05 研究者と聖女
アイオラが『繊麗の器』となって、まもなく十年が経とうとしていた。
眠りながら成長するアイオラは、今もどこかあどけない顔をしていた。
オリヴィエは、特別な用事がない限り、毎朝アイオラの眠る祭壇を訪れた。
ときには、幼い『移しの器』のシャノンとともに。
周囲からは、熱心に祈る聖女だと思われていただろう。彼女は知る努力を重ねていただけだった。
――丁寧に観察を続けたオリヴィエは、その変化に最初に気がついた。
オリヴィエは、長い蒼鉛色の髪をすっきりとまとめ、白い修道服に身を包み、彼の部屋の前にいた。
彼は、今や若手研究者の中心になり、忙しい身ではあったが、昨夕に先触れをしたところ翌昼には呼び出しがあった。
オリヴィエは、付き添った護衛に礼を言い、部屋の外で待つよう伝えた。
ノックをすると、間を置かずに「どうぞ」と声がした。
彼――エーレンフリートの私室には、整頓された本と、紙束が床にまで積まれていた。本棚は、きれいに並んだ本で埋められている。
情報に埋もれかけたその部屋の中央に、この部屋の主がたたずんでいた。
彼は、すらりとした体躯に黒い髪を一つに束ね、隙のない出で立ちをしていた。
オリヴィエは、勧められてソファに座った。
前置きもなく、話が始まる。
「驚きました。一体何に気がついたのですか」
彼は、手ずから淹れた茶を渡しながら尋ねた。
オリヴィエは、軽く会釈をして答えた。
「『器』の表面に、揺らぎのようなものを感じました。昨日の朝には、すでにその現象がありましたが、今朝の方が強く感じました」
エーレンフリートは、満足そうに口元を笑みの形にして言った。
「素晴らしい観察です。私が観測値から気づくよりも早く、貴方が私に連絡をくださったので、すぐに確信が持てました――『繊麗の器』の崩壊が始まろうとしています」
オリヴィエは表情を動かすこともなく、静かに頷いた。
カップの中には、深みのある澄んだ金色のハーブティーが注がれていた。ひと口飲むと、わずかに青みを含んだ、フローラルなカレンデュラの香りがした。
「それで、貴方の望みは何ですか。私が叶えられる範囲なら、お力添えいたしますよ。これまでの観察結果のご褒美と……最後の願いとして」
やはり、彼は自分が行っていた、朝の観察という日課に気づいていたらしい。
音もなくカップを戻すと、オリヴィエは真っすぐに彼を見た。こちらに向けられていた、彼の黒い目が細められる。
「それでは、お言葉に甘えて。『移しの儀』の場に、シャノンを同席させていただきたいのです」
彼女は、迷うことなく願いを口にした。
エーレンフリートはわずかに驚きを見せたあと、口元を手で隠すように覆った。
「それは、儀式の妨げになるリスクを伴うため、難しいですね」
答えに反して、喜びを隠しきれない声音で言う。彼には、この提案の意図が伝わったようだ。
オリヴィエは自身の『移しの儀』をもって、シャノンへ最後の学習の機会を与えようとしていた。
彼の態度から、要求は通ったも同然だったが、オリヴィエは表情を崩さずに続けた。
「シャノンは、祭壇から離れた場所に待機させます。『遍在の檻』は、距離が近い『器』を選ぶはずです。そうでなければ、過去に予定しないスペアが引き継いでしまう事故が起きていたはずです。そのような報告は、これまでの記録にありません」
「他のスペア達が、祭壇の間の外にいたからでは?」
試すような質問を向けられる。
「『遍在の檻』は、言ってしまえば大きな力の塊です。祭壇の間の壁は、抑止にならないのではないでしょうか。つまり、移される側の『器』は、儀式によらず『遍在の檻』からの『距離』で選ばれています」
「正解です」
エーレンフリートは、まるで、出来のいい生徒を前にした教師のように、今度は嬉しそうな表情を隠しもせずにそう言った。
「シャノンが儀式の間に入れるよう、私が手配しましょう。ああ、彼女が取り乱すようなことがあれば、すぐに退室させることになりますが……」
「それで問題ありません。でも、ご心配なく。シャノンは、最後まで知ることができるでしょう」
シャノンは、まだ八歳になったばかりだった。
それでもオリヴィエは、彼女なら自分が眠りにつくその瞬間を、見届けることができると判断した。
オリヴィエがカップを持ち上げると、金色の液体が部屋の明かりを反射しながら揺れた。
少し冷めてしまったその中身を、またひと口だけ飲んだ。
「……貴方とは、長い付き合いになりそうですね」
エーレンフリートが、オリヴィエの手元に視線を向けて言う。
「ええ。あなたが『もう結構』と仰っても、お付き合いいただきますので」
オリヴィエはそう言い終えると美しく微笑み、礼を言って退室した。
エーレンフリートは、彼女が出ていった扉をしばし見つめていた。
(ああ……最高にいい『器』ですね)
まもなく訪れる、彼の里程標に向け、最適なパーツがそろっていく。
「楽しみにしていますよ――オリヴィエ」
彼はそう呟くと、彼の持てる力をもって、完璧な仕上げに取り掛かった。
さいごまでお読みいただき、ありがとうございました。
この話は、本編
『国家転覆は狙っていません! ――家族を奪還したい弟は、学園に潜入し過保護な兄と姉に溺愛される―― 』
のスピンオフです。
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