4 朝鮮鉄道へ
四 朝鮮鉄道へ
4月7日、忙しい日が続く中、母は一生懸命渡鮮の準備をしてくれていた。
何か忘れ物はないか、布団はこれでいいかなど細心の注意をはらってくれた。
弁当は大好物の巻き寿司だ。これなら三日くらいは持つだろうと言って
荷物になるくらい作ってくれた。
旅費は城津までの乗車券があるので一銭も要らない。
だが何があるかわからないと、一円札やら小銭やらを合わせて十円ほど用意してくれた。
更に十円札を三枚、盗難にあってはいけないと上着の襟に縫いこんでくれた。
就職のために出ていくのだし、それにまだ十四歳の少年にすぎないのである。
翌四月八日お釈迦様の日、そして晴れて私が就職のために旅立つ日。
五十埼駅には同級生はもちろん、親戚の者や近所の人たち、五、六十人は来ていたと思う。
大西先生はちょっと遅れ、すまんすまんと言いながら大股で追いついてきてくれた。
父と母は見送りに来てくれた人たちにお礼をしていて私とは何も話をしなかった。
だが私は母がいっときも私から目を離していないことを知っていた。
ホームに逆方向の汽車が入ってきて、何人か乗客を吐きだして出て行った。
隣の内子駅まで行って、今度は私を乗せるために折り返して戻ってくる。
皆の前で涙は見せたくない。それまで泣かずにいられるだろうかと思っていたが、
「武市くんはあれよりもっと大きな機関車に乗るんだよ」
と大西先生が知ったかぶりして話し出したお陰で、出そうになっていた涙も
出さずに済んだ。来て欲しいような欲しくないような列車は単線の小さな
故郷の駅に滑り込んできた。父母の方に顔を向けた。
「行って来い!がんばれよ!」と父。
「体に、体に気をつけるんだよ」と母。
「はい!行ってきます!」
私は姉と一緒に汽車に乗り込み、デッキに立った。先生の音頭で万歳が始まった。
「朝鮮鉄道ばんざい!武市くんばんざい!」
坂田くんや和泉くんやその他の級友も先生に続いた。
「朝鮮鉄道ばんざーい!武市くんばんざーい!」
万歳の大合唱の中、汽車は発車した。
発車するとすぐ踏切があり、道路をまたぐ短い鉄橋がある。
鉄橋が終われば信号機があって線路はカーブになり、見送ってくれた人たちは
もう見えなくなっていた。その途端、我慢していた涙が一度に溢れ出た。
恥ずかしくて客車に戻れない。姉は判っていたのかデッキに来なかった。
隣の喜多山駅まで十分くらいだが、恥ずかしいかな、泣きっぱなしだった。
喜多山駅は琴平様の祭り以外はほとんど乗客がなく無人駅である。
が、この朝ばかりはそうではなかった。十人あまりがホームにいた。
そのうち三人が乗って来て、そのうち二人は私と同じように大きなトランクを
持っている。この二人を送ってきた人たちが、
「朝鮮に着いたら便りを出せよ」と言っている。
もしかしたら、と思った。
気持もだいぶ落ち着いてきたので思い切って話しかけてみると、
就職先は朝鮮鉄道、しかも同じ城津機関区であると判り、
なんだもう仲間ができたと思った。柳沢村の市山くん、高崎くんという。
次の新谷駅でも二人同じように乗り込んできたが、
この二人は城津機関区よりもっと北の会寧の機関区だった。
五郎駅で予讃本線に乗り換えて松山へ。
途中、長浜で姉が降りることになった。どこまで行っても別れはつらいもの。
どうやら道連れもできたようだと少し安心もしたのかもしれない。
姉は自分がはめていた腕時計をはずし、私の手に握らせた。
「女物でいやかもしれないけどあげる。これを姉ちゃんだと思ってね」
いやなことなんてない、生まれて初めて持った自分の時計である。
12時頃、集合場所になっていた松山市堀之内の武徳殿に到着。
その後の予定を聞き、数時間後の高浜港発下関行きの乗船に備えた。
川の渡し船には何度も乗ったことがあるが汽船は初めてである。
不安を胸に6時乗船、夜の船旅となった。
市山くん高崎くんも、新谷駅から乗ってきた二人も一緒だ。
五人で甲板に出てみた。瀬戸内海の夜景はとてもきれいだった。
「武市くん、今何時だい?」
市山くんが訊くので、8時5分だよ、と教えてやった。
それからしばらくしてまた時間を訊く。
「8時26分だけど、さっきからどうしたんだ?時間ばかり聞いて」
「時計を見るときの武市くんの顔が面白いから聞くんだ」
これは一本取られたな、と照れ隠しに頭突きをお見舞いしてやった。
そんなにニタニタ嬉しそうな顔をしていたのだろうか。…していたかもしれない。
家を出て初めての夜は新しくできた友達と少しはしゃぎながら過ごした。
家でも今頃は十畳間に布団を敷きつめてゴロゴロ寝るころだろう。
今日からは誰が「布団を敷くぞー!」の号令を掛けるのだろう。
下関に着いたのは、翌朝6時半頃。12時間もかかっていた。
船だから目的の港へ直行するものかと思っていたが各駅停車のような船だった。
7時に下船し高台にある広い境内のあるお寺に引率された。
着いてみると何百人、いや千人以上が集まっていた。
北は北海道、南は沖縄まで全国から募集した朝鮮鉄道の卵が集まっていた。
ここが内地で最後の集結場所だった。
下関から釜山までは関釜連絡船で渡る。この夜、玄界灘は荒れていた。
港を出て間もなく船が揺れ始めた。船体が右に左に揺れるたびに、
ぎぎぃと軋む音と荒波を砕く、どんっという音が入り混じって恐怖だった。
三等席の畳の上に座ったときにはぎっしり満員だったのが、
船の揺れによって前に後ろにと、まるで滑り台にでも乗っているかのように流され、
船酔いが続出した。船の内部は二重三重にペンキが塗られていて、
そのペンキの匂いと嘔吐の匂いで堪らない。
「俺もう限界、だから玄界灘って言うんかな」
「あっちでもこっちでも同じようなダジャレ言っているぞ」
船内放送で対馬を過ぎれば静かになると知らせてくれた。
しばらくすると対馬を過ぎたのであろう、本当に船の揺れは収まった。
私たち五人はなんとか船酔いせずに乗り切った。
甲板に上がろうと思ったがこの連絡船は厳しくて、
甲板に出ることは許されなかった。




