第25話 バルド商会と長期契約ですわ
朝、港に降りた途端、鼻先をくすぐる匂いがいつもより濃かった。
潮と麦と、魚と油――それに、軽く焦げた木の匂い。
「……動いておりますわね」
「はい。昨日から、東岸小港行きの荷を積み分け始めてます」
ユリウスが、手帳を片手に小走りでついてくる。
桟橋の一角、小ぶりな貨物船の周りに、バルド商会の荷車が列を作っていた。樽には、いつものG印とは別に、赤い小さな線が一本引かれている。
「あれが新航路便の印ですわね」
「へえ、見やすくていいじゃねえか」
樽に自ら印をつけていたバルドが、こちらに気づいて手を振った。
「おはようさん、アメリア嬢」
「おはようございますわ、実験好きな穀物商殿」
「おう、実験台から共同犯くらいには格上げされてぇもんだな」
がははと笑う親方の顔には、疲れよりもわくわくが勝っていた。
「で、一〜二割だけの約束は守ってやる。穀物のうち一割、塩と油も少し。残りはこれまでどおり前王国経由だ」
「結構。全部を一度に変える愚は、わたくしも一度味わっておりますもの」
「またなんかやらかした過去があるんですね」
ユリウスが小声で囁く。ええ、二度と新税三つ同時施行などいたしませんわ。
◇
積み込みが一段落したところで、わたくしたちは倉庫の陰に移動した。
バルドが、ごつい指で紙切れをひらりと掲げる。
「で、本題はこっちだな」
紙には、昨日レオンが草案を作ったご苦楽シティ港湾長期利用契約書(案)と書かれている。
「そんな大層な名前をつけるほどのものではございませんけれどね」
「長期契約ってだけで、こっちも覚悟決めなきゃならねえ気分になる」
バルドは、紙を指で叩いた。
「五年間、ご苦楽シティを主要寄港地のひとつとし、取引量の二〜三割を安定的に回す」
「ええ。代わりに、五年間、港湾使用料率と共同倉庫保管料率を、契約時の条件から一方的に上げない」
レオンが、横から補足する。
「ただし、この街全体の税制が変わる場合には、別途協議する」
「つまり、うちだけ急に値上げはしねえってことだな」
「そういうことですわ」
わたくしは頷いた。
「最初に信じてくれた常連には、それなりの“サービス”が必要ですもの」
「へっ。常連扱いってのは悪くねえ響きだ」
バルドは、紙を折り畳みながら、少しだけ真面目な顔になった。
「正直に言うとよ――」
「はい?」
「ここにこれだけ回して、本当に大丈夫かって、まだちょっと怖え」
ふむ。それは当然ですわね。
「前王国の港は、なんだかんだででけえし、歴史もある。ご苦楽シティなんざ、まだできたばっかの新参の店だ」
「ええ。老舗ではございませんわ」
「でも、老舗の厨房が火事起こしかけてるのも、見えてきた」
バルドは、顔をしかめた。
「兵の給金固まってるとか、港の倉庫代がいつの間にか倍になってるとか、妙な話が増えてきた」
「内債の利払いと、人気取り政策のツケ、ですわね」
ヘルマン殿が、通りがかりにぼそりと呟く。通りがかりとは思えないタイミングですわ。
「いつまでも前王国一本張りってわけにもいかねえ。どっかに、もう一本足場を作っておかねえと」
バルドは、拳を軽く握った。
「そのもう一本を、ここにするかどうかって話だ」
「ええ。予備の足場ではなく、二本目の柱にして差し上げますわ」
わたくしは、扇で港を示した。
「バルド商会の荷が、常に一定以上ある港という看板は、この街にとっても重要ですもの」
「看板、ねえ」
バルドが、何度か空を見上げてから、ふっと笑った。
「……分かった。五年間、二割保証で手を打つ」
「三割ではございませんの?」
「いきなり三割は怖え。でも、二割を五年って覚悟決めりゃ、その間にお互いの信頼も育つだろ」
わたくしは、肩をすくめた。
「よろしい。二割で始めて、三割に上げたいと思わせる港にするのは、こちらの仕事ですもの」
「うまいこと言いやがる」
バルドはがははと笑い、契約書に太いサインを書き入れた。
「よし。悪魔の港と五年の縁結びだ」
「その呼び方、そろそろやめていただきたいですわね」
「褒め言葉だろ?」
……まあ、悪魔と呼ばれるのにも慣れてまいりましたけれど。
◇
契約書の控えを預かり所の金庫にしまい終わったあと、ユリウスがぽつりと呟いた。
「なんか、お金の話をしてるのに、結婚式みたいですね」
「結婚式?」
「五年間よろしくって、誓いの言葉みたいで」
「ロマンチックなことを言いますわね、あなた」
レオンが苦笑する。
「でも、感覚としては近いですよ。簡単には切れない縁を作るわけだから」
