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第30話 ルールは誰の味方か(ユリウス視点)

──この街のルールは、いったい誰の味方なんだろう。


 市場の喧噪の端っこで帳簿を抱えながら、そんなことを考えていました。


 名前はユリウス・フォン・ノートン。前王国の、たいして目立たない伯爵家の分家出身。今は、ライシア王国自由都市――俗に言う「ご苦楽シティ」で、アメリア様の下で書記官見習いをしています。


 この街に来て数ヶ月。港はどんどん忙しくなって、数字は日々増えていって、ぼくの睡眠時間は日々減っていって――。


「ユリウスくん、そこの伝票、もう一度だけ確認してもらえる?」


 背後から声をかけられて、はっと我に返りました。


「あ、はい! すみませんレオン様、ぼんやりしていました」


 レオン・ハルトマン様。ライシア王国宰相補佐で、この自由都市の政治面を取り仕切っている人。ぼくから見れば雲の上みたいな人なのに、書類を手に市場に出てきて、一枚ずつ目を通しているあたり、すごいと思う。


「いいよ、寝不足だろうしね。……ただ、今日の分だけは特に慎重に、ね」


 レオン様の視線の先――今ごろ、広場の真ん中ではちょうど「一悶着」が始まっているはずだ。


 声が大きくて、態度も大きくて、財布もたぶん大きい人たちが、せっかく整えてきた市場ルールをぐらぐら揺らそうとしている。


 ブロイエル商会――前王国の、かつての「王家ご用達」貴族系商会。


 アメリア様の元・同僚みたいなもので、つまり……えっと、なんというか、ものすごく「相性が悪そうな人たち」である。


     ◇


 その「相性の悪さ」を目の当たりにしたのは、数刻前のことだ。


「ユリウス、行きますわよ」


 午前の事務作業が一段落したタイミングで、アメリア様が顔を上げた。


 机の上は、相変わらず「仕事の書類」と「お菓子の包み」と「昨日の紅茶カップ」が混然一体となっていて、セバスチャンさんが無言でカップを回収しながらため息をついている。


