第14話 祖国からの見学者たち 〜ようこそ、ご苦楽シティへ〜
朝の港は、妙によそ行き顔をしておりましたわ。
潮と麦と、鉄と……それに、香水。
「……ユリウス。今日は、風向きが少し違いますわね」
「え? あの、潮風の話ですよね?」
「ええ。陸側から、妙な匂いが混ざってきておりますもの」
わたくしは窓辺から目を細めました。
港へ続く石畳の道を、見慣れない一団が進んで来ております。
上等な布をこれ見よがしに使った外套。金糸の刺繍。荷物は従者に持たせ、自分たちは日傘と扇だけ。
その後ろに、粗末ながら頑丈そうな荷車を引いた商人たちが数名。
ええ、見覚えのある絵面ですわ。
「前王国からの一行ですわね。商人団と……ついでに、貴族」
「ついで、なんですか」
「ええ。あの程度の家紋では、主役にはなりえませんもの」
扇をぱちりと開きながら、わたくしは踵を返しました。
「ジルクに港の出迎えを頼んでありますわ。わたくしたちは、少し時間をおいてから、ご案内に参りましょう」
「すぐには行かないんですか?」
「ええ。わたくしたちが忙しいという演出も、時には大事ですのよ」
追われる店より、待たせる店のほうが、よく繁盛しているように見えますでしょう?
◇
少し間を置いてから、役所を出て港に向かうと、ちょうど良い具合に場が温まっておりました。
「こちらが、例の自由都市というところかね」
「ふん……思ったよりは、人の気配があるが。まだまだ田舎町の域を出ん」
「しかし、税が安いとなれば話は別でしてな。わたくしどもとしては、ぜひ条件を――」
ジルクが、苦笑いを浮かべながらその間に立っております。
その前にいるのは、ふくよかな体をぎゅうぎゅうに詰め込んだ濃紺の上着に、やたら目立つ金の飾りをつけた男。そして、その脇に、帳簿らしき革張りの冊子を抱えた小太りの商人たち。
ふくよかな男の胸元には、小さな銀の紋章。
――あらまあ。
「これはこれは。お懐かしいお顔ですこと」
わたくしが声をかけると、男はわずかに振り返り、目を細めました。
「……誰かと思えば。ラグランジュ公爵家のご令嬢ではないか」
「ご紹介にあずかりましたのに、もう元でございますわ。今はただのアメリアとお呼びくださいませ、オルテンシア子爵」
そう、彼は前王国でも中堅どころの貴族、オルテンシア子爵。
商会をいくつか抱え、港町の利権をちまちまと食い散らかしていた、あの方ですわ。
「ふん。追放された身に、いまさら公爵令嬢を名乗る資格はあるまいな」
子爵は、鼻で笑いました。
「それで? こんな辺境で、小銭を数える仕事がお気に召しているのかね」
「ええ。毎日とっても充実しておりますのよ。小銭も積もれば国ひとつくらい買えますもの」
「なに?」
「いえ、独り言ですわ」
さらりと受け流してから、わたくしは子爵の後ろに控える商人たちに視線を向けました。
「そして、そちらが前王国からお越しの商人団の皆さま、ですわね?」
「は、はっ。○○商会のローデンと申します。こちらは××商会、△△商会の――」
彼らは慌てて頭を下げました。子爵と違い、目つきに緊張と好奇心が混じっておりますわ。
「ようこそ、ご苦楽シティへ。わたくしは、この街の財務と雑事を担当しております、アメリア・フォン・ラグランジュと申します」
一応、正式な肩書きも言っておきませんとね。
「財務と雑事……ずいぶんと安売りしているのだな」
子爵が嘲るように笑いました。
「王太子殿下の婚約者の座を追われて、行きついた先がこんな小さな港町とは。人の運命とは、実にわからぬものだ」
「本当に。人の運命は、わかりませんことよ」
わたくしは微笑みました。
「まさか、王都の華やかな舞踏会で威張っておられたオルテンシア子爵が、国境の小さな港町までお越しになる日が来るなんて、当時は夢にも思いませんでしたもの」
「……」
子爵の額に、一瞬だけピクリと青筋が浮かびました。ええ、気のせいではありませんわね。
その空気を読み取ったのか、レオンが一歩前に出ました。
「皆さま、ようこそ。我がライシア王国公認自由都市、ご苦楽シティへ」
レオンは実に丁寧に一礼し、柔らかい笑みを浮かべました。
