第57話 レオンと、これからの国のかたちを語りますの
式典が終わると、人というのはどうしてこうも、同じことを何度も言いたがるのでしょうね。
あちこちから、握手、挨拶、社交辞令。ご苦楽シティのパンが美味だとか、港の活気が素晴らしいとか、数字を見て感心しただとか。
ええ、褒められるのは嫌いではありませんけれど、五回も十回も同じ言葉を浴びせられれば、さすがに食傷気味になりますわ。
「アメリア様、こちらに第二王都の商人ギルド長が」
「ラグランジュ殿、ライシア軍の補給担当が、ご挨拶を」
ユリウスとセバスチャンが、見事な連携で人の波をさばいてくれていなければ、今ごろわたくしは、名刺と笑顔の海で溺れていたところです。
「そろそろ、アメリア様をお返しいただけますかしら」
区切りの良いところで、わたくしは笑顔のまま一歩引いた。
「本日のところは、これ以上抱え込まれますと、明日からの仕事に支障が出ますので。続きは、第二王都南港でお願いいたしますわ」
そう言って、社交の輪を抜け出す。
向かった先は、公会堂の上階にある、小さなテラスだ。ここからは、港と街の灯りが一望できる。
扉を開けると、既にそこには一人分の背中があった。
「先を越されましたわね」
「やっぱり来た」
欄干にもたれて夜風に当たっていたレオンが、振り返って笑う。
「君、こういうとき、絶対に港が見える場所に来るから」
「数字と船と人の流れを、一度に眺められる場所は、そう多くありませんもの」
わたくしも隣に並び、欄干に肘を乗せる。
海面に、灯りが点々と揺れている。ご苦楽シティの港。その先に、闇に沈んだ水平線。さらにその向こうに、第二王都南港。
「さて。レオン」
「うん?」
「本日のところは、見事に国ひとつぶんの運転免許を、もぎ取ってこられましたわね」
「免許というか、共犯契約というか」
レオンが苦笑する。
「君の条文の積み方が容赦ないから、向こうの代理王族が、最後まで顔を引きつらせていたよ」
「条文は、契約書の骨格ですもの。骨が甘ければ、肉が腐ります」
「物騒な比喩をさらっと言うなあ」
レオンは夜空を仰ぎ、ひとつ息を吐いた。
「でも、これで、本当に境目が変わるね」
「境目?」
「国境のね」
彼は、港の灯りを見下ろしながら続けた。
「線としての国境は、そのままだ。地図の上の線は動かない。けれど、経済の境目は、今日からじわじわと動き始める」
ご苦楽シティと、第二王都南港。
名目上は国境を挟んだ別の土地。けれど、関税と規約と人材を共有すれば、実質的にはひとつの経済圏。
「ライシアの兵が、第二王都南港の門を守るわけじゃない。けれど、港の会計には、ご苦楽シティとライシアの目が入る」
レオンは指先で、宙に線を描いた。
「兵を送らずに、数字と契約で、ここまで入り込むのは、かなり思い切った一手だよ」
「武力で境界を変えれば、恨みと反発が百年単位で残りますわ」
わたくしも、同じように宙をなぞる。
「数字で境目をにじませれば、最初の十年は文句も出ましょうけれど、二十年、三十年経てば、人々の感覚のほうが、先に変わっていきます」
「今日は、やけに長いスパンで物を言うね」
「国ひとつぶんの帳簿を抱えたばかりですもの。少しくらい、年寄りじみても許されますわ」
冗談めかして言うと、レオンが横目でこちらを見た。
「君が年寄りなら、周りは化石だらけだ」
「その化石に囲まれて、わたくしたちはこれからも条文を積み上げるのですわよ」
笑いあったところで、少しだけ、風が冷たくなった。
テラスの上に、静かな時間が落ちる。
港のざわめきが遠く、波の音が近い。
「アメリア」
レオンが、不意に真面目な声になる。
「今日の演説、聞きながら考えていたんだ」
「わたくしの名演説に、何かご不満でも?」
「いや、むしろ、その逆」
彼は、欄干から身を起こし、こちらに向き直った。
「君が、自分の責任の一端も認めつつ、それでも前を向くって言ったとき、少し、怖かった」
「怖い?」
「普通、あそこまで背負い込んだら、どこかで折れると思うから」
レオンの瞳は、港の灯りを映し込んで揺れている。
「祖国での改革が潰されて、断罪されて、それでも今、別の形で祖国の帳簿に指を入れている。君が、もしどこかで『全部嫌になった』と投げ出したら、その瞬間に、この仕組みの半分は崩れる」
「それはまた、評価が過大ではございません?」
「過大評価じゃないよ。僕は、君の腕前も、君の面倒くさがりも、どちらも知っているから」
面倒くさがり。否定はできませんわね。
レオンは、少しだけ口元を緩めて続けた。
「だから、釘を刺しておきたかった」
「釘?」
「君が、この仕組みから降りたくなったとき、勝手にいなくならないように、ね」
