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第25話 バルド商会と長期契約ですわ

朝、港に降りた途端、鼻先をくすぐる匂いがいつもより濃かった。


 潮と麦と、魚と油――それに、軽く焦げた木の匂い。


「……動いておりますわね」


「はい。昨日から、東岸小港行きの荷を積み分け始めてます」


 ユリウスが、手帳を片手に小走りでついてくる。


 桟橋の一角、小ぶりな貨物船の周りに、バルド商会の荷車が列を作っていた。樽には、いつものG印とは別に、赤い小さな線が一本引かれている。


「あれが新航路便の印ですわね」


「へえ、見やすくていいじゃねえか」


 樽に自ら印をつけていたバルドが、こちらに気づいて手を振った。


「おはようさん、アメリア嬢」


「おはようございますわ、実験好きな穀物商殿」


「おう、実験台から共同犯くらいには格上げされてぇもんだな」


 がははと笑う親方の顔には、疲れよりもわくわくが勝っていた。


「で、一〜二割だけの約束は守ってやる。穀物のうち一割、塩と油も少し。残りはこれまでどおり前王国経由だ」


「結構。全部を一度に変える愚は、わたくしも一度味わっておりますもの」


「またなんかやらかした過去があるんですね」


 ユリウスが小声で囁く。ええ、二度と新税三つ同時施行などいたしませんわ。



 積み込みが一段落したところで、わたくしたちは倉庫の陰に移動した。


 バルドが、ごつい指で紙切れをひらりと掲げる。


「で、本題はこっちだな」


 紙には、昨日レオンが草案を作ったご苦楽シティ港湾長期利用契約書(案)と書かれている。


「そんな大層な名前をつけるほどのものではございませんけれどね」


「長期契約ってだけで、こっちも覚悟決めなきゃならねえ気分になる」


 バルドは、紙を指で叩いた。


「五年間、ご苦楽シティを主要寄港地のひとつとし、取引量の二〜三割を安定的に回す」


「ええ。代わりに、五年間、港湾使用料率と共同倉庫保管料率を、契約時の条件から一方的に上げない」


 レオンが、横から補足する。


「ただし、この街全体の税制が変わる場合には、別途協議する」


「つまり、うちだけ急に値上げはしねえってことだな」


「そういうことですわ」


 わたくしは頷いた。


「最初に信じてくれた常連には、それなりの“サービス”が必要ですもの」


「へっ。常連扱いってのは悪くねえ響きだ」


 バルドは、紙を折り畳みながら、少しだけ真面目な顔になった。


「正直に言うとよ――」


「はい?」


「ここにこれだけ回して、本当に大丈夫かって、まだちょっと怖え」


 ふむ。それは当然ですわね。


「前王国の港は、なんだかんだででけえし、歴史もある。ご苦楽シティなんざ、まだできたばっかの新参の店だ」


「ええ。老舗ではございませんわ」


「でも、老舗の厨房が火事起こしかけてるのも、見えてきた」


 バルドは、顔をしかめた。


「兵の給金固まってるとか、港の倉庫代がいつの間にか倍になってるとか、妙な話が増えてきた」


「内債の利払いと、人気取り政策のツケ、ですわね」


 ヘルマン殿が、通りがかりにぼそりと呟く。通りがかりとは思えないタイミングですわ。


「いつまでも前王国一本張りってわけにもいかねえ。どっかに、もう一本足場を作っておかねえと」


 バルドは、拳を軽く握った。


「そのもう一本を、ここにするかどうかって話だ」


「ええ。予備の足場ではなく、二本目の柱にして差し上げますわ」


 わたくしは、扇で港を示した。


「バルド商会の荷が、常に一定以上ある港という看板は、この街にとっても重要ですもの」


「看板、ねえ」


 バルドが、何度か空を見上げてから、ふっと笑った。


「……分かった。五年間、二割保証で手を打つ」


「三割ではございませんの?」


「いきなり三割は怖え。でも、二割を五年って覚悟決めりゃ、その間にお互いの信頼も育つだろ」


 わたくしは、肩をすくめた。


「よろしい。二割で始めて、三割に上げたいと思わせる港にするのは、こちらの仕事ですもの」


「うまいこと言いやがる」


 バルドはがははと笑い、契約書に太いサインを書き入れた。


「よし。悪魔の港と五年の縁結びだ」


「その呼び方、そろそろやめていただきたいですわね」


「褒め言葉だろ?」


 ……まあ、悪魔と呼ばれるのにも慣れてまいりましたけれど。



 契約書の控えを預かり所の金庫にしまい終わったあと、ユリウスがぽつりと呟いた。


「なんか、お金の話をしてるのに、結婚式みたいですね」


「結婚式?」


「五年間よろしくって、誓いの言葉みたいで」


「ロマンチックなことを言いますわね、あなた」


 レオンが苦笑する。


「でも、感覚としては近いですよ。簡単には切れない縁を作るわけだから」