「私は宰相補佐、レオン・ハルトマン。この都市計画の責任者のひとりです。本日は、視察と取引先調査とのこと、お手数をおかけいたします」
「ライシアの……宰相補佐?」
子爵が、わずかに目を見開きました。
「こんな場所になぜ、そのような者が」
「こんな場所だからこそ、ですわ」
わたくしが代わりに答えました。
「ここはまだ、真っ白な帳簿のようなものですもの。どの項目にどんな数字を書き込むか、最初が肝心ですわ」
子爵は鼻を鳴らしました。
「ふん……。まあいい。わざわざ足を運んでやったのだ。どの程度のものか、見せてもらおう」
「喜んで」
わたくしは、扇をひらりと振りました。
「ではまず、港と倉庫、それから市場を。ジルク、自警団から数名を案内役に回しなさいな」
「へい!」
ジルクは、子爵一行の後ろにつきながら、ちらりとこちらを振り返りました。目が「……大丈夫ですかね、アメリア様」と言っておりますわ。
大丈夫ですわよ。むしろ、ここからが本番ですもの。
◇
最初の案内は、港。
桟橋では、ちょうどバルド商会の船が荷を下ろしているところでした。
「おう、アメリア嬢!」
バルド本人がこちらに気づき、片手を上げます。
「今日はいつもより、派手な客を連れてるじゃねえか」
「ええ。見学者ですの。港の賑わいを、ぜひご覧いただきたくて」
わたくしが答えると、子爵はバルドを頭からつま先まで値踏みするように眺めました。
「……あれは」
「ライシアと前王国の間を行き来する穀物商ですわ。ご苦楽シティ設立前から、このあたりで活動していらした方。今では、この港の常連客ですのよ」
「常連客、ね」
子爵の唇が、軽く歪みました。
「大したことのない顔ぶれだな。うちの港でも見かけるような連中ばかりだ」
「ええ。今はそうかもしれませんわね」
わたくしはさらりと受け流します。
「ご覧くださいませ。こちらが、当港の関税と港湾使用料の一覧ですわ」
ユリウスが、用意しておいた板張りの表を広げました。
「船の大きさと積み荷の種類で、だいたいこのくらいの額に」
「ふむ」
子爵は、表を一瞥しただけで鼻を鳴らします。
「いくらか安いようだが、大した差ではないな。うちの港と同じように、書類の山と待ち時間で帳尻を合わせているのだろう」
「まあ、ひどい」
わたくしは、ひとつ大げさに肩をすくめました。
「オルテンシア子爵。あなた、本当にこの港をご覧になっていらっしゃいますの?」
「何?」
「書類の山も、待ち時間も、ここにはございませんわよ」
わたくしは、荷役場の窓口を指さしました。
木のカウンターの前には、数人の商人が列を作っていますが、その列はさくさくと進んでおります。窓口には、ジルクの弟分である真面目そうな若者と、ヘルマン殿から数字講義を受けたばかりの係が、手際よく印を押していました。
「うちの港では、三枚の書類で足りるようにしてありますの」
「三枚だけ、ですか?」
商人の一人が驚いて口を挟みました。子爵の一行の誰かでしょう。
「はい。船の情報、積み荷の種類と量、支払い方法。この三つが分かれば、税も使用料も計算できますもの」
ユリウスが補足します。
「前王国だと、誰と誰が紹介しているか。とか、過去にどこで何を仕入れたか。とか、王都の貴族との縁故。とか、山ほど書かされるんですが……」
「それは税ではなく、派閥のメモですわね」
わたくしは、さらりと言い切りました。
「ご苦楽シティで大事なのは、何をどれだけ運び込むか。と、いくら払うか。だけ。誰と仲が良いかは、税率には関係ありませんの」
商人たちの目が、一斉に輝きました。
「それは……ありがたい」
「うちみたいな田舎商会でも、条件は同じってことですか」
「もちろんですわ。出す金と売る品が同じなら、貴族でも行商でも、同じ列に並んでいただきます」
子爵の顔が、わずかに引きつりました。
「貴族を、平民と同じ列に?」
「ええ。ここは自由都市ですもの」
わたくしは、にこりとしました。
「もちろん、貴族の方々に特別扱いをしないわけではありませんわよ」
「ほう?」
「たっぷりとお金をお持ちでしょうから、より高価なサービスをご用意しておりますの」
たとえば、とわたくしは指を折りました。
「港の倉庫の最も安全で便利な場所を借りられる上客枠とか。街の中心近くに、広い屋敷を構えられる特別区画とか」