その言い回しには、数字とも条文とも違う響きがあった。
「レオン。それは、つまり」
「仕事の話半分、個人の話半分」
彼は、真正面から視線を合わせてくる。
「僕は、この街と、この仕組みと、そして君に、賭けている」
港の灯りが、ふっと遠のいた気がした。
「この数年、一緒にやってきて、嫌というほど分かったよ。君の帳簿が動けば、人と物と金が動く。君が腹を決めれば、制度が形になる。その逆も、簡単にはいかない」
「褒めているのか、脅しているのか、どちらですの」
「どっちも」
あっさりと言い切るあたりが、この男の厄介なところですわ。
「さっき君は、国ひとつぶんの帳簿を抱える怖さを口にした」
レオンは、欄干を軽く叩く。
「その怖さを、一人で抱え込んでほしくない。僕は、政治と外交の側から、できるだけの土台を用意する。軍を動かさずに済む道を、制度で塞ぐ。それが僕の仕事だ」
「知っておりますわ」
「だから、君にも、僕に賭けてもらえないかな」
静かな声が、夜気の中に溶ける。
「君が暴れたくなったときも、君が怯えたくなったときも、同じ帳簿のページを見て、一緒に数字を追いかける相棒として」
仕事の相棒。
今さら、何を、と言いかけて、言葉が喉で止まった。
視線が、自然と彼の右手に落ちる。書類ではなく、ペンでもなく、欄干でもない。そこにあるのは、ただ伸ばされた掌。
「仕事だけじゃないけどね」
レオンは、照れたように笑った。
「君がこの街でどれだけ好き勝手に稼いでも、どれだけ面倒くさがりでも、どれだけ夜更かししても、その全部込みで隣にいたい」
「……ずいぶんと割の悪い投資先を、お選びになりますのね」
「高リスク高リターンが好きなんだ」
さも当然のように言う。
心臓がうるさい。数字で表せない鼓動など、久しく意識しておりませんでしたわ。
「わたくしは」
言葉を選ぶために、一度、夜の港を見下ろした。
船の灯り。倉庫の陰。自警団の巡回の足音。市場を片付ける人々の影。
ここ数年で、わたくしが動かしてきた数字の、具体的なかたち。
「お金と、美味しいご飯と、ふかふかのベッドが、何より大事ですわ」
「知ってる」
「恋愛など、その次。そのまた次くらいでしてよ」
「それも、知ってる」
レオンが、肩をすくめる気配がした。
「だから、無理に優先順位を変えろとは言わない。君の一番を、全部僕に寄こせなんて、厚かましいことも言わない」
「ずいぶんと謙虚な投資家ですこと」
「長期投資だからね」
彼は、差し出した手を引っ込めもせず、ただ待っている。
わたくしは、自分の掌を見下ろした。
ペンだこ。紙の角でついた小さな傷。インクの染み。
この手で、どれだけ人の財布を動かしてきたか。どれだけの帳簿に、数字を書き込んできたか。
「レオン」
「うん」
「退屈させない自信なら、ございますの」
「それは、もう、十分に証明されていると思う」
「ただ」
言葉を区切り、彼の目を見る。
「あなたとなら、お金も、ご飯も、ベッドも、今より少し、楽しく回りそうだとは、思いますわ」
レオンの目が、かすかに見開かれ、それから静かに細まった。
「それは、だいぶ良い返事をもらえたって、解釈していいのかな」
「勝手に解釈なさるのは、政治家の悪い癖ですわよ」
そう言いながら、自分の右手を、彼の左手の上にそっと重ねる。
指先が、少し震えていた。
寒さのせいか、緊張のせいかは、あえて考えないでおきましょう。
「契約書は、後日にいたしましょうか」
「契約書?」
「婚姻契約という形で、権利義務と解約条項を、きちんと条文化しておかないと。将来、面倒な訴訟沙汰になりますわ」
「やっぱり君だなあ」
レオンが、堪えきれないというふうに笑った。
「分かった。君が納得するまで、何十稿でも草案を書くよ」
「十稿を超えたあたりで、わたくしが飽きる可能性が高いですわ」
「そのときは、そのバージョンで締結だね」
ふざけたやり取りの裏側で、掌同士の温度だけは、確かだった。
国境の線。経済の線。帳簿の線。
それらとは別の、個人的な線が、静かに結ばれる。
「さあ」
わたくしは、手を離さずに言う。
「明日からは、第二王都南港の市場開きに向けて、本格的に走り出さなくてはなりませんわよ」
「うん。一緒に、走ろう」
「途中で転んだら、責任を取っていただきますからね」
「君が転んだら、僕も一緒に倒れるよ」
「それは、帳簿の安定性の観点からは、あまり褒められませんわね」
そう口では言いながらも、心のどこかで、その不安定さを、少しだけ心地よいと感じている自分がいた。
ご苦楽シティと、共同管理港。
国ひとつぶんの帳簿を前にして。
わたくしとレオンは、ようやく、同じページの余白に、自分たちの名前を書き込む準備を始めたのだと思う。