「市場、ですか?」


「ええ。お客様のご様子を、直に拝見しませんとね。ついでに、うちのルールがどの程度効いているかの確認も」


 アメリア様はそう言って、羽織っていた薄いケープをひっかけた。完全に出かける気だ。


「レオン様は?」


「もう行ってるわよ。先に自警団や市場管理人と打ち合わせしておきたいって。ほら、これ」


 レオン様が残していったメモを、アメリア様がひらひらと振る。


 『ブロイエル商会、屋台区画での動きが不自然。恐らく「名義分散」で一等地を押さえにかかる。現場確認を』


 短いけど、イヤな予感しかしない文章だ。


「名義分散……って、あの、前にアメリア様が言っていた、一人一枠しか借りられないなら、名前だけ別の人にして何枠も押さえるってやつですか?」


「ええ。覚えていて偉いですわ、ユリウス。ご褒美に、本日の地獄の外回りに同行を許可いたします」


 どこにご褒美要素があるのか、というツッコミは胸の内にしまっておく。


「セバスチャンは、留守番頼めるかしら?」


「はい。お嬢様が再び机に成果物を積み上げてお戻りになることは、想定済みでございますので」


 執事の皮肉を背中で受けながら、ぼくは帳簿とメモ帳を抱えてアメリア様の後を追った。


     ◇


 市場に着いた瞬間、違和感があった。


 いつもなら、魚の匂いと焼きパンの香りと、子どもの笑い声と、行商人の呼び声と――なんというか、雑多だけどバラけている音がするのに。


 今日の広場は、視線がある一点に集まっている。


 目立つ──というより「目立たせようとしている」一団。真新しい布で飾られた屋台が、通りのよく見える場所に、ほぼ一直線に並んでいた。


 樽に入った上等そうなワイン、香辛料、布地。どれも、前王国では「贅沢品」とされるような品ばかり。


 そして、その前で胸を張っているのが――。


「ほう。来たか、自由都市の財務卿殿」


 ブロイエル商会長、ギルベルト・フォン・ブロイエル本人だ。


 昨日、応接室で見たときと同じ、ぎらぎらした指輪と、ぎらぎらした目。


「まあ。さすが、目立つのはお得意ですわね」


 アメリア様の声色は、柔らかいのに、なぜか空気の温度が下がった気がした。


「うちの屋台が目立つのは、良い品を扱っているからだと自慢なさいますか? それとも、ルールの隙間を上手に突いているからだと?」


「ふん。隙間とは人聞きが悪いな」


 ギルベルト商会長は、鼻で笑った。


「見ての通り、我が商会の屋台は全部、別々の個人の名義で登録しておる。うちで丁稚をしている者たちにな。規約では、一人一枠だそうだからな。何か、問題でも?」


 市場の規約『一人が借りられる一等地は一枠まで。名前を変えて複数枠を取るのは禁止』。


 ……って、今朝アメリア様が黒板に書いていたような。


(あれ? まだ、紙の告知にする前だったっけ……)


 ぼくが頭の中で記憶をひっくり返していると、レオン様が静かに口を開いた。


「ギルベルト商会長。一等地の使用申請書、拝見してもよろしいですか」


「構わんとも。ほら、お前たち」


 呼ばれて、屋台の中から若い店番たちが、紙束を持って出てくる。立派な書式で、名前も……確かに全部違う。


 だけど、ぼくにはもう一枚、重ねて見えてしまう。


 昨日、徹夜で整理させられた「預かり所の口座台帳」。新規開設者の名前と、入金元の情報と、保証人の欄。


 そこに、確か――。


「……ユリウス」


 気づいたのは、ぼくだけじゃなかったらしい。レオン様が、さっとこちらを振り向いた。


「はいっ!」


「今朝まとめた新規預かり口座一覧、持ってきたね」


「もちろんです!」


 胸の前に抱えていた帳簿を、震える手で開く。徹夜で書いた細かい文字が、今ほどありがたいと思ったことはない。


「あ、あの……その、ここです」


 ぼくは指先で、ある欄を指し示した。


「今朝までの三日間で、新しく預かり口座を開いたギルベルト様の丁稚さんたちの記録です。名義はそれぞれ違いますけど……入金元が全部、ブロイエル本店口座になっています」