「それはつまり……高い金を払えば、ということか」
「ええ。貴族であること自体は、何の割引にもなりませんわ。割増になる場合はございますけれど」
子爵は、ぐっと言葉を飲み込みました。その肩越しに見える商人たちの顔が、一瞬だけ緩みます。
◇
次は市場。
朝よりも人が増え、通りには屋台と露店がぎっしり。先日決めたばかりの抽選制一等地には、見栄えの良い看板と派手な売り声が並んでいます。
「ここが……あの市場ですか」
商人のひとりが、感嘆の声を漏らしました。
「あの、とは?」
「前王国でも噂になっておりまして。税が安いだけでなく、市場の場所取りや価格競争が妙にうまく回っていると」
「妙に、とは失礼ですこと」
わたくしは笑いながら、広場の中央に掲げられた板を指し示しました。
そこには、簡潔な文字で市場のルールが書かれております。
「一等地は抽選。出店料は三段階。談合禁止。日替わりセール歓迎……ふむ」
ヘルマン殿がそっと近づき、板を読み上げました。
「かなり分かりやすいですね。これなら、字が読めない者にも口頭で説明しやすい」
「ヘルマン殿、補足説明を」
「はい」
彼は、子爵一行に向き直りました。
「通りに面した一等地は、出店料三倍。その代わり、人通りは他の三倍以上。固定枠は一・五倍。安い枠はそのまま。前からこの街で店を出していた者には、一度だけ抽選に無料で参加できる優先券を」
「……そんなことをすれば、古参が怒るのではないかね」
子爵が眉をひそめます。
「ええ。最初は少し、不満もありました」
ヘルマン殿は、さらりと言いました。
「ですが、抽選で一等地を引き当てた古参の魚屋が、その日の売り上げを見て言ったんですよ。三倍払っても、悪くねえな。と」
周囲から、くすりと笑いが漏れました。
「一等地に立つ覚悟と腕のある者は、喜んで三倍を払う。そうでない者は、安い枠で自分なりの工夫をする。どちらも自分で選べるようにしてあります」
わたくしは追加しました。
「そして、選んだ結果は、税と帳簿にきっちり記録されますわ。頑張っても損をする仕組みほど、商人を腐らせるものはありませんもの」
商人たちの表情が、目に見えて変わりました。
「……なるほど」
「うちの港でも、こういう仕組みがあれば」
「だが」
そこで子爵が口を挟みました。
「いくら仕組みを整えようと、この程度の規模なら、まだ遊び場のようなものだ。真に金が集まるのは、王都だよ」
ええ、そう来ると思っておりましたわ。
「もちろん、王都の規模にはまだ遠く及びませんわ」
わたくしは素直に認めました。
「ですが――」
そこで、わざと少し声を落とします。
「王都の金が、いつまで今の王都に集まり続けるかしら」
「何?」
「いえ、独り言ですわ。おや、あちらをご覧になって」
わたくしは、広場の端を指さしました。
そこには、最近出来たばかりの小さな看板。
『ご苦楽シティ預かり所 預ける・受け取る・支払う お気軽にどうぞ』
その窓口には、数人の商人が列を作り、証票らしき紙を受け取っております。
「あれは?」
「最近始めたばかりの簡易預かり所ですわ。金貨や銀貨を預けていただく代わりに、この街の中だけで使える証票を発行しておりますの」
「銀行、のようなものか」
「ええ。規模は小さいですけれど」
レオンが補足しました。
「安全と便利さを、少しずつ商品にしているところです。皆さんも、視察のついでに、いくらか預けてみてはいかがです?」
「ば、馬鹿を言うな」
子爵が即座に拒絶しました。
「こんな、いつ潰れるとも知れぬ小さな港町に、我が家の金を預けろと?」
「いつ潰れるとも知れない、ですって?」
わたくしは、目を細めました。
「まあ。そう思っていらっしゃるなら、どうぞそのままお帰りになっても構いませんのよ」
「……何だと?」
「ご心配なく。ご苦楽シティは、お金を預けたい方を優先してお迎えいたしますもの。預けたら逃げられそうだと疑っている方の金など、こちらもお断りですわ」
空気が、少しだけ張り詰めました。
商人たちが、子爵とわたくしたちの間で視線を揺らします。
「アメリア」
レオンが、小さな声で囁きました。
