している。
「ルテオ」
「ん?」
「付き添いだ」
「えー。俺、忙しいし」
部屋中が静まり返った。
「あなたが一番暇でしょう」
「そうだな」
「そうだな」
チェルナー、アスワド、ウルヤナが立て続けに返す。
「そうなんですか」
ミリヤムまで加わった。
「みんなひどくない!?」
ルテオが悲鳴を上げる。
「働きなさい、王子様」
チェルナーに書類を押しつけられ、不満そうに受け取る姿を見て、ミリヤムは少しだけ笑った。
*
執務室を出ると、昼下がりの広場には子どもたちの元気な声が響いていた。
その中を、エーリカが勢いよく駆けてくる。
「ルテオ!仕事してるー?」
「してない」
ルテオは胸を張って答えた。
「だめじゃん」
「正論ですね」
ミリヤムも頷く。
「おい、お前どっちの味方だよ」
「正しいほうです」
即答だった。
エーリカはくすりと笑い、ミリヤムに気づいた。
「あっ、米俵のお姉ちゃん!」
「その覚え方やめてもらえます!?ミリヤムです」
「エーリカです!」
にこりと笑うその顔は、年相応の子どもそのものだった。
「そういえば、エーリカちゃんって、お姫様抱っこされていた子ですよね?」
「うん!」
ミリヤムが横を見ると、いつの間にかウルヤナが立っていた。
「エーリカちゃんはお姫様抱っこだったのに、私は米俵でした」
「何の話だ」
「森で拾われた時の話!」
エーリカが元気よく答える。
「私も最初は担がれたよ?足を怪我してたから、途中から抱っこだった」
「最初からじゃないんですか!?」
「最初は普通に荷物みたいだった」
「やっぱり!私だけじゃなかった!」
ミリヤムは思わず拳を握る。
「いや、途中で昇格してるけど」
ルテオが冷静に指摘した。
それはそれで悔しい。
やがてエーリカは友達に呼ばれ、元気よく駆け出していった。
「またねー!」
「はい、また」
その姿を見送りながら、ルテオが言う。
「エーリカも、ウルヤナに拾われた子なんだ。魔素術が使えるって分かって、親に捨てられた」
「……そんな」
「本人はもう気にしてないよ。ここが家だから」
ミリヤムは広場へ目を向ける。
友達と笑いながら走り回る姿は、少なくとも今は幸せそうだった。
「……ご両親が普通の人でも、魔素術を使える子が生まれるんですか?」
「生まれるよ。エーリカは、先祖に穢れ――」
ルテオはそこで言葉を止めた。
「……いや、魔素適性の高い人がいたんだろうね」
「魔素適性……」
「昔は人間と魔裔の間に子どもが生まれることも、今より多かったんだ」
「人間と魔裔の間に……?」
「うん。何代も経ったあとで、突然魔素適性の高い子が生まれることもある。先祖返りだね」
教会では、そんなことは一度も教わらなかった。
「魔域で普通に呼吸してる。それに、魔素術も使える」
ルテオは何でもないことのように言う。
「教会で育ったのに、そんな人間は普通いない」
自分の知らない遠い先祖に、魔素適性の高い者がいたのかもしれない。
「まあ、確かめようもないけどね」
「……そうですね」
ミリヤムは首から下げた聖印を握りしめた。
――絶対に使ってはいけません。誰にも知られてはいけません。
幼い頃、ルツィエから言われた言葉が蘇る。
知られれば、エーリカと同じことが自分にも起きていたかもしれない。
ルツィエは、そうならないよう守ってくれていたのだ。
*
やがて一行は、城塞の一角にある石造りの二階建ての家へ着いた。
「ここよ」
チェルナーに促され、ミリヤムは家を見上げる。
思っていたより普通だった。
怪しい研究所でも、地下牢がありそうな不気味な建物でもない。
窓には花が飾られ、小さな庭まである。
「普通のお家ですね」
「失礼ね。普通の家よ」
扉を開けると、ふわりと薬草の香りが漂った。
中は明るく片付いており、壁一面の本棚には薬瓶が整然と並んでいる。
暖炉の前には小さな食卓もあった。
「素敵なお家です」
そう言ったミリヤムの視線が、部屋の奥で止まる。
「……お風呂」
「あるわよ」
「お風呂……!」
ぱあっと表情が明るくなった。
「毎日入れるわよ。湯船もあるわ」
「素晴らしいです」
「いつまでもいていいわよ」
「実験体はご勘弁ください」
即答だった。
「失礼ね」
「違うんですか?」
「違わないけど」
「違わないんですね!?」
楽しそうに笑ったチェルナーが階段を指差す。
「二階の空いている部屋を使っていいわ。ただし、月に一回くらい採血」
「嫌です」
「週一」
「増えてます!」
「冗談よ」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん!?」
やはり独居のほうが良かったのではないだろうか。
だが、浴室には湯船がある。
「……まあ、いいでしょう」
「何が?」
「何でもありません」
教会を追われ、帰る場所を失った。
それでも今夜は屋根のある家で眠れ、温かい風呂にも入れる。
明日からは、自分の治癒術を必要としている人たちもいる。
先のことはまだ分からないが、とりあえず今日は。
「お風呂、お借りしてもいいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます!」
今までで一番元気のいい返事だった。