「ええ。だから、離婚条件も最初に書いてありますもの」
わたくしは契約書の下段を指で叩いた。
「戦争や天変地異などにより、いずれか一方が約束を守れなくなった場合は、この限りではない」
「……そこまで書くんですね」
「最悪の場合の出口を書いておかない契約は、長続きいたしませんわ」
ユリウスが、少しだけ顔を曇らせた。
「戦争って、やっぱり、あると思いますか?」
「あるかもしれないと言えるくらいには、あちらの数字が悪化しておりますわね」
ヘルマン殿が、静かに頷く。
「内債が売れない。外から借りる余地も少ない。残る手は、誰かから奪う」
「それが、外の誰かか中の誰かか、ですわね」
レオンが、窓の外を見やった。
「中の誰かに向かった場合は、内乱。外の誰かに向かった場合は、戦争」
「どちらも、ご苦楽シティには飛び火してほしくないですわね」
わたくしは、扇でそっと風を送った。
「だからこそ、前王国を通らない線を一本増やしておく。万が一のときも、全部止まらないように」
「……保険、ですね」
ユリウスが、少しだけ納得した顔になる。
「五年契約も、その一部だ」
レオンが言った。
「前王国の港が止まった瞬間、どこに荷を回すか。バルド商会が迷わずご苦楽シティを選べるようにしておく」
「ええ。そして、ご苦楽シティの税とルールが、急に変わらないという保証もしておく」
わたくしは、机の上の新しい帳簿を開いた。
「この帳簿には、長期契約を結んだ商会の名を、別枠で記しておきますわ。この街の骨組みになる方々ですもの」
ページの一番上に、太い字でバルド・グランデル商会と書き入れる。
「骨組みか」
ユリウスが、その字を眺めながら言った。
「なんか、かっこいいですね」
「かっこいいかどうかはさておき、折れたら困る部分ですわ」
ヘルマン殿が、小さく笑った。
「骨を大事にするなら、筋肉も増やさねばなりませんね」
「筋肉?」
「ええ。他の中堅商会や現地の職人、移住者たちです」
「その比喩、今日はやたらと身体寄りですわね」
レオンが苦笑する。
「宿も工房も預かり所も、筋肉と見なせばそうなりますね」
◇
夕刻。
バルド商会の小さな船が、ゆっくりと港を離れていった。
帆には、まだ見慣れない青い旗が翻っている。ご苦楽シティの簡易紋章を染めた布だ。
「おい、なんで旗なんかって顔したな」
バルドが、横で腕を組んだまま笑った。
「……いえ、ちょっと可愛いと思っただけですわ」
「可愛い、ねえ」
「ご苦楽シティ便だとはっきり分かるほうが、我々としても都合がよろしいですもの」
レオンが、真面目な顔で補足する。
「港と港を結ぶ見える線になります」
「見える線か。そういう言い方は、少し好きだな」
バルドは、去っていく船影を黙って見送った。
「五年後、この旗の船が三隻四隻に増えてたら面白えな」
「そのために、今は仕込みをしているのですもの」
わたくしは、港に吹く風を一度吸い込んだ。
「五年後に笑うための契約。悪くありませんわよね?」
「悪くねえさ」
バルドは、にやりと笑った。
「五年後に笑えなかったら、お互い様ってこった」
「ええ。そのときは――」
わたくしも笑い返した。
「笑えなかった原因の数字を、一緒に眺めて反省いたしましょう」
「反省で済めばいいけどな」
「済ませるために、今から逃げ道と支え木を増やしておくのですわ」
◇
夜。
執務室で、新しい帳簿の一ページ目を見つめる。
長期契約商会台帳 一行目:バルド・グランデル商会 二割・五年
「これ、いったん始めたら途中で放り出せないやつですね」
ユリウスが、少し緊張した声で言った。
「ええ。放り出せないからこそ、やる価値があるのですわ」
ペン先で名前の上を軽くなぞる。
「五年後、このページがびっしり埋まっているのを見たいですわね」
「そのとき、僕は……」
ユリウスが、何か言いかけて口をつぐんだ。
「そのとき、あなたはまだ帳簿を書いているのか、別の何かをしているのか、ですわね」
「どっちだと思います?」
「両方ではなくて?」
「えっ」
「帳簿も書きつつ、もっと面倒なこともやっていただきますわよ。長期契約が増えれば、その分監査も増えますもの」
「聞かなきゃよかった……」
頭を抱えるユリウスの肩越しに、窓の外を見やる。
港には、まだ少し灯りが残っていた。
ご苦楽シティという店に、一本、長く伸びる仕入れの線が打たれた。
さてさて。この線を、いくつまで増やせるかが、腕の見せどころですわね。