「挑発しすぎでは?」
「ええ。少し辛口すぎましたかしら」
まあ、たまにはスパイスも必要ですもの。
◇
案内はその後も続きました。
簡易宿――ヘルマン殿が一時的に滞在している建物を見せ、鍛冶屋とパン屋と酒場を回り、自警団の詰所ものぞかせます。
そのたびに、わたくしは「彼らが絶対に聞きたがる情報」だけを、丁寧に選んで差し出しました。
たとえば――
「この街の税率は?」
と聞かれれば、
「三年間はほとんど税を取らない代わりに、固定資産と売上の記録だけはきっちり取らせていただきますわ。その後は、記録を元に無理のない範囲で丁寧に上げていきます」
と答えます。
「いま、この街の人口は?」
と問われれば、
「公式には千数百。ですが、港に出入りする者や、短期滞在者まで含めれば、もっと多いでしょうね」
と、わざと曖昧に。
「この投資は、どこまでライシア王国が出しているのか」
と探られれば、
「ライシアからの初期投資は、港の整備と自警団の装備、それから最低限の役所建物まで。あとは、ほとんどご苦楽シティの収入で回しております」
と、自立している印象だけを強調する。
逆に、こちらが聞きたいことは、さりげなく会話の端々に紛れ込ませます。
「王都の景気はいかがですの?」
「最近、港の荷は増えております? それとも、減って?」
「内債の売れ行きは。あら、難しい話でしたかしら。最近、王国が国民から借りているお金の紙のことですわ」
子爵は、わざとらしく大きく笑いました。
「そんな細かいこと、私が知るものか。財務卿どもが勝手にやっておる」
ですが、後ろにいた商人のひとりが、ぽろりと漏らします。
「最近は、内債を買ってくれる連中も減ってきまして……。利回りがよくなってくれりゃいいんですが」
「ほう?」
レオンが、興味深そうに眉を上げました。
「利回りを上げれば、利払いも増えますね。財務省は、何か手を打って?」
「さあ。詳しいことは……」
商人は慌てて口をつぐみましたが、もう十分ですわ。
内債が売れなくなり、利率を上げざるをえない。つまり、前王国の財政の火は、確実に大きくなっている。
老財務卿、お困りでしょうねえ。
◇
日が傾き始める頃、一行は再び港へ戻ってきました。
「本日はお忙しい中、案内いただき、ありがとうございました」
ローデンと名乗った商人が、深々と頭を下げます。
「とんでもございませんわ。こちらこそ、遠路はるばるお越しいただき、感謝いたします」
わたくしも、にこやかに礼を返します。
「この街はまだ、ようやく扉を開けたところ。ご覧いただいた通り、空き地も問題も山ほどございます」
「しかし……」
ローデンは、少し迷ってから言いました。
「正直、驚きました。税も安いですが、それ以上に扱いが早い」
「書類も、手続きも、値段の決まり方も、すべてどうすれば分かりやすいかで決めているように見えました」
別の商人が続けます。
「うちの港で同じことをしようとしたら、前例がないって一蹴されますよ」
「でしたら、その前例を、ここで稼いでからお持ち帰りになればよろしいですわ」
わたくしは、さらりと言いました。
「前王国の港を動かすのは大変でしょう? でしたらまず、動かせる場所で試して、儲かった数字をお土産に帰ればいい」
商人たちの目が、一斉に輝きました。
「……なるほど」
「そりゃ、確かに説得しやすい」
「もちろん、最初から大きな荷をすべてこちらに、とは申しませんわ。五分の一でも、一割でも。実験のつもりで回してみてくださいませ」
そう、最初の一人さえ捕まえれば、あとは雪だるま。
そこへ、子爵が水を差しました。
「おい、貴様ら」
彼は、不機嫌そうに商人たちを睨みつけます。
「このような成り上がりの港に、そうそう大事な荷を回されては困るぞ。我が国の港の税収にも影響が出る」
「も、もちろん、その、そこは慎重に――」
商人たちが、慌てて口を濁しました。
ええ。ここが、彼らの立場の難しいところ。
しかし――わたくしは、あえて一歩、前に出ました。
「オルテンシア子爵」
「何だ」
「本日は、前王国からの視察団として、お越しくださいましたのよね」
「そうだ」
「でしたらぜひ、国へお戻りになったあと、正確な報告を書いてくださいませ」