 そして、保証人欄には、同じ名前が並んでいた。


 ギルベルト・フォン・ブロイエル。


「……ふむ」


 レオン様が小さく息を吐き、アメリア様は、ほんの一瞬だけ目を細めた。


 ギルベルト商会長は、その様子を見て、逆に勝ち誇ったように笑う。


「保証人がいるのは当然だろう? こいつらはまだ若い。店を任せるにしても、資金管理には経験がいる。だから、わしが面倒を見ているだけの話だ」


「ええ、とても立派なことですわね」


 アメリア様の声が、やけに甘く響く。


「若い人たちにチャンスを与えるのは、素晴らしいことですわ。わたくしも、この街でそういう機会を作りたいと思っておりますの」


「ならば、問題なかろう」


 ギルベルトは、完全に「勝った」という顔だった。


 ――ここが分かれ道だ、ということくらい、さすがに鈍いぼくでも分かった。


 このまま「まぁいいでしょう」と見逃せば、「名義を分散して一等地を独占する」手法は、あっという間に広まる。貴族系の大商会は、みんなそっちに倣うはずだ。


 だけど、「名義が違うからダメです」と突っぱねれば、「現場で働いている若い丁稚たち」を締め出すことにもなる。


 ルールは、誰の味方であるべきなんだろう。


「――ユリウス」


 そんな疑問を見透かしたみたいに、アメリア様がぼくの名を呼んだ。


「は、はい!」


「この街の市場規約、一番最初に掲げている一文、覚えていまして?」


 黒板に何度も書き直した、あの文章。


 喉が、勝手に動いた。


「この市場は、小さな商いから順番に、誰でも公平に使えるようにします……です」


「そうですわ」


 アメリア様が、にっこりと笑った。


「それを守るために、わたくしたちはルールを作りましたの。一人一枠も、抽選も、全部そのため」


 それから、ギルベルト商会長へと向き直る。


「つまり、大きな商会が、名義を分けて枠を独占するのは、この一文に反しますの」


「ふざけるな」


 ギルベルトの声が、一段低くなる。


「規約には、名義を分けてはいけないとは書いてなかっただろう。勝手な拡大解釈をするな」


「ええ、書いてありませんでしたわね」


 アメリア様は、あっさりと認めた。


「ですので、今ここで、書き足します」


「なに?」


 周囲のざわめきが、一瞬だけ止まった気がする。


「市場規約、第一条、追記」


 アメリア様は、ユリウス――つまりぼくが持っている控えの紙をひったくるように受け取り、さらさらとペンを走らせた。


『一人が直接・間接を問わず支配する屋台は、一等地は一枠までとする』


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


「名義が違っても、お金の出どころと決定権が同じなら、それは一人分ですわ」


 ギルベルトの顔が、見る見る真っ赤になる。


「ふ、ふざけるな! そんなの、あと出しじゃないか!」


「あと出しですわね」


 アメリア様は、あっさり頷いた。


「あなた様が実演してくださったおかげで、必要な文言がはっきりいたしましたもの」


「……っ!」


「ご安心くださいませ」


 アメリア様は、くすりと笑う。


「ブロイエル商会だけを狙い撃ちなどいたしませんわ。この規約は、本日以降、すべての商会に同じように適用されますもの」


 その声が聞こえたのか、周囲で見物していた中小の商人たちの間から、小さなざわめきとため息が漏れた。


 安堵とも、納得ともつかない声。


(……あ)


 そのときになってようやく、ぼくは気づいた。


 さっきから、ギルベルト商会長の屋台の列の向こう側で、ぽつんと影になっている小さな屋台がある。


 あれは、昨日、やっと一等地に屋台を出せるようになったという、あの若い果物屋のお兄さんの場所だ。


 でも、今日だけ……「くじで外れました」と苦笑して、細い路地の方へ移っていった。


 その代わりに、一等地の真ん中を、ブロイエル商会の屋台がずらりと占めている。


 ルールがなかったら、こうなる。


「……っ」


 息を飲んだぼくを横目で見て、レオン様が小さく頷いた。


「ギルベルト商会長。誤解のないように言っておきますが……」


 穏やかな声なのに、逃げ場のない響きだった。


「あなたが悪いと言っているわけではありません。ルールが穴だらけなら、それを使おうとするのは自然なことだ。だからこそ、僕らはすぐに塞ぐ」


「その通りですわ」


 アメリア様が続ける。


「ルールは、お行儀の良い人のためだけにあるのではありません。ズルをしようとする人が出てくることを前提に作るものですの」


 そこで、一歩だけギルベルトに近づいた。


「ですから――あなた様は、とても良い教材でしたわ」


「こ、この……!」


 「教材」と言われて怒らない人はいないと思う。


 ギルベルト商会長は今にも噛みつきそうな顔をしていたけど、さすがにここで暴れたら「前王国ご用達商会」の看板に傷がつくと分かっているのだろう。歯ぎしりをしながらも、ぐっと拳を握りしめてこらえている。


