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第36話 祖国の軍、給金遅配始まりますの

 ──人を動かすのに、きれいごとだけで済むのは、家族と恋人くらいですわ。


 それ以外は、だいたいお金と飯と安全で動きますのよ。

     ◇ 祖国・東部駐屯地 ◇


「……来ないな」


 乾いた風が吹き抜ける、前王国東部の駐屯地。

 粗末な兵舎の一角で、若い槍兵が、空になった財布を指で弾いてつぶやいた。


「今月も、給金支給日、延期だとよ」


 木箱を椅子代わりにして座っていた古参兵が、紙切れを放り投げる。

 そこには、官僚の気取った字で、こう書かれていた。


『諸般の事情により、兵士の給金支給を十日延期する。代わりに、将来の恩給支給額を見直し、有利に調整する予定である――』


「将来の恩給だってよ。笑えるだろ」

「将来まで腹がもたねぇんだよなあ」


 乾いた笑いが、兵舎に広がる。

 床には、磨り減った槍。壁には、手入れの行き届いていない鎧。

 なにより、兵たちの目の下には、くっきりとした隈。


「隊長殿は、なんか言ってたか?」

「王都も苦しいのだ我慢は忠誠の証だ……だとよ」


 誰かが、唾を地面に吐き捨てた。


「忠誠で腹が膨れりゃ、いくらでも見せてやるがな」

「おい、聞こえるぞ」


 そう言いながらも、たしなめる声に、以前のような力はない。

 そのとき、門の方から、怒鳴り声がした。


「おい、荷馬車を止めろ! ここは軍の――」


 続いて、鈍い音。怒鳴り声が、うめき声に変わる。

 兵舎の外に出た兵たちの目に飛び込んできたのは、村人たちの群れだった。

 やつれた顔。手には鍬や棒。中には石を握りしめている者もいる。


「給金は? 兵糧は? いつ払われる!」

「うちの小作たち、軍に貸した麦の代金、まだもらってねぇんだ!」

「お上からの紙切ればっかりで、銀貨が一枚も来ねぇ!」


 門番が、慌てて槍を構える。


「お、落ち着け! ここで暴れたって、なにも――」

「ここで暴れなきゃ、誰も聞いちゃくれねぇんだよ!」


 鍬の柄が、門番の槍をはじき飛ばす。

 もみ合い。怒号。泣き声。


 やがて、隊長が駆けつけ、どうにか村人たちをなだめて引き返させたものの――。

 地面には、粉々になった木箱と、踏みにじられた支給延期のお知らせだけが残っていた。


 戻ってきた隊長の顔色は、ひどく悪い。


「……王都は、次の内債が売れたら払うと言っている」


 そう告げる声は、兵舎の隅々まで届いた。


「次の内債って、いつだよ」

「知らん」


 隊長自身が、そう吐き捨てるように言った。


「だが、一つだけ言える。今ある兵糧と、今ある銭を、このまま王都へ送り続けたら、この駐屯地から先に干上がる」


 兵たちが、息を呑んだ。


「だから……」


 隊長は、拳を握りしめる。


「これからしばらく、徴発の一部を、ここで止める。『道すがら盗賊に奪われた』という形にして」


 ざわめき。


「隊長、それは……」


「分かっている。反逆と紙の上では書かれる行為だ。だが、死にたくなければ、どこかで線を引かねばならん」


 誰も、何も言えなかった。

 遠くで、教会の鐘が鳴る。

 正午の鐘。給金支給日を知らせるはずの鐘。

 しかし、鳴っているのは空の金庫だけだ。


     ◇ 王都・財務省執務室 ◇


「……また、軍からの給金遅配報告ですか」


 老財務卿は、机に額を押しつけたくなる衝動を、どうにかこらえた。

 白くなりかけた髭。皺だらけの手。机の上には、山のような報告書と、売れ残った内債の一覧。


「東部駐屯地、西部国境警備隊、南方警邏隊。すべて支給延期を通達済みです」


 部下の若い官僚が、震える声で報告する。


「十日後には必ず払うと約束しましたが……」

「十日後に払える根拠は?」

「……次の内債が売れれば」


 老財務卿は、目を閉じた。

 その次の内債とやらを、今日も誰も買っていないことは、さっき自分で確認したばかりだ。


「王太子殿下には?」

「軍には忠誠心がある今は試練の時だと……」


 若い官僚の声が、そこで力を失う。


「それから、民のために、もっと税を取れるところから取りなさいと」


 老財務卿は、ゆっくりと天井を仰いだ。

 そこには何もない。あるのは、過去の亡霊だけだ。

 若き日の自分に、財務卿の前任者が言った言葉。


 ──数字が読めぬ者に、財布を握らせるな。


 それを、守り切れなかった自分。



「……殿下のお側には、誰が?」


「リリアーナ様が。苦しい時こそ、民と兵士は王家のために耐えるべきですわと」


 甘ったるい声が、耳の奥で蘇る。

 民の味方と自称する少女が、兵士の胃袋の空洞を、見ようともしないままに笑っている顔。

 老財務卿は、静かに目を閉じた。


(アメリア嬢がいれば――)


 喉元まで出かかった言葉を、かろうじて飲み込む。

 そんなことを言ったところで、何も変わらない。

 彼女はもう、この国の帳簿を見ない。


 代わりに、隣国の小さな港町で、数字と人間を巻き込んで笑っている。


「……財務卿様」


 若い官僚が、おそるおそる声をかける。


「このまま給金遅配が続けば、兵たちの間で、横流しや徴発の中抜きが増えます。すでに一部の報告も……」


 老財務卿は、細い息を吐いた。


「兵士が盗むか、役人が盗むか。誰が先に盗むかの違いだけですな」


 苦い自嘲。


「止められますか?」


 若い官僚の問いに、老財務卿は首を振った。


「数字で止める術は、もう尽きました。残るのは、誰がどこまで責任を引き受けるかという政治の問題だ」


「では、我々は……」

「せめて、どこで何が起きているかを記録しておきなさい」


 老財務卿は、机の上の報告書を一枚持ち上げた。


「どこで給金が止まりどこで兵が暴れどこで村が干上がるか。すべて、数字と文字で残しておくのです」

「何のために、です?」


「あとから誰かが、この国の失敗を数え上げられるように。それしか、今の我々にできることはありません」



 若い官僚は、震える手で書類を抱え直した。

 彼の脳裏にも、同じ名前が浮かんでいた。


 ──アメリア・フォン・ラグランジュ。


 彼女なら、どうしただろうか。

 だが、それを口にする勇気は、誰にもなかった。

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