「……正確な、報告?」
「ええ。ご苦楽シティは、想像よりは賑わっていたが、まだまだ小さな港である」
子爵の眉がぴくりと動きました。
「税は安いが、取引額はまだ少ない。今すぐ脅威になる規模ではない」
「……」
「だが、商人たちがここでは稼げそうだ。と口々に言っていた」
そこで、わたくしはにこりと笑いました。
「どうぞ、そのあたりを盛らずにお書きくださいな」
子爵は、何かを悟ったように、目を細めました。
「……貴様」
「貴様ではありませんわ。悪役令嬢財務卿とお呼びくださいませ」
わたくしは、あえて肩をすくめてみせました。
「前王国がこの街を脅威ではないと判断してくれるなら、それはそれで結構。本気で潰しに来るのは、もう少し後でしょうし」
「そして、その頃には――」
レオンが、静かに言葉を継ぎました。
「この街は、もっと大きく、もっと稼げる港になっている。そういうことですね」
「ええ。準備期間は長いほど助かりますもの」
子爵の表情からは、怒りとも警戒ともつかぬ色が消えませんでしたが、やがてふんと鼻を鳴らしました。
「好きに言っているがいい。私は王都に戻り、見たままを報告するだけだ」
「ぜひ、そうなさってくださいませ」
商人たちは、そのやり取りを聞きながら、どこか複雑そうな顔をしておりました。
ですが、その目の奥には――はっきりと、計算と期待が宿っております。
ええ、見えていますわよ。
◇
一行が乗ってきた馬車が、街道の向こうに小さくなっていくのを見届けてから、レオンがため息をつきました。
「……なかなか、疲れる相手でしたね」
「そうかしら? 程よい運動でしたわ」
わたくしは扇で首元に風を送りながら、港を振り返りました。
「どうでした? 視察の結果は」
「彼らがどう受け取ったか、ですか」
レオンは、少しだけ考え込みました。
「子爵は、まだ脅威ではないと高をくくっている。商人たちは、ここは本当に稼げそうだと内心思いながらも、すぐには大きく動けない」
「ええ。わたくしの目にも、そう映りましたわ」
「そして、前王国の内債は、やはり売れ行きが悪く、利回りを上げざるをえない。つまり、財政は前に聞いていた以上に、じわじわと追い詰められている」
「じわじわというのが、実に美味しいですわね」
急な崩壊より、ゆっくりと煮詰まっていく方が、素材の味もよく出ますもの。
「アメリア様」
隣で黙っていたユリウスが、そっと口を開きました。
「さっきの、正確な報告を書いてくださいって言葉……」
「あら、気になりました?」
「はい。あれってつまり――」
「こちらにとって都合の悪いところも、隠さなくていいですよ。という意味ですわ」
わたくしは、さらりと答えました。
「ご苦楽シティの税が安いことも、手続きが早いことも、商人たちが好意的なことも。全部、隠さなくていい。むしろ、しっかり書いていただきたいのです」
「そんなことをしたら、余計に警戒されるんじゃ……」
「ええ。ですから、まだ脅威ではないという一文も、きちんと添えていただきたい」
ユリウスは、ようやく合点がいったらしく、目を見開きました。
「……今はまだ小さいが、将来は分からない。だから、今のうちに軽んじておこうって、思わせる?」
「ええ。警戒心を過小評価に誘導しておけば、そのぶんこちらは自由に動けますもの」
レオンが、半ば呆れたように笑いました。
「あなたと仕事をしていると、やはり退屈する暇がありませんね」
「退屈は人生最大の損失ですもの」
わたくしは、再び港と市場を見渡しました。
今日一日で、この街はまた少し、外に対して顔を売った。
前王国の商人たちの帳簿にも、ご苦楽シティという名が、確かに書き込まれた。
そこから先をどう動かすかは――もう、彼ら次第ですわ。
「さあ。今日の記録をまとめておきましょう」
わたくしは踵を返しました。
「ユリウス、視察団応対記録を一冊、作りなさい。誰が何を見て、何を聞きたがり、何を口にしたか。できるだけ正確に」
「は、はい!」
「情報戦は、こちらの記録から始まりますのよ」
ご苦楽シティと前王国の間で、静かな情報戦が、今まさに幕を開けましたわ。
――さあ、次は本格オープンの準備ですわね。