「……いいだろう」


 しばらくの沈黙のあと、彼はしぼり出すように言った。


「この場は、それで飲もう。一人一枠の規約も、守ってやる」


 それを聞いて、周囲の空気がふっと緩んだ。


 しかし、続く言葉は、やはりというか、なんというか。


「だがな――」


 ギルベルトは、どこか薄笑いを浮かべた。


「ルールは誰の味方か、よく考えておくことだな、小娘」


 その目は、アメリア様ではなく、なぜかぼくを一瞬だけ刺すように見た。


「小さな連中にばかり肩入れして、大きな金づるを遠ざければ、街の成長は頭打ちだ。庇いきれる民の数だって、たかがしれている」


 そう言い捨てて、踵を返す。


「行くぞ。今日はこれで十分だ」


 ブロイエル商会の一行が、ざわざわと広場を後にしていく。背中を見送る商人たちの視線は、羨望とも、軽蔑とも、警戒ともつかない色だった。


 ぽつんと取り残されたみたいな空気の中で、アメリア様が小さく息を吐く。


「――さて」


 それから、広場をぐるりと見回した。


「小さな連中の皆さま。いまの話、ご納得いただけました?」


 一瞬だけ、誰も何も言わなかった。


 でも、最初に声を出したのは、さっき影に追いやられていた果物屋のお兄さんだった。


「あ、あの!」


 慌てたように手を上げて、でも、すぐに言葉に詰まる。


「お、俺、その……正直、怖かったです。あの人たちが全部一等地取っちゃったら、うちみたいな小さい屋台は、また日陰だなって……」


 その声に、何人もの商人が小さく頷いた。


「けど……さっき追記してくれて、その……ありがたいっていうか……」


「あと出しで悪かったですわね」


 アメリア様は、少しだけ肩をすぼめてみせた。


「本来なら、わたくしたちが最初からここまで考えておくべきでしたの。あなたたちに不安な朝を味わわせてしまったのは、わたくしの落ち度ですわ」


「お、おちど……」


「ええ、落ち度です」


 あっさりと言い切って、こほんと咳払いを一つ。


「その代わりと言ってはなんですけれど、あと出しで追加したルールは、必ず数字と記録で守ります」


 視線が、こちらに向く。


「ユリウス」


「は、はい!」


「預かり所と市場の記録、誰の屋台が、誰のお金で動いているか。全部、きっちり紐づけておきなさい」


「わ、分かりました!」


「それから、レオン」


「うん」


「規約の変更を、王都にも正式に通達しておいてくださる? 自由都市ではこういう基準で市場を運営していると」


「了解。いずれ前王国側から文句が来る前提で、先に根回ししておこう」


 レオン様が軽く笑って頷く。


 アメリア様は、再び商人たちの方へ向き直った。


「ルールは、誰か一人の味方であってはいけませんの」


 ゆっくりと、一語一語を噛みしめるみたいに。


「大きな人にも、小さな人にも、同じだけの味方であるべきですわ。税をきちんと払って、この街のルールを守る限りは」


 だから――と、続けた。


「もし、今日みたいに、ルールの抜け道”を見つけてしまったら。どうぞ、怖がらずに教えてくださいまし」


 ぼくの胸が、どくんと大きく跳ねた。


「そのときは、ルールの方を修正するのが、わたくしたちの仕事ですわ。あなたたちに、文句を言わせないためじゃなく、文句を言わずに済むようにするために」


 果物屋のお兄さんが、ぎこちなく笑った。


「……なんか、難しいことはよく分かんねえですけど」


「ええ、難しい話は、わたくしが好きでやっておりますから」


「でも、あと出しで悪かった”って言ってくれただけで、だいぶ気が楽になりました。次、なんか変だなって思ったら……また言います」


「ぜひ。あなた方の違和感は、わたくしの宿題リストですもの」


 笑い声が、少しだけ広がった。


 その場は、それでひとまず収まった。


 ギルベルト商会長の背中は、きっと遠くないうちに、またこの市場に戻ってくるだろう。


 でも、そのときには、今日よりも少しだけ「網目の細かいルール」が待っているはずだ。


     ◇


 夕方、執務室。


 机の上には、やっぱり書類とお菓子とカップが散らかっていて、セバスチャンさんが無言で片づけている。今日はもう、何も言わないらしい。


 ぼくは、今日の市場記録と預かり所台帳を見比べながら、アメリア様の横顔を盗み見た。


「……アメリア様」


「なにかしら?」


「今日、ルールは誰の味方かって、おっしゃっていましたよね」


「ええ、言いましたわね」


「正直、ぼく、よく分からなくなっていて」


 言葉を探すみたいに、ゆっくりと続ける。


「前王国にいた頃は、ルールって、偉い人の味方だと思っていました。法律も、税も、全部、上から降ってきて、ぼくらは従うだけで……」


 それが当たり前だと思っていた。


「でも、ここでは、困ったらルールの方を変えるって言っていて……。そんなこと、今まで考えたこともなくて」


 アメリア様は、ペンをくるくる回しながら、少しだけ目を細めた。


「そうですわね。前王国では、ルールは変えてはいけないものと教わりましたもの」


「はい」