「ええ。だから、離婚条件も最初に書いてありますもの」


 わたくしは契約書の下段を指で叩いた。


「戦争や天変地異などにより、いずれか一方が約束を守れなくなった場合は、この限りではない」


「……そこまで書くんですね」


「最悪の場合の出口を書いておかない契約は、長続きいたしませんわ」


 ユリウスが、少しだけ顔を曇らせた。


「戦争って、やっぱり、あると思いますか?」


「あるかもしれないと言えるくらいには、あちらの数字が悪化しておりますわね」


 ヘルマン殿が、静かに頷く。


「内債が売れない。外から借りる余地も少ない。残る手は、誰かから奪う」


「それが、外の誰かか中の誰かか、ですわね」


 レオンが、窓の外を見やった。


「中の誰かに向かった場合は、内乱。外の誰かに向かった場合は、戦争」


「どちらも、ご苦楽シティには飛び火してほしくないですわね」


 わたくしは、扇でそっと風を送った。


「だからこそ、前王国を通らない線を一本増やしておく。万が一のときも、全部止まらないように」


「……保険、ですね」


 ユリウスが、少しだけ納得した顔になる。


「五年契約も、その一部だ」


 レオンが言った。


「前王国の港が止まった瞬間、どこに荷を回すか。バルド商会が迷わずご苦楽シティを選べるようにしておく」


「ええ。そして、ご苦楽シティの税とルールが、急に変わらないという保証もしておく」


 わたくしは、机の上の新しい帳簿を開いた。


「この帳簿には、長期契約を結んだ商会の名を、別枠で記しておきますわ。この街の骨組みになる方々ですもの」


 ページの一番上に、太い字でバルド・グランデル商会と書き入れる。


「骨組みか」


 ユリウスが、その字を眺めながら言った。


「なんか、かっこいいですね」


「かっこいいかどうかはさておき、折れたら困る部分ですわ」


 ヘルマン殿が、小さく笑った。


「骨を大事にするなら、筋肉も増やさねばなりませんね」


「筋肉?」


「ええ。他の中堅商会や現地の職人、移住者たちです」


「その比喩、今日はやたらと身体寄りですわね」


 レオンが苦笑する。


「宿も工房も預かり所も、筋肉と見なせばそうなりますね」



 夕刻。


 バルド商会の小さな船が、ゆっくりと港を離れていった。


 帆には、まだ見慣れない青い旗が翻っている。ご苦楽シティの簡易紋章を染めた布だ。


「おい、なんで旗なんかって顔したな」


 バルドが、横で腕を組んだまま笑った。


「……いえ、ちょっと可愛いと思っただけですわ」


「可愛い、ねえ」


「ご苦楽シティ便だとはっきり分かるほうが、我々としても都合がよろしいですもの」


 レオンが、真面目な顔で補足する。


「港と港を結ぶ見える線になります」


「見える線か。そういう言い方は、少し好きだな」


 バルドは、去っていく船影を黙って見送った。


「五年後、この旗の船が三隻四隻に増えてたら面白えな」


「そのために、今は仕込みをしているのですもの」


 わたくしは、港に吹く風を一度吸い込んだ。


「五年後に笑うための契約。悪くありませんわよね?」


「悪くねえさ」


 バルドは、にやりと笑った。


「五年後に笑えなかったら、お互い様ってこった」


「ええ。そのときは――」


 わたくしも笑い返した。


「笑えなかった原因の数字を、一緒に眺めて反省いたしましょう」


「反省で済めばいいけどな」


「済ませるために、今から逃げ道と支え木を増やしておくのですわ」



 夜。


 執務室で、新しい帳簿の一ページ目を見つめる。


 長期契約商会台帳 一行目:バルド・グランデル商会 二割・五年


「これ、いったん始めたら途中で放り出せないやつですね」


 ユリウスが、少し緊張した声で言った。


「ええ。放り出せないからこそ、やる価値があるのですわ」


 ペン先で名前の上を軽くなぞる。


「五年後、このページがびっしり埋まっているのを見たいですわね」


「そのとき、僕は……」


 ユリウスが、何か言いかけて口をつぐんだ。


「そのとき、あなたはまだ帳簿を書いているのか、別の何かをしているのか、ですわね」


「どっちだと思います?」


「両方ではなくて?」


「えっ」


「帳簿も書きつつ、もっと面倒なこともやっていただきますわよ。長期契約が増えれば、その分監査も増えますもの」


「聞かなきゃよかった……」


 頭を抱えるユリウスの肩越しに、窓の外を見やる。


 港には、まだ少し灯りが残っていた。


 ご苦楽シティという店に、一本、長く伸びる仕入れの線が打たれた。


 さてさて。この線を、いくつまで増やせるかが、腕の見せどころですわね。







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