「もっと正確に言うなら、偉い人にとって都合のよい部分だけは、変えてはいけないもの。都合が悪くなった部分は、こっそり変えられておりましたけれど」


 皮肉っぽい笑い方をする。だけど、ぼくにはそれが、ちっとも嫌な笑いに聞こえなかった。


「ユリウス」


「はい」


「あなたにとって、ルールって、なんですの?」


 突然の質問に、言葉が詰まる。


「え、えっと……その……」


 しどろもどろになっているぼくを見て、アメリア様は小さく肩をすくめた。


「別に、模範解答を求めているわけではありませんのよ」


「は、はい……」


「わたくしにとっての“ルール”は、面倒を減らす道具ですわ」


「道具……」


「そう。この線からこっちはダメですよと決めておけば、そこまでは好きにやっていい。いちいち喧嘩しなくて済むでしょう?」


 ペン先で、机の上に見えない線を引く仕草をする。


「だから、誰の味方か”と問われれば、喧嘩したくない人の味方ですわね」


「喧嘩したくない……」


「ええ。ルールがなければ、毎回殴り合いになる場所に、最初に線を引く。今日の市場みたいに」


 それで――と、続ける。


「線を引いてみた結果、それでも殴り合いが起きる場所”があったら、そのときは、線の引き方が悪かった”と認めるしかありませんわ」


 今日の、屋台一等地みたいに。


「だから、ルールは完成品ではなくて、未完成品ですの。現場で何度も削って、塗り直して、ようやくそこそこマシになる」


 アメリア様は、面倒くさそうに髪をかき上げた。


「……本当はね、全部一発で決められたら楽ですのよ? ぐうの音も出ない完璧な規約で、誰も文句が言えないやつ。わたくし、そういうのを考えるのは嫌いじゃありませんし」


 そこまで言って、ふっと笑う。


「でも、そんなチートな頭は持ち合わせておりませんの。今日みたいに、やられて初めて気づく抜け道も山ほどありますわ」


「でも、それを、認めましたよね」


 ぽろっと、言葉が出た。


「落ち度ですって。ああいうの、前王国では、見たことなくて」


「前王国では、落ち度を認めたら負け”でしたもの」


 アメリア様は、あっさり頷いた。


「でも、ここでは、落ち度を認めない方が負けですわ」


「え……」


「だって、ルールが悪いまま放置することになりますもの。今日みたいに、ちょっと怖い朝を、明日も、明後日も、誰かが味わうことになる」


 ……あ。


 ぼくの中で、何かがカチリと噛み合った。


「だから、ごめんなさい、ここはわたくしが悪うございましたとさっさと言って、さっさと直す。その方が、わたくしにとっても面倒が少ないのですわ」


 アメリア様は、肩を回して伸びをした。


「その代わり、ルールを変えた責任は全部、わたくしが取りますけれどね」


「責任、ですか」


「ええ。今日の追記で、大きな金づるがいくつか去っていくかもしれませんわ」


 ブロイエル商会以外にも、「同じことをやろうとしていた大商会」はいるはずだ。


「でも、小さな商いが怖がらずに済むという利益の方が、この街にとっては大きいと、わたくしは判断した。それだけの話ですわ」


 ペン先で机をとん、とんと叩く。


「その判断が間違っていたと数字が教えてくれたら、そのときはまた、ルールの方をいじるまでですの」


 そこで、ふっと笑った。


「……まあ、数字が教えてくれるまでの間、レオンたちにはだいぶ苦労をかけることになりますけれど」


「それは、お互い様ですよ」


 いつの間にか部屋に入ってきていたレオン様が、苦笑しながら口を挟んだ。


「あなたが線を引くから、僕らはその線に沿って警備や外交を組み立てられるんです。今日みたいに、さっさと認めてさっさと直す人の方が、僕は好きですよ」


「まあ。珍しく素直な褒め言葉ですこと」


「褒めたつもりは……半分くらいかな」


 レオン様とアメリア様が、軽口を交わす。


 そのやり取りを聞きながら、ぼくは自分のノートを開いた。


 ページの端に、小さく書く。


『ルールは喧嘩したくない人の味方』


 それから、もう一行。


『落ち度を認める方が、負けじゃない』


 前王国では、きっと一生かかっても辿り着かなかった結論だ。


 でも、ここでは、毎日みたいに、そういう「当たり前じゃないこと」を当たり前みたいに聞かされる。


 胃が痛いし、睡眠時間は足りないし、アメリア様とブロイエル商会長の口喧嘩を横で聞くのは寿命が縮むけど――。


 それでも、ここでなら。


 この街でなら。


 ぼくは、少しずつ、自分の中の「ルール」を書き換えていける気がした。


「よし。ユリウス」


「は、はい!」


「明日から、市場規約・改訂版の写し書き百部ですわ。各屋台に配って、読み書きできない方には、あなたの優しい声で読み聞かせてあげてくださいまし」


「ひゃ、百部……!?」


 やっぱり、この街は容赦がない。


 でも、ペンを握る手は、不思議と軽かった。


 窓の外では、今日も港に船が着く。


 ルールを抱えたこの街に、新しい商売と、新しい喧嘩の種と、新しい宿題を、山ほど積み込んで。

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